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第17章 僕だけのための君
「何も。…泣くことはないじゃん」
営業終了後、夜の整体院の施術室。お客さんが面談の時に座るための丸椅子に腰かけて俯き、ぼろぼろと涙を流している川田。これまで十年の付き合いで見たこともない、想像したこともない姿に当惑しつつ、わたしは弱りきって思わず声をかけた。
「…でも」
奴は顔を上げることなく絞り出すように短く声を出したけど、それ以上は続かない。実に居心地悪く、わたしは施術用のベッドに浅く腰かけたまま落ち着かなく姿勢を変えた。
電話で連絡して早々の翌日。呼び出されてうちの自宅近くの星野くんの整体院に姿を現した川田は、問い詰められてあっさり自分の犯行を認めた。
「…初めはそんなこと。思いつきもしなかったんだ。だけど、たまたま海外から代行輸入で入ってくる薬剤にインチキが多いって警鐘を鳴らす記事の仕事があって。そこで出てきたピルが、茜が飲んでたメーカーのやつの偽物だな、って。…ふと気づいたら」
実際にネットで取り寄せたそのピルを使用してた女性が妊娠してしまった、って顛末を知って。それをわたしに使わせたらもしかして、避妊に失敗するかもしれないなって考えが頭に取り憑いて離れなくなってしまったという。
「それで、取材で知ったその問題のネット通販のサイトを調べてアクセスして。全く同じものを取り寄せて、茜のと試しにすり替えてみたら…。最初はひやひやしたけどお前は全然気づかなかったから。つい次の月も、その翌月もってなって、…やめられなくなって」
つまりはわたしがぼんやりしてて抜けてるからいけなかった。ってこと?
ぼそぼそと力なく独白する川田を前に、星野くんは自身はどこにも腰を下ろさずに険しい顔つきで立ちはだかっていた。奴の台詞が途切れたところで腕組みをした仁王立ちの姿勢のまま、聞いたこともないほど厳しい有無を言わさない声で言い渡した。
「どういう事情かはそっちの話ですし。問題なのは自分の思い通りにこの人をコントロールしようとして、本人が知らないうちに身体に重大な影響があるものを騙して飲ませるっていう…。これまであなたの存在をやむなく追認してきた僕の失態でもあるけど。はっきり言ってそういうことをする人物とはもうこれ以上、この人と付き合いを続けさせるわけにはいかないです」
やっぱりそういうことになるか。微妙に複雑な気持ちになるが、やむを得ない気もする。きっぱり断言した星野くんは、口を開いて何か抗弁しかけた川田を制するように更に冷たい声できつく問い質した。
「大体こんなことして、もし彼女の身体に何か異状が出たらどうしようかとか。全然事前に想像もしなかった?得体の知れないものを服用させて、酷い健康被害でも出たらどうするつもりだったんですか。…それがあなたにとって、大切な人に対しての通常のやり口なんですか?」
川田はそこで弾かれたように顔を上げた。
「違う。…そうじゃない、絶対。こいつの身体に支障が出ても構わないなんて。そんなこと俺が思うわけないだろ。そこは、…ちゃんと、考えたよ。信じてくれ、茜」
顔は星野くんの方に向けたままでいきなり声だけこっちに呼びかけられ、咄嗟に反応ができない。慌てて考え考え言葉を絞り出した。
「う。…ん。でも、あのさ。知らずに得体の知れないばったもんを飲まされたことは。こっちとしては事実なわけだし」
奴は言葉が喉に詰まってすぐには出てこない様子で、もどかしげにぶんぶんと首を振る。
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