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走って走って走って――
胸の痛みのあまり足が止まった。地面に落ちた染みが忌々しい。森正の顔を見た瞬間の喜びは絶望にとって変わった。
腕で乱暴に目をこする。
いったいこれからどうしよう。こんなところで夜を過ごすわけにはいかない。なんとかして家へ帰らなくては。
これ以上ないほどの緊急事態なんだから、母さんだって家に舞いもどっても追い出したりしないだろう。
「とりあえずバス停までいくか……」
金は一銭も持っていなかったが、理由を話せばきっとバスに乗せてくれるはずだ。交番にいって電話か小銭を借りて母さんに連絡を取ればいい。
歩き出そうとしたそのときだった。
「おい、木村!」
聞き覚えのある男の声が名前を呼んだ。肩がぎくっと飛び上がる。振り返ると、寮監督の岸田が道を走ってくるのが視界に映った。
逃げないと、いや、このまま待ちかまえて殴り飛ばしてやろうか。森正があんな人間になってしまったのも、このえげつない寮監督の影響なのかもしれない。だとしたら尚のこと許せない。
どうしようかと迷ったが、やっぱりここは逃げたほうが得策だ。岸田の腕がどれくらい立つのかわからない以上、下手にやり合うのは危険すぎる。万が一負けてしまって寮につれもどされたらシャレにならない。
「木村、いったいどうしたんだ! 寮を脱け出したところで、ここにはコンビニのひとつもないんだぞ!」
岸田はふたたび走り出した俺に向かって大声で叫んだ。
「うるせえ、この外道教師!」
街灯ひとつない田舎道をひたすらに走る。
俺の走力、脚力はかなりのものだ。腐りきった中年の男に追いつけるはずがない。森正ならともかく。
森正――
その名前を思い浮かべた途端、叫びたくなるくらい心臓が激しく痛んだ。心臓に空いた穴から血が流れている。森正が空けた穴から真っ赤な血がどくどくと。
俺は森正なんて大嫌いだった。俺よりも背が高くって、俺よりも少しだけ強くて、俺の心臓に穴を空けたあの男が、嫌いで嫌いで大嫌いだった。
「……はっ」
俺の知っている森正はもうどこにもいない。自由奔放で傲岸不遜な幼馴染み。嫌いで嫌いで大嫌いで、でも、大好きだった。
こんなことになるのなら石にかじりついてでも転校なんてしなければよかった。俺が傍にいれば、森正はきっと昔のままの森正だったはずだ。弱い者を虐げて楽しむような、そんな奴にはなっていなかったはずだ。
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