1006人が本棚に入れています
本棚に追加
/130ページ
牢屋にて
鉄の味がする。
目覚めの悪いその感覚に、ぞわりと背中を流れる悪寒が沈んでいた意識を静かに振り起こす。
心地よい風を頬に受けて、眠っていたスィルがゆっくりと目を開いた。
顔に当たる金色の草の柔らかな感触。さらさらと流れる静かな風の音だけが耳に響く中、横たわっていた地面から体を起こす。
一面に広がる黄金の大地の中で、スィルは一点の汚れのようにそこにあった。
長い紅髪が、ぶわりと巻き上がった風とともに後ろへと流される。
大地は風を受けて波打つように揺れていて、その音を心地良いと感じてスィルがまた目を閉じた。
ふと、遠くのほうから子供たちの笑い声が聞こえた気がした。
同時に鉄の味が強くなる。
次に目を開けた時、いつしかスィルの体は知らない少年のものへと変化していた。
濡れた口元に触れる。細く白い指が鮮やかな赤に染まった。
美しい景色の中、ひとり立ち尽くす。
スィルは、この景色を知らなかった。
「起きろ」
声と同時に浴びせられた冷水によって、拘束されたままの体がわずかに揺らいだ。
いつの間に眠っていたのか。冷水によってもたらされた冷たさに、顔を伏せていたスィルの歯が震えるようにカチリと鳴った。
ゆっくりと、重たいまぶたを開ける。あの美しい景色はいつの間にか消えていて、あるのは松明の火に照らされた濡れた石の床だけだ。
陽の光も入らない薄暗い空間。
顔にへばりついた紅髪を伝って、冷水が下へ下へと流れていく。舌を這わされているようなその感覚に、体の芯がぞわりと震える。
その嫌な反応に、ようやくスィルは自らの置かれる状況を思い出した。
長く続いていた隣国シアレンとの戦いに敗れ、この牢屋へと繋がれたのはいつだったか。
陽の届かないこの場所で時間を感じさせるのは、毎日一度だけ運ばれてくる食事と、拷問という名の痛みと快楽の時間だけ。
数えることを止めたスィルにとって、すでに時間はあってないようなものだった。
「だいぶ弱っているようだな」
聞き覚えのない低い声に、未だぼんやりとしている頭を上げる。揺れる視界に映ったのは、爆ぜる松明の火と、鉄格子の奥に立つ数名の影。
いつもこの体に鞭を打つ男の姿はなく、代わりに牢番と、見たことのない細身の服に身を包んだ男が二人、なんの表情も浮かべぬままスィルを見つめていた。
「獣は弱っている時ほど牙を剥くものです。くれぐれも油断なさらぬよう」
「獣か、面白い」
そう言って小さく笑った男が、一歩鉄格子へと踏み出す。
男が松明のすぐ下へと出たおかげで、スィルはその顔立ちを見ることができた。
異国の男だ。馴染みのないはっきりとしたその顔には、恐れを知らない自信に満ちた表情が浮かんでいる。
艶のある黒髪は無造作に、だが流れるようにかき上げられており、神が手を加えたような端正な顔立ちを一層引き立てて見せた。
美しい男だ。その美しさが、男の人間らしい表情を強く印象づけてくるようだった。
黄金に似た輝きを持つ瞳が、スィルの姿を凝視するように細められる。
「ペサの王よ。話を聞く意思はあるか?」
スィルにはこの男の正体が何となくわかっていた。
小国が散らばっていた北の大地を一つにまとめ上げた、かの連合王国クレハの王。
海を渡って来たその王はまだ年若く、しなやかで勢いのある姿はまるで黒豹のようだと、いつだったか牢番の男たちが話していたのを思い出す。
スィルはその黒豹という獣を見たことがなかったが、こちらを見つめるその目は、確かに人と言うよりも獣に近いと感じた。
音を立てずに静かに獲物へと忍び寄るような、そんな息遣いすら感じさせてくるようだった。
あの目にはこの体が、大層な獲物にでも見えているのだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!