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「瑛翠様!」
「待たせたな、小芳。では行こうか」
華奢な肩を抱き、軽く背中を押してやる。すると小芳は不安そうに瑛翠を見上げて言った。
「行くって、一体どこに……」
「ひとまずは私の屋敷だ。お前のお暇の許可も頂いたから何も心配することはない」
「これから私はどうなるのでしょう? 金蓮様が見つかったら、また王宮でのお仕事をいただけるのでしょうか」
「――それはまだわからんな。ともかく屋敷へ戻るぞ。長居し過ぎた。じき日が暮れる」
「……はい」
不安なのは瑛翠も同じだ。後のことを考えると、さっき胸から追い出したはずの弱気に、性懲りもなく捕われてしまいそうになる。
預けていた愛馬を引き取り、小芳と共に門を潜る。かろうじてまだ日は高い。だが闇は瞬く間に追いつき、すぐにでも瑛翠達を呑み込んでしまうだろう。
「――急ごう」
先に小芳を馬上に押し上げてから、自らも鞍に跨がると、瑛翠は因縁の場所から早々に立ち去るべく、馬に鞭を入れた。
なんとか日が落ち切る前に屋敷に到着した瑛翠は、慣れない乗馬と緊張の連続のせいで疲弊しきった小芳に風呂を勧めた。その間に手早く食事の準備をする。干した肉と塩茹でした野菜、小芳のために温めた山羊の乳、自分には酒を用意した。小芳が風呂から戻ってくると、彼を椅子に座らせ、二人で豪勢とは言い難い夕食を取る。
固い干し肉に悪戦苦闘する姿が微笑ましい。王宮ではこんな粗末な肉が膳に並ぶことはなかったはずだが、小芳は文句一つ言わずに食べている。
「無理して全部食べることはない。食べきれない分は残しなさい」
「いいえ、お膳に並ぶものは全部食べないといけないと教わりました。ここに並ぶまでたくさんの人の手と苦労を経ているのだから、みんなに感謝して食べなさいって」
「それは誰が?」
「私に道理を教えてくれるのは金蓮様しかおりません」
「――そうか」
無邪気に干し肉を頬張る小芳の顔に、かつての青年の姿が重なる。まだ年若い彼に食べものを粗末にするなと教えたのは瑛翠だった。人買い風情の言葉をいつまでも守り続けていた青年のいじらしさに、瑛翠の胸は引き絞られた。一刻も早く彼を見つけ出さなければと、気ばかりが急いてくる。
「時間がない。早朝にも出立することになるが手伝ってくれるか」
「当前です。私の命に代えても金蓮様を必ずや探し出して見せます!」
瑛翠に与えられた猶予は僅か三日。三日以内に彼を見つけられなければ、待っているのは死だ。しかし瑛翠が本当に恐ろしいのは死ぬことではなかった。
「――すまない、小芳。本当に……」
自分や小芳が罰せられることより、彼を失う方が恐ろしいのだと言ったら、この善良な少年はどう思うだろう。いっそ口汚く罵りでもしてくれたら、どんなに気が楽か知れない。彼のためなら自分はどこまでも冷酷になれる、それが瑛翠は怖かった。
「瑛翠様」
「なんだ?」
「お食事、おいしくいただきました。ありがとうございます」
見れば小芳の皿は綺麗に空けられていた。
「まだあるぞ。もう少し食べるか?」
「いいえ、もう十分です。金蓮様が苦しんでおられるかもしれないのに、私ばかりが恩恵を受けては罰が当たります」
「……疲れたな。今日はもう休もうか。寝床に案内しよう」
「ありがとうございます」
瑛翠は客間に寝具を運び、少年の骨の浮いた背中が痛まぬよう敷物を重ねてやる。
「しっかり休め。明日の朝早く、起こしにくる」
「明日はどこへ?」
「王都だ。どこへ行くにも、この場所を避けては行けない。目立つ方だから目撃した者がいるかもしれん。もっとも、いつものように頭巾で顔を隠されていたらそれも困難だが」
「そうですね、わかりました。ではおやすみなさいませ、瑛翠様」
「おやすみ、小芳」
扉を閉めてしまうと、耳が痛むほどの静寂が瑛翠を包む。昔は夜一人になる時間が唯一の拠り所だった。だが今はただ気鬱なだけだ。闇は不安を増大させる。あの青年を手放してから、瑛翠に真の安穏が訪れることはなかった。
食卓に戻ってきてみたものの、一向に食欲はわかない。寝酒がわりに果実酒を呷り、自室に引き上げると、瑛翠は寝台に体を投げ出した。
無理やり目を閉じ、交差させた腕で顔を覆う。瞼に浮かぶのは、まだあどけない顔をした、幼い頃の彼の姿だ。まだ絶望を知らなかった頃の。
「――っ、くそ……っ!」
後悔の波は、きまって夜にやって来る。
瑛翠は目尻を濡らす熱い雫を衣服の裾で乱暴に拭い、込み上げる嗚咽を喉の奥で噛み殺す。そうして夜が明けるまでの長い時間、押し寄せる不安に抗い続けた。
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