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一
劉瑛翠(リュウ・エイスイ)がその一報を受け取ったのは、早朝、日課の早駆けから帰ってすぐの事だった。
門前に見覚えのある人影を認め、愛馬を厩に繋ぐ暇も惜しんで、客人の元へと急ぐ。そこには屈強な武人と共に、瑛翠のよく知る少年がいた。
少年は瑛翠の顔を見るなりその場にくずおれ、冷たい石の床に額を擦りつける。
「一体何事だ、小芳(ショウホウ)。さあ、顔を上げなさい」
「どうぞ、どうぞお助け下さい、瑛翠様。ああ、私はどうしたら――」
小さな肩が哀れなほど震えている。瑛翠は少年のかさついた手を自身の手で包み、痩せた背中を擦ってやった。
「小芳、泣いていてはわからない。落ち着いて、順を追って話してくれ」
「瑛翠様……」
目を見て穏やかに語りかけると、小芳はその幼い顔をくしゃくしゃにして、瑛翠の腕に取り縋った。
「あの方が、金蓮様がどこにもおいでにならないのです……!」
その名を耳にするなり、瑛翠は我知らず目を見開いた。同時に忘れたはずの記憶の断片が次々に蘇ってくる。
一向に肉のつかない痩せた体。物憂げに伏せられた長い睫毛。かつて鳴かない鳥と呼ばれた彼の人は、今では耳に心地好い声で拙いながらも言葉を紡ぐ。
(いなくなった、あの子が……)
瑛翠は嫌な具合に逸りだした胸を手のひらで抑え、下唇を嚙み締めた。
「あの方がいないとは、一体どういう事なのだ、小芳!」
「申し訳ございません。申し訳ございません。お許し下さい、瑛翠様っ」
ぽろぽろと涙を零し始めた少年を目にして、瑛翠はようやく我に返る。一つ息を吐いてから表面だけでも冷静さを装い、嗚咽を上げる少年の肩にそっと触れた。
「――泣くな、大きな声を出したりして悪かったな」
「瑛翠様……」
「小芳、あの方がいなくなった経緯を詳しく話してくれないか。知っての通り、今この場で口をきけるのは私とお前だけだ」
この国の王に仕える武人は、みなすべからく喉を潰されている。外部に王宮内の事を漏らさぬようにと言うが、実際は王の威光を示し、臣下の忠義を計るためだった。
「頼む、小芳」
頬を伝う涙を手のひらで拭ってやりながら、もう一度少年に請う。すると彼は大きく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
小芳から聞き出した事の次第はこうだ。
朝、小芳はお務めを終えたあの方を、王の寝所にお迎えに上がった。いつものように、上掛けと顔を隠すための頭巾、そして専用の履物を持ち、寝所の前であの方が出てくるのを待っていた。しかし夜明け前には現れるはずが、今朝に限って夜が明けても出て来ない。辛抱強く待ち続けていると、王の使用人がお召し物を手にやって来た。普段ならば口をきくことなど許されないが、焦る小芳はこの使用人に事情を話し、あの方を外にお連れするよう頼んだ。
「お付きの方は中には陛下しかおられぬとおっしゃいました。金蓮様はお役目を終えて既にご退出されたと……。ですが私は自分のお役目を蔑ろになどしておりません。ご寝所から片時も目を離しませんでした!」
「私もお前が務めを怠ったとは思わない。ではあの方は一体どこへ行ってしまわれたのだろう」
「それは――、わかりません……」
小芳は力なく呟き、がっくりと項垂れる。ここに来るまでの間も、ずっと緊張し通しだったのだろう。露になった首筋はじっとりと汗が浮き、ほつれ毛が張りついていた。
憔悴しきった少年の姿を眺め、瑛翠は僅かに冷静さを取り戻す。みっともなくうろたえている場合ではない。あの方はもちろん、小芳を救えるのも、今や瑛翠ただ一人なのだ。
「なあ、小芳。いくら王宮を知り尽くしておられるとはいえ、見張りと憲兵の目を逃れる事は容易ではない。つまりあの方はいまだ王宮内におられるという事だ。違うか?」
瑛翠は自身の願いも込めてそう言い切った。すると小芳はその言葉に縋るように、「ええ、ええ」と何度も頷く。
「ともあれ、まずは陛下にご説明をしなければなるまい。私も同行しよう。支度を整えてくるのでここで少し待っていなさい」
「はい! ありがとうございます、瑛翠様」
応接間に小芳を残し、瑛翠は自室へと急いだ。その間も頭を占めるのは、突然姿を消した金蓮と呼ばれる美しい青年の事だ。
いつか彼がいなくなるかもしれないという予感はあった。そして瑛翠自身、心のどこかでそうなる事を望んでいたのだ。しかし願望が現実になってみると、喜びよりも不安が先に立つ。王宮という籠から出てしまえば、彼はただ美しいというだけの非力な青年だ 。
「どうか無事で――」
瑛翠は祈るように呟くと、いっそう足を早めて自室へと急いだ。
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