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 その日、瑛翠は眠る小芳を部屋に残して、日の明け切らないうちに宿を出た。  今日は約束の三日目だ。明日の同刻には、瑛翠は王の前で何らかの報告をしなければならない。いまだ青年の行方は知れず、決定的な手がかりすらない。だが不思議と瑛翠に焦りはなかった。諦めとは違う。言うなれば、焦点がようやく定まったというような、晴々とした心境だった。  明け方の路地裏には、酔い潰れて眠る男が幾人か、そして残飯を狙う猫くらいしかいない。薄暗い路地を何度か抜け、比較的大きな通りに出ると、目的の宿はすぐにみつかった。外から中の様子は見えないが、耳をそばだてても物音一つしないことから、まだ誰も起き出してはいないのだろうと瑛翠は察しをつける。  間口の大きな表ではなく裏手へ回り、椅子に腰かけ船を漕いでいる見張りの無防備な喉を、隠し持っていた短剣で一気に掻き切る。動かなくなった木偶を路地の脇に追いやると、瑛翠は音もなく建物の中に侵入した。裏口の男は可軒洪が側近くに従えていた男だった。あの男がわざわざ見張りをしているということは、可自身はこの場所にはいないのかもしれない。大方酒場で引っ掛けた女、あるいは男と褥を共にしているのだろう。  宿に限らず、この辺りの建物の間取りはどれも似たようなものだ。瑛翠は迷いのない足取りで最上階を目指し、階段から最も遠い、突き当たりの部屋へ向かった。  扉の向こうからは確かに人の気配はするものの、眠っているのか中は静かだ。瑛翠は扉に鍵がかかっていないことを確認すると、物音をたてないよう細心の注意を払って室内に忍び込んだ。だが予想に反して、中の人物は眠ってはいなかった。情事を終え、快い倦怠感に包まれている。室内に漂っていたのは、そんな気だるい空気だった。 「やはりお前が噛んでいたか」  いつまでもまどろんでいる一組の男女の姿に苛立ち、瑛翠は低く唸るような声音で呟く。闖入者にようやく気付いたらしい女が「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。 「物音がしなかったが、見張りはどうした? ――まさか殺したのか。何も殺すこたないだろうに」 「あいつは小芳に汚い手で触れた」  酒場で尻を撫でられた時の、小芳の怯えた瞳を思い出し、瑛翠は舌を打った。すると、物売りで人買いの袁暁明が、寝台の中からこれ見よがしに嘆息する。 「相変わらず一度懐に入れちまった人間には甘いな」 「こんな風にお前が勿体付けたりしなければ、下の男ももう少し長生きできたかもしれないがな」 「わかった、わかったからそう苛立つな。見ろよ、すっかり怯えちまってるだろうが」  袁にしなだれかかっているのは、酒場で可の膝に載っていたあの女だ。間男と瑛翠が知り合いだと知って、すっかり青褪めてしまっている。だが瑛翠は容赦しなかった。彼女が可の持ちものである限り、瑛翠にとって敵にも等しい人間だ。 「王宮にいた女が、こんなことくらいで怯えたりするか」 「まったく。無粋な輩は男からも女からも嫌われるぞ。ほら、これをやる。あんたの欲しかったもんだ」  にやりと笑いながら、袁がこちらに向かって数枚の紙束を放った。拾い上げた瞬間、そこに書かれた内容に瑛翠は思わず目を瞠った。 「お前、これは……!」 「感謝なら彼女にしろよ。俺への礼は、そうだな昨夜より濃厚なのを一回でいい」  勝手に脂下がる男を冷たく一瞥し、瑛翠は手にした紙束を今一度確認する。間違いない、王宮の見取り図だ。これさえあれば、あの場所から未鳴を救い出すことも不可能ではない。 「よくこれを渡してくれた……! 謝礼はその男の懐だ。好きなだけ持って行ってくれて構わない」 「おいおい、俺への感謝の言葉はなしか?」  鼻白む袁に向き直り、瑛翠は頭を下げた。 「関係のないお前まで巻き込み、危険な目に合わせてすまなかった」  謝罪が意外だったのか、袁が息を飲む気配がする。 「あんたと小芳の身の安全は補償する。それぐらいの望みなら、偉様もきいてくれるはずだ」 「瑛翠、お前まさか――」  昔の瑛翠ならば、誰かの権力を傘に生きるくらいなら野垂れ死にする方を選んだ。しかし今は違う。本気で何かを守ろうと思えば、なりふり構ってなどいられない。 「迷惑ついでに、後のことを任せてもいいか? ひとまず宿に預けたままになっている青燕を売って、当面の生活資金の足しにしてくれ。間違いなく俺の私財は没収されてしまうだろうからな」  馬を一頭売ったところで大した額にはならないだろう。後は袁の情けに頼るしかない。瑛翠はこの三日間で男が垣間見せた、意外なほど情け深い一面に賭けてみることにした。それとあの青年の負けん気の強さに。 「坊主たちが俺なんかの言うことをきくと思うか? あいつらの躾はお前の仕事だ」 「子供を伴っての行商もなかなか楽しいものだぞ」  しかめ面の袁が美しい青年と利発な少年に翻弄されている様子を思い浮かべると、自然に笑みが零れた。見てみたかったような気もするが、それは叶わないことだとわかっている。 「自分の身を犠牲にして、あいつを逃がすつもりなんだな」  質問には答えなかった。それも今更だからだ。自分だけ楽になるつもりかと罵られるかとも思ったが、袁はそれ以上何も言わなかった。 「じゃあな。お前もあの男が帰ってくるまでに、逃げるなり何なりしろよ」 「おい、ちょっと待て、瑛翠!」  背中を向けて立ち去ろうとする瑛翠を、袁がやけに真剣な声音で呼び止めた。 「肝心のお姫様がいないのに、逃がすも何もないだろう? お前は何を掴んでいるんだ?」 「未鳴の居場所ならわかった」 「何?」 「国中を探し回ってもみつかるわけはない。俺はまんまと担がされた」  そう。彼がいなくなったと聞いた時から、ずっと引っ掛かっていた。未鳴の足跡を追えば追うほど、彼の気配は儚くなる、その理由。 「そ、それは一体どういう――」  袁は余程驚いたのか、寝台から転げ落ち、無様な姿を晒している。長いつき合いだが、この男がこれほど動揺する姿はこれまで見たことがなかった。 「おい聞こえているのか? 質問に答えろ!」  興奮で血走る男の目を見据えて、瑛翠はゆっくりと口を開く。 「彼は――未鳴は、今なお王宮にいる」
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