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 どこかから水が滴る音がする。  朦朧とした意識の中で、聴覚だけはやけに鋭敏だった。  王の居室から引きずり出された後のことは、はっきりと思い出せない。  どこか暗い部屋で数人の男達に囲まれ、腕と足を捻じ曲げられた所まではぼんやりと覚えている。だがその後の記憶は、靄がかかったように虚ろだ。意識がはっきりし出した頃には、既に右目は見えなくなっていた。眼窩が熱を持ったようにじくじくと疼き、顔全体が何倍もの大きさに膨れ上がっているように感じられた。長い時間痛みと熱に曝された体は、やがて感覚を失い、今は自分の体が上を向いているのか、うつ伏せているのかさえ分からない。そんな中、ただ水音だけが微かに聞こえている。  「――私の言うことを聞かぬから、こういう目に遭う」  耳に届いたのがかつての飼い主の声だと気がつくまで、ずいぶん時間がかかった。 「ひどい匂いだな。鼻がひん曲がりそうだ」  すぐ近くで旺偉の声がする。瑛翠はただの荷物になり果てた半身を庇いながら、何とか首だけを動かし、掠れた声を絞り出した。 「幸い……今は匂いまで気がまわりません。陛下のせめてもの温情でしょうか」 「見るも無残な姿だ。美しかったお前の目を豚に食わせたと聞いた時は、あの小僧の四肢を裂いてやりたい程、憤りを感じた」  どうやらは旺偉本気で腹を立てているらしい。いつもより高い声音で話すのは、感情を高ぶらせている時の兆候だった。 「偉様にかかれば、あの方も『小僧』ですか。お諌めすべきところなのでしょうが、この時ばかりは胸のすく思いが致します」 「そのようになっても、まだ笑えるか」  どうやら自分は笑っているらしい。体の感覚が鈍っているので、今自分がどんな顔をしているのもわからない。自由にならない体とは裏腹に、心はとても軽かった。だからその言葉は自然に口をついて出た。 「幸せなのです」 「――何だと?」 「私の半身は今あの方の元にある」  四肢の感覚は既になく、残された左目が捉える世界も、紗がかかったようにぼんやりとしている。だが瑛翠には見えるような気がしたのだ。海を前に息をのむ未鳴の姿が。 「お前は明日、西の砂漠へと放逐される」 「ふ……、それは妙案だ。彼の地には人智の及ばぬ宝物が眠っていると聞きます」 「そうだ。そして行ったが最後、二度と帰って来られまい。あそこはそういう場所だ」  死の場所と恐れられる西の砂漠。朽ちて骨となり、砂に埋もれても、その事実を知る者は誰もいない。孤独と恐怖に苛まれながら、死の訪れだけをひたすら願う。自分の末路など所詮こんなものだ。 「砂漠か、――海には程遠い」 「何?」  旺偉の尖った声が辺りに反響する。昔はこの声が恐ろしかった。だが今はもう何も感じない。自分の最後を前にしても、瑛翠の心はいささかも動かなかった。 「私のかわいい瑛翠は、一体どこへ行ってしまったのだろうな」 「最初からそんな者はおりませんでした。あなた様の前では今も昔も、私はただの木偶でしかありません」  旺偉はしばらく無言で立ち尽くし、一つ息を吐いたかと思うと、音もなくその場を立ち去った。その時瑛翠はようやく真の自由を得たのだとを悟った。思い描いていたような感慨はなく、そこにはただ事実としての自由が無造作に転がっていた。  再び完璧な静寂が訪れると、瑛翠は冷たい地面に顔を伏せ、そっと瞼を閉じる。  不意に袁から買った珍しい薄布のことを思い出し、小芳に預けたままのあの織物が、美しい着物となって未鳴の身を包む情景を夢想する。  空よりもっと深い色をした衣装を纏い、未鳴が瑛翠の元に駆けて来る。現実にはありえないことだ。 「未練だな……」  右目を失ったこの日、瑛翠はとうとう自分が孤独に捕まってしまったのだと自覚した。
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