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 雄鶏が夜明けを告げる前に、瑛翠達は出立した。辺りはまだ薄暗く、しっとりと夜の静けさをまとっている。  眠そうに瞼を擦る小芳を伴い、瑛翠はまず最も人の出入りが激しい商業街に向かった。 明け方の商業街には、酔っ払いか気の早い物売りしかいない。そして街の情報は、物売りに聞くのが一番だ。彼らはよそ者の動向に敏感だし、街の人間の内情を熟知している。何より金で大概の片がついた。  瑛翠はかねてから懇意にしている、袁暁明を訪ねる事にした。表向きこそ異国の珍品を扱う露天商だが、袁は凄腕の情報屋でもある。そして瑛翠と同じ、人買いを生業にしている男だった。 「たまには商品も買って行けよ、綺麗な兄さん」  瑛翠の顔を見た途端、袁は舌舐めずりでもしそうな勢いで、腕に縋りついてきた。まだ夜も明けきらないうちから良いカモを捕まえたと満足気だ。 「ではそこの薄布をみせてくれるか。探し人への手土産にしたい」  瑛翠が青色の布を指差して言うと、袁は「さすが、お目が高い」と膝を打った。 「南方から取り寄せた極上の絹織物だ。日に透かすとよりよくわかるが、こいつはただでさえ扱いづらい絹に金糸と飾り玉で装飾してある。見ろよ、この細かな刺繍! 王族に献上したって差し支えないほどの逸品だぞ」 「なるほど。俺には不相応な品というわけだな」  瑛翠の言葉に、袁の目が抜け目なく光る。袁は商売人としても優秀な男だった。物の売り時を誰より心得ている。 「少々値は張るが買って損はない。こいつを纏った女に乗っかられてみろよ、汚水に浸かりきった竿なし野郎共でもおっ起てちまう」 「おい、子供の前で下世話な話はよせ」  瑛翠が嗜めると、男は肩を竦めて「はい、はい」と口先だけで了承した。 「それをもらおう。いくらだ」  提示された額は、数年分の稼ぎにも等しい額だった。当然、瑛翠がそんな大金を持ち合わせているはずもない。 「金はない。これでなんとか手を打ってくれ」  瑛翠はそう言うと、懐から大人の手のひら程の短剣を取り出し、男に手渡した。短剣の柄の部分には翡翠がぐるりと張り巡らされ、柄頭に燃えるような緋色の宝玉があしらわれている。瑛翠の持ち物の中で、最も高価なもの。それは自分の身は自分で守れと、いつか旺偉が与えてくれたものだった。 「ちょっと拝見」  男はもともと鋭い眼光をいっそう光らせ、短剣を見分する。傷一つない刃先。みっしりと重い翠色の柄。そして赤子の手の平ほどもある宝玉に目を止めると、ゴクリと唾を呑んで瞠目した。だが目敏い男は、瑛翠が気づかれたくなかった指摘をする。 「李氏の紋があるな。あんた、あいつのお手付きか」  今更誰にどう思われても構わない。だが、そのことで値が下がるのは本意ではなかった。 「悪趣味な紋など、消してしまえば問題ないだろう」  瑛翠の提案に、男がまさかと首を振る。 「馬鹿な! これがあるからこそこいつには価値がある。李氏の後見を得たようなもんだからな」 「俺には何の価値も無いものだ。だが、金になるのならばありがたい。そいつでその布を売ってくれるか」  瑛翠が淡々と答えると、呆れからか、袁は眉根を寄せた。それから小さく頷き、繊細な布を立派な木箱に納め、瑛翠の前に差し出す。 「ほらよ」 「ああ。世話になった」  無骨な手から箱を受け取り、礼を言う。これまでも男への謝礼は決して安いものではなかったが、だからこそ彼の情報は信憑性のあるものばかりだった。高額な報酬は、そのまま彼の命の値段だ。もしかしたら、これが瑛翠の依頼する、最後の事案になるかもしれない。  万感の思いを込めて目礼すると、男は驚いたように何度か瞬きし、その後盛大に溜息を吐いた。 「数年分の食い扶持を稼がせてもらった礼に、一つ忠告しておく。あんたが思うほどお偉方共は甘くねぇぞ。泣きを見たくなかったら、適当な所で手を引きな。一番のお得意様にあっさり死なれちゃかなわん」  長い付き合いだが、袁がこんな風に助言めいたことを口にするのは初めてだ。 「忠告に従うかはわからんが、心遣いには感謝する」  瑛翠が曇りのない笑みを浮かべてそう言うと、袁はもう一度大きく嘆息した。その表情が、呆れてものも言えないと饒舌に語っている。 「勝手にしろ。代金の短剣は明日取りに行かせてもらう。宿はどこだ? いつもの所か?」 「ああ、そうするつもりだ」  瑛翠の定宿は、賑やかな王都の最も寂れた場所にある。利用者はみな後ろ暗い者たちばかりだ。干渉を嫌う者同士、面倒が起りにくいのが一番の利点だった。 「じゃあ明日の夜。ああそうだ、一人寝のお伴に女は要るか? その坊主の筆おろしにぴったりなのがいるんだが」  瑛翠の後ろで小さくなっていた小芳が、それとわかるほどビクリと肩を震わせた。その様子を袁が愉快そうに眺めている。 「せっかくだが遠慮しておく。あんまり子供をからかうな」 「鉄面皮のお前をからかってもつまらんからな。もうちょっと愛想よくしないと、かわいい同行人に嫌われちまうぞ」 「余計なお世話だ」  適当な軽口を叩き合い、ではまた明日と別れる。だが袁と話したことで、瑛翠の焦りはいっそう増した。あの袁暁明をもってしても、情報の収集には一昼夜を要する。その事実が瑛翠を打ちのめした。 「瑛翠様? どこかお加減が悪いのですか?」  心配そうにこちらを見上げる、小芳の黒く澄んだ瞳に、情けなく歪んだ自分の顔が映っている。 「いや――」  後に言葉が続かなかった。少年の不安を取り除いてやりたいのに、それが出来ない。そんな心の余裕が、今の瑛翠にはなかった。 「まずは出来る事をやりましょう。碁と同じです。一つずつ升目を埋めて行けば、いずれは必ずあの方に辿りつきます」 「……ああ。そうだな、小芳」  だが瑛翠たちに与えられた猶予はたったの三日。暢気に盤の目を埋めている暇はない。 「次はどこへ行かれますか?」 「酒場へ行く。また嫌な思いをするかもしれないが、許せ」  小さく弱々しい小芳は、酔っ払いには格好の餌食だ。袁の戯言など比べものにならないほど、酒場に巣食う男共は質が悪い。瑛翠自身も大嫌いな場所だ。 「嫌な思いは私が全て引き受けます。瑛翠様は金蓮様のことだけに心を砕いて下されば良いのです」  小さく頼もしい同行者は、笑ってそう言うと、瑛翠の落ちた肩を威勢よく叩いた。
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