第2話

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第2話

 「…もしもし?…お世話になってます。え?…あぁ、この前のドラマの?…ほんとですか?…いや、気に入っていただけたならよかったです。…黒澤さんもお忙しそうで……今?今別のとこでゲームミュージックやってて……うん、面白いですよ?テクノサウンドってあんまやってなかったから……オケ曲は無理ですよ。ちょっと勝手が違いすぎるでしょ…ははっ…はい……はい。また何かあれば是非……はい。わざわざ連絡いただいてありがとうございます。またそっち顔出しますね……はい。お疲れ様です」  携帯を耳に当てたまま、相手が通話を切るのを待って終話ボタンを押した。画面の隅では充電を催促する赤いランプがちかちかと点滅していたが、充電器は寝室に置き去りになっており、まぁいいかとそのままデスクに投げ出した。  結局、浜崎を送り出して仮眠を取った後は、一日作業にかかりきりになってしまった。納期にはまだ余裕があったが、ゲームBGMが数パターン、CM曲が1曲。先ほどの電話の相手は、今期ドラマの劇伴を依頼してくれた人だった。黒澤とは、もう10年近い付き合いになる。歌手としては2年にも満たないプロ活動の後、歌唱曲を書けなくなった平木に、歌詞のつかないBGMの制作依頼を最初に入れてくれたのは彼で、それ以来、折々に仕事を回してくれる。今、こうしていられるのはだから彼のおかげで、その意味で黒澤は間違いなく恩人だった。  ふっと息をついて席を立ちキッチンへ向かう。平木自身はろくに使いもしない広々としたキッチンは、一緒に住もうと約束した女性の希望だったのだが、彼女がこの家に来る前に平木が浜崎を住まわせてしまったために結局、キッチンは使われもせず綺麗なままで、浜崎と家庭を天秤にかけて今を選んだ平木のせいで、有効に使われる機会を永久に失ったシステムキッチンは今、炒めると焼くしか能のない浜崎のいい加減な料理を生み出すだけの場所になっている。すっかりビールの保管庫になっている冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を探し出して手に取った。一口口をつけ、喉を鳴らして飲み下す。  冷たく冷えた水が喉を過ぎ、食道を抜けて、胃に落ちる。その段になってようやく、渇いている、と思った。ひどく、渇いている。考えてみれば、今日は朝から何も口に入れていない。再びボトルに口をつけ、今度は半量ほどを一息に体に流し込んだ。唇の端からこぼれた水の一筋を手の甲で拭い、息をつく。簡単だ。身体の渇きは、こんなにも簡単に満たされる。水の一口、二口。ただそれだけで。  胸の内が、恐ろしいほど渇いている。もうずっと、何年も、砂漠の中を歩いている。  バンドを組んだのは高校の時だった。ギターのテツとドラムのマル、平木は、ベースを鳴らして歌っていた。音楽経験は精々中学の吹奏楽部だけだった平木と違い、テツは幼い頃からピアノをやっていて、マルは兄の影響でドラムの演奏歴は長かった。とはいえ、何としてでもバンドをやりたいと、同学年の二人を誘ったのは平木の方だったし、好きこそものので猛練習をして、平木もすぐに追いついた。年の離れたマルの兄が仕事の合間にバンド活動をしていて、練習場所を貸してくれたり、社会人バンドのメンバーと一緒に演奏したりと、環境的にも恵まれていた。マルの兄、ヨシさんのバンドは基本的にはカバーバンドだったが、キーボードの松さんはサウンドクリエイターで、オリジナル曲が欲しいという平木たちの我儘によく付き合ってくれた。初めてのオリジナル曲は松さんとテツの合作で、歌詞はメンバー3人で考えた。歌うのはお前と、マルとテツに託された曲のタイトルは『自由』で、青臭いと笑われようが、その瞬間、自分たちは確かに、誰よりも自由だった。  もっと本気でやりたいと、最初に言い出したのは平木だった。3人で、どこまでやれるか試したい。応援してくれたのは松さんくらいで、それぞれの家族とは順当に拗れ、それでもガキ3人、夢と希望を追いかけることを許されたのは奇跡だった。  マルがつけたBONDSというグループ名を携えて東京に出たのは、このまま田舎にいるより可能性があると思ったから……というのは建前で、結局、18歳の3人は煌びやかさに憧れるだけの羽虫だった。そうして、ただ光に向かって飛び込むだけの羽虫には、ライトの届かない暗闇に潜む現実は、一つも見えてはいなかった。1年、2年と時が経つ内、音楽をやりに来たのか、バイトの合間に音楽をやっているのか分からなくなった。このまま終わるのかという焦りばかりが目の前をちらつき出し、その焦りすらもやがては鮮烈さを失い、シェイカーの振り方ばかり様になった24歳の秋。  ー……そろそろ、切りをつけるべきだと思う  天気の話でもするかのような何気なさでそう呟いたのは、マルだった。ほとんど惰性で楽器を鳴らした練習帰り、駅に向かう道すがら、手にしたビールの缶は汗をかいて、ぐしゃぐしゃに濡れていた。  ーもうさ、こっから何年やっても同じだろ  何か、一発逆転の何かがなければ、確かに。ここから先には何もない。夏の夜の生ぬるい闇に溶けた言葉に応じる声はなく、安い運動靴のゴム底がアスファルトをこする音があるだけで、誰も否定はしなかった。上京して6年。夢を諦めるまでの期間として、それが長いのか短いのかは分からない。ただ、内から溢れ出す、求めるばかりで充足のない熱量に、身体も精神も焼け焦げて疲弊するには十分な時間だった。それは確かだ。町に流れる音楽を耳にして、自分たちの音が敵わないとは思わない。才能がないわけではないことも、自分たちの音を好いてくれる人がたくさんいることも、6年間でよく分かった。愛してくれる人はいる。愛される曲も書ける。ただ、唯一無二ではない。テレビで歌う彼らに、負けるとは思わない。ただ、彼らより圧倒的に勝るものがあるかと言われれば、それもない。ライブハウスで平木たちと同じように夢を追いかける彼らにも、負けるとは思わない。ただ、数多の中から自分たちが選ばれるという確証も、自信も、ない。最後は運だ。運と、タイミング。言い訳じみている。それも分かっている。プロモーションのやり方やら、曲調の見直しやら、やろうと思えばやれることはまだまだある。分かってはいても、身体が動かない。努力の向こうになんの結果もないことに慣らされた心が、叫び出す。また、無意味な努力を重ねるつもりか。同じことを永遠と繰り返して、バカバカしいとは思わないのか。頭では抗ってみる。運命などというものは気まぐれで、もしかしたら今この瞬間にも、突然、自分たちの身に幸運が転がり込んでくるかもしれない。続けていれば、いつかは。それは今日かもしれないし、明日かもしれないし、ともすれば、死ぬ直前かもしれない。それでも、やり続けるなら可能性はゼロではない。絶対に無理なんて、あり得ない。ただ、続けてさえいれば……。詭弁だなと平木は思う。続ける気力もないくせに。  ー……別に、きっぱり辞めたいとかそういうんじゃないよ。3人で音楽やるの好きだし、オレも。ただ…音楽を人生の真ん中に据えるのを辞めようって話。趣味でも、いいんかなって。今までオレら、音楽しかやってこなかったし、これから先の人生、それでやってこうって思ってたけどさ……そうじゃない未来もあるんかなって  テツは先日、バイト先の社長に正社員にならないかと声をかけられたと言っていた。ゲームデバックの仕事がどんなものか浜崎には分からない。ただ、それはきっと、テツの力が認められたからこその結果だろうとは思う。結果。結果ね。  人生は続く。これから先、何年も、何十年も。区切りをつける。それは一つ、必要な選択ではあるのかもしれない。  ー……分かった  平木は言い、ビールの空き缶を片手で潰し、ひしゃげたそれをガードレールの支柱に置いた。カンと軽い音がして、マルとテツの足が止まる。  ー切り、つけよう  でも最後に一回だけ、挑戦したい。  そうして平木が二人に話したのが、最近ゴールデンに進出してきた音楽オーディション番組への出場だった。この番組へはいつかエントリーしてみたいと思っていた。審査員が毎回かなり名の知れたミュージシャンであること、テレビ露出という旨味、優勝者には大手プロダクションへの所属が約束されるという分かりやすさ。何をとっても利点の多いこの企画への参加を躊躇わせたのは、これでダメならもう何をしても無駄だという最後通牒になりはしないかという恐怖心一つで、ならば余計に、最後の挑戦には相応しいと、“いつか”と曖昧だった計画が意図せず定まったに過ぎなかった。  ーこれでダメなら、もうプロを目指すのは止める  自分への宣誓のつもりで平木は呟き、深い紫紺の空を見上げた。  だからといって、趣味にはならない。趣味には出来ないと、平木は思う。口にはしない。テツもマルも、音楽を人生の楽しみにできるのかもしれない。でも自分は。目指すところを失ったらもう、歌えない。きっと、歌えない。この数年、歌うことを心から楽しいと思えないくらいには、歌は苦しかった。ミューズはあまりにも冷徹で、愛しても振り向かない音楽の女神は平木にとってはもう、タナトスも同じだった。だから、戦う意思を失えば、自分はもう二度と歌えない。そう、思った。  ー……おれは賛成  急にはさ、辞めらんないよ、やっぱ。そう言ったのはテツで、それはそうだとマルも同意した。  ー……終わらせるためにやるんじゃなくて、やるからには勝つ気でやる  それでもいいかと平木は問い、二人はそれにも間髪いれずに頷いた。諦めたくて、諦めようと言っているわけではない。趣味でも、出来るかもしれない。でもそれは、本当に欲しい形じゃない。それは、テツにとってもマルにとっても、平木にとっても同じことだった。  ー……曲は既存曲しばり?  テツの問いに、平木はふるりと首を振って応じる。  ーオリジナルも可。1次は書類とデモで、課題曲1と自由曲1。二次は1次の2曲を審査員の前で歌う形式。3次からはテレビ放送ありで、ここは1次で使ったのとは別の自由曲1曲、次が決勝で3次とは別の自由曲1曲。  課題曲抜いて全部で3曲とマルが呟き、1次選考の曲ってどれがいいかなとテツに話を振った。デモ審査ならインパクト重視だから、と応じたテツはすぐに、ぶつぶつと一人で何やら呟き出す。  ー……まあでも、決勝曲はあれしかないだろ  そのまま、思考の海に沈もうとするテツを横目にマルがそう言い、うんと平木は頷いた。  ー『自由』  声を合わせた平木とマルは知らず笑み、いつのまにかぶつぶつを止めたらしいテツは、折角ならアレンジ変えようと弾んだ声で言った。始まりに相応しいのは、そして多分、終わりに相応しいのも、この曲しかなかった。  そこからの半年は準備に費やし、年明けの4月から始まった選考会で、BONDSは順調に勝ち進み、ブロック予選に当たる3次選考も、2位通過とはかなりの差をつけて首位で抜けた。そして決勝で、平木はあの声と出会った。  余計なことは考えない方が集中できると、3次予選のVTRは見ていなかった。だから、BONDSのいたブロック以外の参加者は全く知らぬままその日を迎えていた。平木がその声に出会ったのは、リハ室での発声を終え、待機用の部屋に入ったときだった。生放送の決勝は、時間の都合上ステージ変換が困難で、テツとマルは画面外のセットでの演奏になるため待機場所が違い、平木は一人、机と椅子が並んだだけの殺風景な部屋に入った。そこにはすでに数名の参加者が控えており、各々の決意を持って出番を待つその場所は、奇妙な静けさと緊張感に満ちていた。部屋の前方にはテレビが一台置かれており、現在放送中の生放送の映像が見られるようになっていたが、部屋にいるスタッフが進行状況の確認をするのが主な目的のようで、音量はかなり絞られており、気が散るほどの賑やかさではなかった。  ー……お次は、本コンテストファイナリストの中で最年少!浜崎茉莉くん、10才の登場です!  司会者の声が耳に入る。10才という年齢が、平木の興味を引いた。すごいな。10才。自分が歌い始めたのは高校に入ってからだ。音楽を始めた、というくくりならもう少し早い。それでも、13才。10才でここに立つというのはいかほどのものなのか、興味が湧いた。  目のくりっとしたした可愛らしい子供だった。喋りは子供らしくたどたどしく、インタビューに答える様子からは緊張が伝わってくるようで、隣に立った司会者が時おりフォローを入れてやっとなんとかその場に立っているといった様子で、まあこんなものかと少し気を削がれはしたが、どうせ時間はあるのだからとテレビ画面を見続けた。  ー……では、歌っていただきましょう!  選曲は、平木も何度も耳にしたことのある、女性ヴォーカルのメロディアスなナンバー。原曲キーで音が始まり、子供の声ならここまで出るのかと少し驚く。イントロ7小節の間、少年は身体を左右に揺すってリズムに乗っており、歌い出しに向かって段々と身体の緊張が解れていくのが、見ていてわかった。  歌い出し。  平木には揺るぎなく確信していることがひとつあった。歌の上手さは、最初の一声を聞けば分かる。歌詞の意味が分からずとも、リズムが好みでなくとも。上手い歌には、最初の声一つで引き込まれてしまう。  浜崎茉莉が歌を歌い出した瞬間、平木はああ、と思った。才能。才能を見た。これが、唯一無二だ。声一つで、世界が変わる。引き込まれる。浜崎茉莉という世界に、吸い込まれてゆく。聞き惚れてしまう、声だった。歌が、喜んでいる。あの声に歌われる歌は幸せだと、平木は心の底から思った。技術の面では、まだまだ粗が目立つ。が、それを凌駕する声を持っている。高音の響きと、透明感。神からの贈り物。この少年は、そういう声を持っている。  今まで、自信を持って、“絶対に勝てる”と思えたことは一度もない。けれど、“絶対に勝てない”と思ったことも、一度もなかった。足掻けば、走り続けていれば、絶対に追いつける。走り続ける気力が枯れかけていても、追いかけて追いつかないものはないと、その負けん気だけは持ち続けていた平木にとって、それは、はじめて感じる、明確な敗北の感覚だった。  歌い終わりまで食い入るように画面を見つめ、彼が出番を終えてすぐ、名前を呼ばれるのも待たずに部屋を出た。スタッフは皆忙しく行き来しており、平木を止める者は一人もなかった。  ー……浜崎、茉莉……くん?  ステージ袖。沢山の人が行き交う暗い暗いその隅で、彼はパイプ椅子に座って俯いており、声をかけると、眠たげな眼がこちらを向いた。子供だ、と思う。あどけないその表情からは、ミルクの甘い香りが立つようだった。疲れて眠くなったのか、状況が読めないとばかりにしかめられた眉を見て平木は笑い、視線を合わせるために跪く。  ー歌、好き?  唐突な問いに驚いたのか、彼は少し目を見開き、一瞬遅れて、分からないと答えた。分からない。心臓がどくりと音を立てた。身体中の血液がぞろりと不穏に蠢く。分からない、だと?腹が立った。こんな声を持っているくせに、その言いぐさはなんだ。音楽を愛さない人間が音楽に愛されて、こんなにも愛を注ぐ人間を音楽は愛さない。少年の視線が逃げてゆく。ふざけるなよ。  ー……俺は、好きだよ  浜崎の答えにふうんと応じて立ち上がり様、小さな体にぶつけるように言葉を投げると、気配を感じ取ったのか、浜崎はぴくりと肩を揺らしてこちらを見上げた。こぼれそうに見開かれた目に、どこかの照明が映り込み、きらりと光った。こちらを見上げる浜崎の眉がきゅっと寄せられ、平木は一瞬、泣くのかと思ったが結局、彼は泣かなかった。  ー……すごいいい声してたから。曲、書かして欲しかったんだけど。好きじゃないならいいや  見下ろすと、彼はやはり子供で、大人げない言い方をしたと平木は束の間反省し、謝罪の意味を込めてその小さな形のいい頭を撫でてみたのだが、結局優しくできず、平木の手はほとんど振り払われるようにしてほどかれた。タイミングよく名前を呼ばれ、ばいばいと彼に言い置いて離れ際、乳臭い子供の顔を再度視界に入れると、沸き起こるのはやはり怒りにも似た衝動で、ステージに立つ直前、平木の中にあったのは、お前にだけは絶対に負けないという、燃えるような決意一つだった。  結果、その番組でBONDSは優勝し、事務所所属が決まった。  オーディション出身のアーティストは短期で消えていく者が多い中、事務所が積極的に売り出してくれたこともあり、BONDSの人気は上々で、全ては順調に見えた。外から見れば多分、順調すぎるほど順調だった。  ー……お前、誰の曲を書いてるわけ?  平木が持ち込んだデモを聞き終えたテツが、困惑した声音でそう言ったのは、デビューしてから半年後の冬。  ーデビュー後に出した新曲3曲は全部おれの曲。今はインディーズ曲を焼き直してやれてるからいいけど、トーヤの書く曲はおれには書けないし、トーヤの曲がないとBONDSじゃないと思ってる。……曲調はいいよ。いつも通り。書けてない訳じゃない。けど……このキーはお前のキーじゃない  誰が歌うための歌を書いてんの、お前。  ざわりと、肌が泡立つ心地がした。助けを求めてマルを見ても、そこにあるのはやはり困惑した視線一つで、無意識の自分を暴かれた抜き身の恐怖は鞘を失い、平木の内を、その鋭利な切っ先で切りつけた。キーが高い。分かっている。自分には歌えない。そんなことは、分かっている。といって、キー下げして歌える曲でもない。サビの盛り上がりが高音ありきだからだ。そのせいで、デビュー以降に平木が書いた曲は一つも歌えていない。  曲を書く間、一つの声が脳内に響く。半年前、テレビの画面越しに聴いた少年の歌声。その歌声が曲を作る。平木はそれに抗えない。唯一無二の歌声。どんな努力の先にも持ち得ない唯一無二を、生まれながらに持っている少年。意識せずとも追いかけてしまう。声に導かれて生まれる音楽は、だからどれも、浜崎茉莉に歌われる為の曲だった。  あの声に勝てる気がしないと、平木は言った。テツもマルも、最年少ファイナリストの浜崎のことは覚えていたが、その歌が特別記憶に残ることはなかったようで、平木の言葉を聞いて聞き直した上で下した評価は“綺麗な子供の声”だった。  ー子供だから出てる声って感じ。歌い方だって、別にすごい練習してる感じでもないじゃん  お母さんが先生ってのも納得、というマルの言葉にテツも同意し、マルの後を引き取って続けた。  ー誰がどう聞いたって、トーヤの歌の方がすげぇって思うよ。実際、この時勝ったのはおれらだし  浜崎は奨励賞にも入らなかった。順当な評価だと思うけど、とテツは言い、トーヤが何にこだわってんのかが分かんないと肩を竦めた。  万人共通の感覚でないなら、これは多分、理屈を超えた共鳴だった。自分が欲しくても欲しくても持ち得なかったもの、これから先も永久に持ち得ないものを持った相手に出会ってしまった。そういう不幸。子供の声だと言われてしまえば、その通りだと答えるしかない。未だ定まらない、少年特有の揺れを持った甘やかな細い声。子猫が母親を呼ぶ鳴き声に似た、可愛らしく透明な声。あの時点ではまだ、そうだった。それを否定する気はない。それは、平木にも分かっていた。ただ自分がこの二人と違うのは、あの子供がこれから先もずっと、唯一無二の声を持ち続けるのだという確信を持っているという事だった。訓練される前の歌声は確かに、平木よりも劣っていたかもしれない。あの時点では、負ける気はしなかった。ただ、5年後はどうだろう。10年後は?浜崎が歌に本気を向けたとき、自分は、彼に勝てるだろうか。浜崎が音楽を奏でたとき、ミューズの微笑みが見えた気がした。誰に同意されなくとも、平木はその歌声に否応なく惹かれ、抗えない。知らないままなら良かったと、そう思う。あの声を知らずにいれば、俺は今も、戦い続けていられたのに。手も足も出ない圧倒的な力の前には誰も、諦めを知るより他はない。心の奥深くで、囁きが聞こえる。お前は、あの声に、一生かかっても敵わない。その声は平木の心に深く根を張り、事実も理屈も仲間の声も、その根を引き抜くことは出来なかった。  それでもなんとか、2年は耐えた。頭の中の歌声を無視して曲を書き、胸の囁きに抗ってステージに立つ。スポットライトを浴びると、足が震えるようになった。それでもまだ歌えた。マイクを握ると、不思議と声は出た。ライブの前日は、酒を飲まないと眠れないようになった。それでもまだ、歌えた。声の伸びの悪さは、歌い方でカバーした。テツもマルも、無理をすることはないんじゃないのかと言ってくれてはいたが、3人で叶えた夢を、こんなことで終わりにはしたくなかった。  ー今日はよろしくお願いします  女性記者がにこりと笑いながら言い、平木たちも笑顔でお願いしますと応じた。平木の荒んだ内実には構わず、BONDSは今やすっかり人気バンドで、雑誌インタビューやテレビ出演などは日常となっていた。この日は、新曲発表に合わせた音楽誌のインタビュー取材を受けており、演じすぎて慣れ切った表向きの顔をした平木は、一分の隙もなく、売れっ子ヴォーカリストのトーヤだった。  ー……BONDSの皆さんは、間もなくデビュー二周年を迎えられますね  予定していた時間も残り僅かとなったとき、記者の女性が最後にと口を開き、そうなんですとマルが嬉しげに応じた。  ー再来月二周年で、ほんと、ありがたいですよね  2周年に合わせてアルバムの準備もしていると、マルは昨日解禁になった情報をにこやかに口にした。  ー応援してくれる人たちのおかげでここまで来られました。なんかすごい、感慨深いですね  テツもそつなく答え、記者の視線が平木を向く。  ー……平木さんにとって、この2年ってどんなものでしたか?  ふと、考える。どんなものだったか。充実した、楽しい、達成感に満ちた、ファンに支えられた、夢のような。模範解答はいくらでも浮かんだ。  ー……私、二年前の平木さんの一言がすごく印象的で  どの答えが正解か、ええとと間を開けて考えていた時、彼女はペンをテーブルに置いて、ふふふと笑った。  ー好きだからって、おっしゃってましたよね?好きだから、ずっと歌いたいから、プロになりたいって  その夢が叶って、2年ですねと、彼女は言った。夢が叶って2年。あなたの2年はどんなものでしたか。変わらない気持ちで、今も、歌っていますか。  他意などなかった。ただ、平木の言葉を覚えていてくれていて、だから、そう訊いたのだと思う。でもその瞬間、つい先ほどいくつも浮かべた模範解答は全部、どこかへ消えてなくなり、平木は突然、BONDSのトーヤを見失った。  ざあっと、窓の外を強い風が吹き過ぎ、彼女の背後の窓から見える道端の街路樹が、揃って大きく身を震わせた。夏というにはまだ弱い6月の日差しが、通りを歩く人々の上に燦々と降り注いでいる。綺麗だと、平木は思った。  ー……好きじゃ…ないです  ぽろりと、言葉が零れた。歌はもう、好きじゃない。そうして口にしてみて、平木は初めて気付いた。ああ、そうか。自分はもう、歌うことが好きだという気持ちすら失くしてしまったのか。いつからか、なぜ歌っているのか自分でも分からなくなっていた。歌いたい言葉も、歌いたいという気持ちも、何もない。空っぽ。がらんどうだ。俺の中には空洞しかない。ミューズは死んだと、そう思った。  平木が呆然としている間に、そのインタビューは多分、テツとマルとマネージャーがなんとかしてくれていて、気が付いた時には車の中だった。ふと我に返ると、今日の朝までは頭の中で煩いくらいに鳴り響いていた歌声も、この二年の間途切れることなく心を騒がせていた”敵わない”という言葉一つも、今は凍った湖面のように静まり返って何も聞こえず、平木はそれに驚き、そうすると今度は、悲しいとも嬉しいとも感じていないはずなのに、両目からは雪解けの湧水のように滴が溢れて止まらなくなり、なぜか涙声のマルが、もういいよと呟きながら平木の肩に触れた。もういいよ。トーヤはさ、良くやったよ。  ごめんと、平木は呟いた。俺の夢に、巻き込んでごめん。俺の勝手で、終わらせてごめん。色々な思いをごめんの一言に詰め込んで告げ、マルはありがとうと応じ、テツは黙って平木の頭を腕で抱えた。そこから一晩、理由のない涙は止まることなく流れ続け、心配だからと平木の家に泊まったテツもマルも睡魔に勝てずにソファで頭を垂れて動かなくなった午前4時。驚くほど唐突にその涙が止まった時、ゆっくりと白み始めた空を見つめながら平木は、自分の内にあった何がしかの泉が一つ枯れたのを知り、枯れた泉の周りに広がる荒涼とした砂漠を夢想し、俺は今、酷く渇いていると、そう思った。  それから平木は歌えなくなり、2周年を迎える前に、BONDSは無期限活動休止となった。解散でいいと二人は言ったのだが、所属事務所の意向で休止という形に落ち着いた。レコーディングは大方済んでいたため、もともと企画していた2周年記念アルバムは無事に売り出され、BONDSとしては過去最大の売り上げを記録した。  ー……お前さ、続けなよ。音楽  打ち上げの席で、赤い顔をしたテツが言った。大して強くもないくせに、その日はかなり飲んでいて、世話になった人たちに一通り挨拶をしたあとで平木の隣にどっかと腰を下ろした親友は真っ赤な目をしていた。  ーおれらね、トーヤが居たから来たんだぜ  東京、とテツはため息に乗せて囁いた。  ーこっち来る前、マルと二人で話したんだ。可能性とリスク、あるよなって。お前は全然、そういうの考えてなかったから。やるって言ったら回り見えなくなるタイプじゃん。で、とりあえず、おれもマルも、可能性に賭けた。お前の可能性に賭けたの。で、その時に決めたことがあって、  テツはそこで一呼吸入れ、手に持ったジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に煽り、ふっと息をついて続けた。  ー……トーヤはそうやって脇目も振らずおれらの前を走るのが仕事。だから、おれらはトーヤの理性になる。危ないときは止めるし、つんのめってるときは後ろから引っ張る。で、おれらは、お前が一人でどっか行っちゃわないように追っかける  そう決めて、ここまで来た。マルもおれも、とテツは言い、少し遠いテーブルででかい声を上げて笑うマルにちらりと視線を流して笑うと、軽く目を伏せ、俯いた。  ー……けど実際はさ、引き際は見えたのに引けなかった。欲が出たんだ。そんで結局、トーヤに無理がかかってこうなったんだなって  だからね、と、テツはそう言ってついと顔を上げ、平木の目を見て言った。  ーだから、お前が謝ることないんだよ  こちらを見るテツの目に、嘘はない。本気で口にしているのだと、分かった。ただ、それでも。それでもやっぱり、悪いのは俺だと、平木は思う。平木の言い出した無理に、二人は笑ってついて来てくれた。先の見えない霧の中でも、歯を食いしばって共に歩んできた。それなのに、ようやく叶えた夢一つも、抱え続けることが出来なかった。  簡単なことだ。ちっぽけなプライド一つ、捨てて仕舞えば良かった。誰にも負けたくないという思いが、平木の重石だった。でもそれは、平木だけの重石だった。理想の声に出会った。あの声には勝てない。だからなんだ。BONDSの曲は評価されている。だから自分は、BONDSのために、テツとマルのために、歌う。そう思い直すことはできた。出来たはずなのに、しなかった。だからこの帰結はやはり、平木の問題だった。小さなプライドと、エゴの結果。  何も言えずにテツの目を見返して3秒。テツは唐突に口元を緩めて、ふっと笑った。  ー……なんて言っても、どうせトーヤは納得しないだろうから  だから。  ーおれとマルに悪いって思ってんなら続けなよ、音楽  どんな形でもいいとテツは言い、よいしょと掛け声をかけて立ち上がりざま、ぐしゃりと平木の髪を手のひらでかき混ぜた。  ーお前が浜崎茉莉に惹かれるのと同じくらい、お前が浜崎に嫉妬するのと同じくらい、おれもマルも、お前の才能を認めてる  お前は音楽辞めちゃダメ。絶対。  髪を乱す手の力が弱まり、降りかかる前髪越しにテツを見上げると、ここ数年見たことのないような満面の笑顔が向けられており、高校最後の学園祭、後夜祭のラストに上った体育館のステージでメジャーデビューを誓ったあの日のテツがそこに重なり、平木があ、と思ったときにはもう、突然声を張り上げた戦友はありがとうと叫んでいた。その声の勢いに押されて、騒がしかった宴の席が一瞬シンと静まり、その静寂を破ったのはもう一人の戦友のありがとうの叫びで、こっからは平木桃矢ソロの活動になりまーすとそのまま宣伝を始たマルは、あちこちで油を売って宴会場を一回りし、周囲の賑々しさが戻った頃、平木の隣に座ってにっと笑った。  ーオレ、結婚すんの  唐突な告白に、思わず、え、と声が出た。  ーもう付き合って5年だし、いっかって思って。しかもオレね、バンドやめること決まった次の日にプロポーズしたんだよねー。音楽活動続けながらじゃ、家優先できないなって思って結婚待ってもらってたんだけど、辞めるってなったら決心ついたっていうか……で、ね。オレもね、そんな感じで好きにやってんの。バンドでメジャーデビューは一つの夢だったけどさ、結婚して子供二人つくっていいお父さんになるのもオレの夢。他にも夢はいっぱいあるけど、ひとつ目の夢はお前が叶えてくれたし、今度は次の夢を追っかける時間ができた  だからトーヤも、トーヤの夢を追いかけたらいいんだよ。そう言うマルの横顔は驚くほど大人びて見え、音楽室でセッションするのがバカみたいに楽しかったあの頃とはどうしても重ならないその姿に、平木は時の流れを見、遠くまで来たなとふと思った。  ー……今はしんどいかもしんないけどさ……トーヤはまた音楽を好きになるよ。これは絶対。トーヤよりトーヤのことを見てきたオレとテツがそう思うんだから、絶対そう。そんときにさ、やれる場所がないっていうのは寂しいじゃん。だから、何でもいいから、ここでできた繋がり切らずにいろよ  お前の夢はまだ、ここにあるんだろ。   さらさらと砂の舞う砂漠の中、平木の夢は未だ見つからず、あれからずっと、癒えない渇きの中にいる。
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