第1話

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第1話

 最初の一音。それが全てだ。音の響きが空気を震わせ、世界の見え方が変わる。世界が一段、明るさを増す。圧倒的な資質、才能。Gifted。その声の前には、自身の十年などなんの意味もない。嫉妬する暇すらなく、ああ、この声に歌われる歌は幸運だと、ただ、そう思った。  「マツリ!あと5分!」  「分かった」  足元から突き上げる重低音。鼓膜を震わせる、声。観衆の騒めき。耳元で怒鳴る古澤の声に頷きながらも、薄暗い会場の中、人混みに目を凝らす。色めき立つ人々の動きの中に見慣れた男の姿はない。時間が、ない。  不意に、後ろから肩を叩かれた。  「……マツリ!平木さん、連れてきた!」  振り返り、探し続けていた顔を一つ、そこに見つける。  「っ、おい。なんだよほんと……お前もう出番だろ」  三つ前に出番を終えた金井に引きずられるようにして無理やりに連れて来られた平木は、怪訝そうに眉を寄せており、振り向いた浜崎と目が合うと、一瞬、ピタリと動きを止め何やら形容しがたい表情をした後で、すぐにいつもの飄々とした態度に戻り、空いている方の手で早くしろと払うような仕草をして見せた。  「Hi-vox.(ハイボックス)さん!準備行って!」  「はい!…マツリ!時間」  声がかかり、古澤に急げと怒鳴られる。  「すぐ行く!」  怒鳴り返して応じると、ギターを抱えた古澤は肩をすくめてステージに向かった。ドラムセット前には既に花田がスタンバっており、ベースの井岡はカップのドリンクを流し込んで駆け足でステージに向かい、すれ違いざま、浜崎の肩をとんと叩いた。背中には、彼らがいる。そして目の前には。  歓声が遠い。幕間の静けさ。  「お前も早く、」  行けと言いかけた平木の唇に人差し指一本当てて黙らせる。  今日ここにいる観客の内、3分の2がHi-vox.の名前で入場したと、さっき聞いた。500の箱に若干定員オーバーで、そのうちの半数以上。上々の結果だ。年末、ここで、ワンマンをやる。  口を閉じた平木はじっと、浜崎を見返している。その目の奥に、その皮膚の下に、隠しているものを暴きたいと思う。浜崎の知る、浜崎の記憶の中の平木は、こんなものではなかった。こんなものではないはずだと、その目に語りかけてみても、しんと凪いだ瞳はピクリともせず、それが、浜崎を苛立たせる。  「……本日のトリは……Hi-vox.!!」  どっと歓声が上がる。ステージが、声援が、音楽が、そこにはある。どくんと、心臓が一つ、大きく打った。  ドラムが盛大に打ち鳴らされる。怒ってんな。その音で分かる。花田は待たされるのが嫌いで、融通が効かない。諌めるように古澤のギターが割り込み、井岡は煽るように低音を鳴らした。イントロ10。セトリ無視の爆上がりナンバー。花田のお気に入り。ほとんど無表情でドラムを鳴らす男の姿からは想像もつかない熱を、あいつも、内に抱えている。多分。花田は少し、平木に似ている。  音楽が走り出す。俺も一番好きな曲だと、浜崎は一瞬、ちらりと思う。  平木の曲だ。浜崎の持ち歌は全て、平木の作った曲だった。  唇に当てた指を外し、その手で拳を握る。じわじわと突き上げる興奮に抗えない浜崎の前で、未だポーカーフェイスを気取る男を、どうにかしてやりたいと思った。  勢いをつけて強く、平木の胸に拳を打ちあてる。平木は微動だにせずその拳を受け、やはりまだ、火の灯らない目で浜崎を見返していた。  「平木さん、」  見てろよ、と告げる。見てろよ。俺を、俺たちを。  返事は待たずに踵を返し、ステージに登る。光、音、声。マイクスタンドからマイクを外して振り返り、お待たせ、と口の形で告げる。花田は一瞥もくれない。古澤はこちらを睨み、井岡は締まりなく笑っている。平常運転。振り返ってステージから客席を見渡すと、群衆から溢れ出る爆発的な熱量が意思を持ってうねり、龍のように身をくねらせて空間を踊り回る幻想が見え、その龍が踊る中を一人、ライブハウスの後方右端、”全部が見える特等席”に向かうワイシャツの後ろ姿を見つけて、浜崎は、突き上げる衝動のまま笑って見せる。  カウント9。ビリビリと皮膚をふるわす熱を胸いっぱいに吸い込むと、肺の中で暴れる龍のその凶暴なエネルギーに呼応するように、身の内の激情が叫び出す。  聴いて。俺を、聴いて。  歌を、歌う。白いワイシャツの袖を捲り上げた平木の歩みがピタリと止まり、抗えぬ雪裡でもあるかのようにすっと振り返る。こちらを見上げる平木は遠い。遠くはあるが、それでも。  浜崎は、ほら、と思う。ほら、やっぱり。  平木はこの空間に焦がれている。瞳から流れ出す感情は止めようがなく、どれほど平静を装っても、平木の内に眠る激情が、浜崎のそれに呼応するようにずるりずるりと動き出すのは隠しきれない。  ゾクリとする。俺の歌が、声が、あの人に火を灯す。…もう少し。もう少しだと、浜崎は笑う。 ‪ 午後8時のライブハウス。走り出す歌声、踊り出す群衆。今この瞬間、ここが、世界の中心になる。‬  「……平木さん、ねぇ」  音を奪われて目を開ける。目を開けた一瞬、ここはどこだと咄嗟に思い、視界の中心に起動した音楽ソフトの画面を見つけ、その下のキーボード、デスクの右側に陣取ったシンセサイザーと順に眺めてようやく、作業用の椅子の上に両膝を抱えて座っている自分自身の状況に思い至り、平木は締め切ったカーテンの向こうの朝日に気がついた。もう朝か。昨夜、寝る前に少しだけと思い始めた作業に思いのほか没頭してしまったようで、時間の感覚がなくなっていた。  今何時だと壁時計を見上げかけたタイミングで、ぐるりと椅子を回される。わずかな遠心力に徹夜明けの三半規管が過剰反応を示し、目の前がチカチカとハレーションを起こす。うわ、と思わず声が出た。  180度回転した椅子の上で、反射的につぶった目をゆっくりと開くと、目の前には見慣れた男の顔があり、その右手に握られたヘッドホンにちらりと視線をやって、あぁ、音を奪ったのはこいつかと、回転の遅い脳がようやく理解する。長時間座っても心地いいものをと少し奮発して買ったオフィスチェアの肘掛には浜崎の両手が乗っており、囲い込むような姿勢で見下ろされると、ほんの数ヶ月前に二十歳を迎えたばかりの男が嫌に大きく見えて、平木は知らず、笑みの形に唇を歪めた。彼がここにきてから2年と少し。初めて出会ったあの日から10年。大きくなったよな、と思う。大きくなった。子供の成長は早い。……それは、怖いくらいに。  「……何笑ってんの」  徹夜明けの平木の隠微な表情の変化に気づき、浜崎は小首を傾げて問うがそれには答えず、何、とただ一つ、呼びかけに対する答えを口にする。浜崎は一瞬、なんだっけ、と年齢相応の表情で考えるそぶりを見せたが、あぁそうだとすぐに口を開いた。  「…ケイが、歌う前にアルコール入れると喉開くって言ってたけどホント?」  ケイ。藤巻圭。EndLandのヴォーカルで、全楽曲の作詞作曲も手がけるオールラウンダー。そのEndLandはアニメタイアップで1年半前にメジャーデビュー。理想的な形だ。インディーズ時代のファンを引き連れ、アニメ曲で勢いをつけてメジャー進出。デビュー後の売り上げも好調で、先日、来季アニメのオープニングに起用されたという話を、人づてに聞いた。インディーズの頃から、歌の上手さは頭一つ抜けていた。特に、感情を込めて歌い上げる表現力は抜きんでていて、甘さも鋭さも自在に操る発声は確かに魅力的だ。爽やかで雄臭いビジュアルも平木好みで、自分の魅せ方を理解したステージパフォーマンスもプロモーションも、最高にそそる。Hi-vox.の方向性からいっても、藤巻のグループがライバルになるであろうことは想像に難くなく、実際、タイアップでは先を越される形になった。  藤巻は、確かに巧い。……ただ、それでも。それでも、と平木は思う。浜崎の、浜崎茉莉という楽器の前には、藤巻ですら、凡庸な有象無象の一つに過ぎない。  考えがあまり表情に出ない平木の無反応に焦れたのか、浜崎はねぇと再び平木の名を呼んだ。地声はそれほど高くない。高くはないが、よく通る、濁りのない音がする。歌う時、この声は、更にもう一段開く。匂い立つ華やぎと、耳に心地よいミックスボイス。ふと耳にして振り返りたくなる、そんな、音。力強くて艶のあるあの音は浜崎の天性で、平木にも、藤巻にも、どんな努力をしても持ち得ないものだった。10年前、平木が初めてその音を聞いた時、浜崎はまた10歳になるかならないかの子供で、声変わり前の少年に特有の細く震える声の中に見つけたカッティング前のダイヤの煌きは、今や丁寧に研磨されて輝きを増し、あの日からずっと、平木の胸の真ん中に居座り続け、ギラギラと煌めいている。ギラギラ、と表現するのが妥当なほどに、本当に、眩しくてかなわない。  平木は一つ息を吐き、飛びがちな思考を一度、頭の中から追い出した。アルコール。アルコールね。  「…ツアーラストの最終手段だろ。喉に悪い」  二重の瞳を見返して、お前はやるなと告げる。楽曲イメージからすると、やや甘すぎる顔立ち。ふわりとした猫っ毛が額を隠すと可愛らしさが先に立つからと、歌う時に前髪を上げさせるのは、平木の指示だった。  平木が言えば、浜崎はその通りにする。平木がやるなと言えば、浜崎は絶対にやらない。  「……ふうん。分かった」  今日も。拍子抜けするほどあっさりと浜崎は頷き、すいと身を起こすと、手にしたヘッドホンを平木の膝にとんと乗せ、今日1限からだからと言い置いて、部屋を出て行った。  興味が湧く年頃のはずだ。酒も、タバコも、女も。危うさやスリルに魅力を感じる、そういう年頃の最中にいて、浜崎はまるで、雛鳥のように従順に、平木に従い続けている。といって、ただ従順なだけかと言えばそんなことはなく。目的も主張も夢も、若さゆえの無謀も力も攻撃性も、彼のあの甘い表皮の下でどろりと渦巻いていることは間違いない。  ー平木さん、見てろよ  2日前の夜、出番の直前にも関わらず平木を呼び出して浜崎が告げたのは、言葉としては、ただそれだけのことだった。  見てろよ。  ただ、それだけのことに。ぞわりと、身体が反応した。それは恐怖にも似ていて、無遠慮に腹の中を弄り回されるような、煮えたつ湯釜に突然放り込まれたような、暴れ出したいような、叫び出したいような、そんな感覚だった。身体中の血液という血液が突沸し、暴れ出す。恐怖とも怒りともつかない、情緒の洪水。  ふざけるなと、咄嗟に浮かんだ一言はそれで、あの時もしも浜崎がステージに駆けていくのがあと少し遅かったら、平木は浜崎のあの甘ったるい顔面を殴りつけていたかもしれなかった。それほどの衝動が一瞬、ただ一呼吸の間、平木の全身を駆け巡ったが、その激情を維持する体力も熱量も、平木には既になく、直後吐き出した息一つに乗って身体を離れ、茹だった空気に溶けて消えた。  結局のところ、あの衝動はなんだったのか。浜崎を送り出した直後から、ズキズキと痛み出した眉間を指先で抑え目をつぶり、よくしなる背もたれに背中を預けて平木は自問する。壊したいわけじゃない。あれは俺が見つけた輝きで、磨き続けてやっと今、その輝きに周りも気づき始めたところなのだ。こんなに手をかけた煌めきを、なぜ壊したいなどど思うだろう。削り出して磨き上げて灯った灯を、どうして消したいなどと思うだろう。……でも確かに、あの瞬間、平木はその輝きを粉々に叩き割りたい衝動を覚え、拳を一つ、ぎりりと握った。この非合理な考えはなんだと、考えてみても答えは出ず、ズキリズキリと鈍く痛み続ける脳の真ん中から、分からないのなら考えるだけ無駄だという声が聞こえて、平木はそこで思考を止めた。  音漏れのするヘッドホンを掴み、ゆっくりと椅子を回す。PC画面の上を緩やかに流れるピアノロールをマウスのクリック一つで止めて、目を閉じる。眼裏に、わかったと頷いた浜崎の、淡々とした表情が浮かぶ。普段の浜崎は、何を考えているのかよく分からない。ロボットみたいだと、平木は思う。処世術の笑顔は柔らかく自然で人当たりはいいが、自己主張なく従順で、平木が白といえば白と言い、黒といえば黒という。だから時折、平木は浜崎にどうしたいかを問うてみる。曲のアレンジの一部とか、歌詞を入れた時、どちらのリズムが歌いやすいかとか。ちょっとしたことを、何気なくきいてみる。そんな時、浜崎は少し考えるそぶりをした後で必ず、平木さんは、と首をかしげる。  平木さんは、どっちが好き?  追われている、追いかけられている。何を思ってかは知らない。ただ、浜崎にそう問われるのは、悪くない気分だった。  「茉莉、‪今日の夜‬大丈夫?」  講義直後の大教室で、不意に背後から声をかけられて振り返る。  「あー、と…今日だったけ?」  「今日ですー。すぐ忘れるからな、お前」 ‪ 7時に新宿と続ける川口に、うんと返す。‬  「今日はどこの子?」  「インカレの女子大生」  と、続けて告げられた大学名は割と有名なお嬢様大学で、浜崎は思わず声をあげた。  「すごいな、サークル」  「だからお前も入ればって言ってんじゃん」  川口は、脱色しすぎて白に近い髪を乱暴に搔きあげて笑う。少し前のこいつの髪色は結構良かったと、ふと思う。濃いめのグレーアッシュ。暗いところでは黒に近いが、光に当たると白っぽく輝くあの感じは、悪くなかった。照明に映えるいい色だとは思うが、飽き性で頻繁にカラーを繰り返す自分の性癖ではブリーチがネックだと考え、そう言えば平木も、現役の頃からあまり髪色を明るくすることはなかったと連想を広げ、そんなことをつらつら思う間も頭と口は別々に動き、川口の言葉に応えて言葉を発していた。  「練習、急に入るし。あんまちゃんと参加できないから」  「べっつにいいんだって。真面目に参加してるやつの方が少ないんだし」  そっか、と適当に相槌を打つ。川口は浜崎の生返事にそうそうと大きくうなづき、じゃっ、また後でと教室を出て行った。  その後ろ姿を見送って、隣の席に投げ出してあったバックパックを手に席を立ちながら、あの感覚はよく分からないと浜崎は思う。参加できないなら、やらなきゃいいのに。必死にも、本気にもなれないことに、費やす時間は無駄ではないのか。必死で、本気でやるから、多分、本気で嬉しいし、本気で悔しい。  認めさせたい。あの人に、認められたい。  よく冷えた室内から一歩出ると、外はむっとする灼熱地獄で、浜崎は思わず立ち止まり、一瞬で気管に纏い付く粘つく湿気を払うため、ふうと大きく息をついた。暑さに関していえば、日差しがない分まだマシだったが、真夏の曇天は何となく気が滅入るから好きではない。喫煙所を避け、少し遠回りをして2限目の教室に向かう道すがら、浜崎は2日前の夜を反芻する。  多分、今までで一番、いい感触だった。あの日の箱は、平木のツテでよく使わせてもらうライブハウスで、“慣れた場所”という意味でも、Hi-vox.ファンが大半だったという意味でも完全にホームだった。観客の熱気、突き上げる音の振動、こちらを見上げる平木の視線。気持ちよかった。思い出すと身の内がざわりと蠢き、ふわりと上がる体温に、浜崎は薄く笑った。  10年前、母親が勝手に応募したアマチュアのヴォーカルコンテストに、平木はいた。  浜崎の母親はアイドル好きで、息子を事務所に入れたがっていたのだが、当の本人はその頃サッカーに熱中しており、母の希望は叶いそうもなく、これで少しでも興味を持ってくれたらと知らないうちに申し込まれたコンテストだった。それは、その頃流行っていたアマチュア発掘オーディション番組で、予選通過すると本戦となり、テレビのステージで歌う権利を得られるというルールだった。歌は、母親の指導のもとカラオケで時々歌わされる程度だった浜崎が本戦まで勝ちあがれたのは、子供が一生懸命歌う姿がテレビ的にウケるからという判断のもとだろうと推察するが、浜崎はとんとんと本戦まで勝ち上がり、そのステージで、平木に出会った。  浜崎の出番は平木より早く、人前で歌うことが初めてだったこともあり、長く張り詰めた緊張の余韻でぼうっとしながら、ステージ裏で始まった母親とスタッフの話が終わるのを、少し離れたパイプ椅子に腰掛けて待っていた。自分の直後に歌った誰かの声は全く耳に入らず、幼い浜崎の胸の中はもう、早く帰りたいという一心だった。  時間の経過と共に緊張の糸が解け、ステージ裏のざわめきが眠気を誘うBGMになりだした頃、かつんと、綺麗に磨かれた靴のつま先が、閉じかけた視線の先で止まった。  ー…浜崎、茉莉…くん?  呼ばれて、反射的に顔を上げる。こちらを見下ろす長身は、ステージから漏れる光を背に、その形だけを浮き上がらせていた。眩しさに目を眇めて見上げると、男は、少し笑ったようだった。  すっと男が膝を折る。逆光の眩しさが薄れてようやくその顔が目に入り、お母さんなら、“オスっぽい”と言いそうな顔だと、咄嗟にそう思った。  ー歌、好き?  浜崎の前にひざまづいて視線を合わせ、男が問うた。今まで向けられたこともないような真剣な眼差しに、眠気が一気に吹き飛び、浜崎は思わず背筋を伸ばした。真っ直ぐに見つめる視線の強さに、気圧される。言葉の内容よりもその目に意識が向いたせいで、一瞬、反応が遅れる。  ー…………分かんない  腹の底まで見通されそうな視線に怖気付いて自身の膝下に目を落とすと、ふうんとため息のような返事を零して、彼はすぐに立ち上がった。  ー……俺は、好きだよ  どこか、挑発するような響きがあった。ぴりりとしたその気配に、思わず顔を上げる。見えたのはまた、感情の見えない、黒い影。  ー……すごいいい声してたから。曲、書かして欲しかったんだけど。好きじゃないならいいや  バイバイと、掌を押しつけるように頭を撫でられる。強い力に首がグラつき、車酔いの不快感に似た感覚に眉をしかめる。無意識にその手を振り払うと、男の手は呆気なく離れてゆき、同時に、踵を返して浜崎に背中を向けた。  ー……平木さん!平木桃矢(とうや)さん!  ーすみません、ここです  タイミングよくかかった声に男が応じる。平木桃矢。早足に遠ざかる背中に視線を留め、浜崎はその名を脳内に反芻した。  向けられた視線、かけられた言葉。その端々から匂う、刺々しい、瑞々しい、想い。あれは多分、浜崎がチームメイトでポジション争いをしている彼に向けるのと同じ感情だった。憧憬と嫉妬と、それでも自分の方が上だという自負心の狭間。あんな大人が、自分のような子供に多分、本気で張り合っている。本気で張り合ったのに、本気で応えない浜崎に、平木は多分、怒っていた。本気でやっているものに、本気を向けないライバルに対する怒りは、浜崎も、よく、知っていた。だから、気づいた。浜崎の視線の先で、平木はスタッフに連れられてステージの袖に向かっていく。何故だか、目が離せなくなった。  ーでは、次の挑戦者に登場していただきましょう!予選会では力強い歌声で会場を沸かせてくれました!平木桃矢さん  背筋を伸ばして、光の輪の中に足を踏み出す男の背は、なにがしかの自信に満ちて、ひどく大きく見えた。  ごく短い自己紹介の後、審査員から質問が飛ぶ。なぜ、今回この企画に応募したのか。  ー……歌が、好きなので。もしプロになれたら、ずっと歌っていられるから  ステージの上、スポットライトの真ん中で。歌が好き、と言った平木は確かに一瞬、裾にいた浜崎に視線を寄越し、直後、ついと視線を外した。何故だか、捨てられたような心地になった。  ー……では、準備はよろしいでしょうか?  いつから歌い始めたのか、今はどんな風に音楽をやっているのか等いくらかの質疑の後、一呼吸置いて司会者が重々しく告げ、平木はすっと、目を閉じた。目を閉じたまま、はい、と短く答えた彼が次に目を開けた時、平木の視線はただ真っ直ぐに前を向いており、歌いたいと、その意思だけを表明する横顔に、浜崎は思わず、あ、と小さく声をあげた。綺麗だと、思った。  ー……エントリーナンバー23番、曲は所属グループBONDSオリジナル曲。『Freedom』  アナウンスの直後、平木は多分、少し笑った。それは、緑の葉先にとまる朝露の一雫のような瑞々しさと鮮烈さを持って浜崎の胸に届き、瞬きの一瞬に消えたその表情に、あぁ本当だと、子供ながらに納得したのだ。あの人は本当に、歌が好きなのだ。好きで好きで仕方がなくて、だから、あそこに立っている。気づくと同時に、無性に恥ずかしくなった。あの男と同じステージに、自分も、立ったのだ。彼の見ている前で、浜崎も歌ったのだ。覚悟も気持ちもないまま、言われるがままに。それがすごく、恥ずかしいと思った。  すうっと、平木が息を吸い、音と声が同時に始まる。イントロなし。音楽はあくまで伴奏で、メロディーラインを奏でるのは、時に柔らかく、時に力強く、言葉を紡ぐ声一つだった。  それはまるで、音楽が、彼の声に合わせて踊っているかのようだった。キラキラと輝きながら一群の群れを為す音たちは、平木の歌声ひとつで形を変え、色を変え、世界を彩る。文字通り、彼はアーティストだった。  すごい、と、多分、浜崎は呟いていた。それは呼吸を忘れる程の衝撃だった。音楽が彼に恋をしている。彼の周囲を色とりどりの音が取り囲み、その動きひとつでキラキラと舞う。主導権は平木が握りながら、それなのに、その音と声はあまりにも丸く調和していた。刺すような激しさも、溶けるような甘さも、全部。  ーさよなら、窮屈な世界  音に乗せた言葉一つに、溶けて、混ざって、共鳴する。  短いアウトロ。ベースの弦の振動が僅かに後を引き、音が、止まる。  ー……I'm freedom.  マイク越しに囁く声が耳に届き、一瞬の静寂。その、刹那。割れるような喝采が響く。平木はゆっくりと頭を下げた。浜崎の眼に映る横顔は、今度は少し、高揚していた。笑顔はない。ただ、静謐な情熱と喜びが、彼の表皮という表皮から滲むように溢れ出し、空中を満たし、息をするたび体内に入り込むその飛沫に、肺が焼かれるようだった。鼓動がうるさい。耳元で、心臓が脈打っている。  その後、平木の歌について審査員からコメントがあったはずだが、その声は一つも浜崎の耳に届かなかった。ステージに立つ男の存在に圧倒される。圧倒的な、歌声だった。  ひと時も目が離せないまま彼の出番は終わり、明るいステージを降りた男の姿を認めて我にかえる。思わず、駆け出していた。  ー……あのっ  袖に戻った彼にスタッフが何やら話しかけていたのだが、それにも気付かず声をかけた。平木の顔がこちらを向く。先ほどまでの高揚冷めやらぬ視線に晒され、腹の底からぞわりとした感覚が湧き起こり、浜崎はぶるりと身体を震わせた。嫌な感じはない。むしろ、快い、感覚。  ー……曲、  なんとか声を出したものの、何をどう言ったらいいか分からず言い淀んだ浜崎に、平木は屈みこんで視線を合わせた。つるりとした瞳の奥、レンズの煌めきの向こう側に、灼熱の炎を見た。  ー……本気でやる気んなったら…俺んとこおいで  本気じゃないやつにはあげない。  囁きはやはりどこか刺々しく、それでいてひどく扇情的だった。  そうして、その言葉を頼りに走り続けた浜崎が二度目に平木に会った時、彼はもう歌うことをやめていて、8年越しに押しかけた浜崎を視界に捉えた瞬間、ふるりと一つ震えた体からじわりと、なにがしかの思いが滲み出したように見えたがそれは言葉にならず、  ー本気に、なったんだ  浜崎が名乗るより前にそう言って視線を逸らせた男の横顔にはもう、あの日ステージで見せた情熱も不遜も喜びもなく、諦めたように空を見つめる視線がただ酷く痛々しくて、浜崎はなぜか、泣きたいような気持ちになった。
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