海の声

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「行きましょうか」  お母さんは線香とろうそくをさっとバッグにしまうと、すぐに歩き出した。よく墓参りにくるけれど、そこに滞在する時間は長くない。 「うん」  さっさと歩き出すお母さん。とぼとぼと歩く私。私はもう少しお墓の前にいたい。いろいろと言いたいことがあるから。  ごめんね、お父さん……と。  お父さんは、私に怒っているだろうか。いつも笑顔で私のことを見て、大きな笑い声をたてて、家の雰囲気を楽しいものにしていたお父さんが。  霊園を出て、路面電車の停留所に向かう私たち。なんだか後ろからだれかついてきているのを感じるのは、お父さんだろうか。  霊園を背中に坂を下りていく。急な坂を転ばないようにゆっくりと歩く。お母さんのヒールが危なっかしく前のめりになるのを後ろから見て。 「ねえ汐莉」  そう言って、お母さんが止まった。何かを言うと思わなかったので、私も急に立ち止まり坂を歩く反動でちょっと前のめりになった。 「なあに?」  呼びかけておいてもお母さんはこっちを振り向かない。お母さんは私に言いながらも前を向いたまま、言い放った。 「あんた、胡島に行く気はない?」 「え……」  胡島。昔住んでいた小さな島。そして私とお父さんが生まれ育った島。そこの島と海が大好きだった。でも私は今の土地に来てから一度も胡島に帰ったことがない。  帰ったことがないからわからないけれど、帰ったらお父さんの記憶がよみがえってくるだろうか。  私の答えは、迷いながらも決まった。 「行かない」 「なんで?」お母さんの新たな疑問はすぐに返ってきた。 「胡島はお父さんの実家、ご先祖様のお墓もあって、お父さんの弟さんの二郎叔父さんもいる。あ、そういえば従兄弟の湊斗くんもいるのよ? あの子も大きくなったかしらねえ」  路面電車に乗りこんだ。チンチン。音が鳴るとゆっくりと動き出した。行きと同じ場所に座る。お母さんとは隣同士になった。路面電車の走る音、車内が揺れる音、乗客のしゃべる声。それだけが私の耳に入る。流れる風景、速く走る車の流れ、ゆっくりと坂を登る歩行者。それらを見つめる。 「ご先祖様にもお墓参りしてきたら? それに叔父さんたちにも会ったら、喜ばれるでしょう」  お母さんの声がすぐ近くで聞こえるだけ。
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