海の声

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 言われるがままに朝の支度。朝食を早く食べ、自分の部屋に戻って服選び。  黒っぽい服にしようかな。私は七分丈のジーパンに黒色の半袖シャツを選んだ。バッグも派手めなものを避けて財布とスマホだけを入れる。これで準備は完了だ。 「お母さん、準備できたよ」  お母さんはリビングにある化粧台の前に座っていた。黒色のワンピースに、わざわざ真珠のネックレスをつけ、なぜだかファンデーションと口紅を欠かさない。おしゃれしているというより正装していると言ったほうが正しいかもしれない。 「お母さんの黒いバッグにあれを入れといてくれる?」  いつのまにかテーブルに置かれていたもの。私はバッグにきちんと入れておいた。 「これでよしっと」  ファンデーション濃いめのお母さん。吹き出物や最近目立ってきたシワをうまく隠している。毎回、ここまでやるのだ。必ずといっていいほど。 「じゃあ行きましょうか」  玄関に行ったらお母さんは黒いパンプス。私はそんなの持っていないからスニーカー。太陽がさっきより昇った、炎天下の外へ出た。そんな中を歩いて路面電車の乗り場まで歩く。私たちが住むメゾネットタイプの賃貸アパートからゆっくりと離れてゆく。  ガタンゴトン、ガタンゴトン……キー……  道路の上に敷かれたレール。もう見慣れた。これがないと街もあるだろうが、この街では、重要な交通手段の一つだ。私とお母さんは開かれた扉から乗りこんだ。通勤ラッシュが終わり、電車の中は空いていた。お母さんが何も言わずに後ろの席に行ったので、その隣に座ることにした。  チンチン……  ゆっくりゆっくりと前へ動き出した。小さな振動が足から伝わってくる。車内は静かで落ち着いている。 「お母さん、お花買わなきゃ」「そうね」  お母さんはどこかそっけなく答える。窓の外をぼんやりながめ路面電車を追い越す車たちを見つめている。  私もそれ以上何も言わなかった。  お母さんも疲れているのだ、久しぶりの休みだし。  それに、と思った。こういうのはもう慣れっこだ。昔からお母さんは仕事仕事と言って、休みの日は疲れを取ることに専念していた。小学校のときに引っ越してから今の家に移り住んだ頃からずっとそうだ。それまでは、お母さんももっと優しかったのに……と思ったころ、路面電車が目的地『花ノ井丘』に到着した。  すべての原因は私にあるということは、心の中にしまっておいて。  私とお母さんはお金を払って路面電車を降りた。チンチンと鳴って、また電車は走りだす。この場所にくるときはいつも花ノ井丘で降りて、すぐ左手にある花屋で花を買う。お母さんは特に何も考えず、ほおずきとひまわりと菊を手に取った。
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