海の声

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「汐莉」  目をつぶっていると、お母さんの声がした。お母さんの声で、はっと我に返った。  そう、お母さんも思っているのだろう。  私が溺れさえしなければ、お父さんは今でも生きているんだろうって。  お母さんが私に冷たいのも、ときどきそっけない態度をするのも、私に対する愛情というものが、その思いから欠けてしまったんだろう。だって、小学校二年生までは本当に幸せそうで優しい笑顔をしていたから。今ではほとんど見なくなってしまった。 「お母さん……ごめんね」  ポツリと言葉が思わずこぼれた。 「なにが?」目を合わせずに言ってくる。 「お父さんのこと」  お母さんから小さく息を吐く音が聞こえた。 「あんたが悪いわけじゃないよ」  言葉ではこういうことを言う。でも、声がそれは違うと言う。お母さんはきっと今でも、私のせいでお父さんが……一番愛する人が死んでしまったんだと思っているに違いない。小学生の私は、お母さんの一番大切なものを奪ってしまったんだ。  だから海を見ると、悲しい記憶と思いが蘇ってくる。そのせいで海が見られなくなった。入ることなんてちょっとも考えることができなくなった。怖いから。また溺れたらどうしよう、溺れたとしてまただれかを死なせてしまったらどうしよう。そう考えてしまって。  海。昔は大好きだった。従兄弟や友達より、海は大の『友達』だった。けれど今は、怖くてたまらない。引っ越した後の小学校と中学校のプールの授業は受けられなかった。プールの水を見るだけで、お父さんの事故を思い出すから。前住んでいた家は自分の部屋の窓から海が見えたけれど、引っ越し先の家では海が少しも見えないところで、安心だ。  それらが、私の心に秘めていること。決して言ってはいけないけれど、お父さんがなくなってからずっと私の心に残り続けているもの。  私はお母さんに対して、結局何も言い返せなかった。このやりとりは何回目になるだろう。お母さんがそっけなく言って、私が言葉を失う。 「本当に、汐莉のせいじゃないんだからね」  ときどきこのやりとりでたまにお母さんがかけてくれる言葉。それさえ冷たく感じる。  私が溺れた十年前の七月二十四日、私の意識がなくなって、目を覚ましたとき、お母さんは泣いて喜んでいた。病院のベッドにいつのまにか寝かされ、目を覚ましてすぐにお母さんの顔が目の前にあった。よかった、よかった、あんたまでナクナラなくて本当によかった、って言っていた。寝こんだままの私をギュッと抱きしめてくれた。それ以来だ。お母さんが冷たくなったと感じたのって。目の大きさとか、小さい口と耳とか、顔の筋肉とか、私がお父さんによく似ているから、余計にお父さんのことを思い出すのだろうか。
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