第三章     朝色のため息

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第三章     朝色のため息

 おかしい。これは絶対におかしい。  多かれ少なかれ、全員がそう思っていた。いくらM・システムのプリセットプログラムとはいっても、こうまで突然すぎていいものだろうか。M・システムに対して強い疑問を抱いたのは、これが初めてかもしれない。今まで、人口管理とその育成などの、政治的でない分野のすべてと言えるほどの組織をたばね、動いているそれは、他の組織には中枢に近く位置していても、開発局にとっては、あくまで道具としての立場でしかなかった。そこから出てくる指令は、プログラムが動いた結果として導かれてきた産物、と無理に言えないこともなかったのに、今回の指令は、まるでプログラムそのもののような印象を受ける。あまりにも無理な軌道修正ではあるまいか。  なぜ。  そんな疑問だけが全員に共通した感覚だったかも知れない。けれど、それでもM・システムはなにを答えてくれるわけでもなく、『アウラ』に至っては、なにも答えないのは当然といえば当然であった。『アウラ』は一般向けの、M・システムの表の顔なのだから。 ***  シュッ、とドアが開いてクレアが入ってきた。 「やぁ、来たね」  ジェルは棚の中を整理しているのか、はたまた散らかしているのか判らないような状態で、なにかを探しているらしい。左手にいくつかのファイルを抱え、右手でファイルを探している格好でクレアをちらりと見、言ってからまた手を動かしている。彼の足元にもファイルが散乱していた。  なにやってるんだろう。クレアは目を点にした。急ぐからといって呼ばれたので彼の部屋に来てみれば、呼んだ当人はファイルをひっくり返している。クレアは数多くのファイルに囲まれて、部屋の入り口で立ち尽くすしかない。けれども、そのままいつまでもドアの所に立っていても仕方がないので、ファイルを踏まないように気をつけながら部屋に入る。 「女性を部屋に呼び付けるなんてどうかしてるわ」  クレアは足元にあるファイルを一つ取り上げた。 「まぁそういうカタいこと言うなって。そんな色っぽい話じゃないよ。判ってるから来たんだろ?」  探しているうちの一つを見つけたらしく、嬉しそうな顔をしてジェルはようやくまともにクレアを見、そしてひきつった。 「ク、クレア、そのファイル、どこから取った? 覚えてるよな」 「これ? 覚えてない」  クレアは微笑みながら言うが、ジェルの顔は凍ったままだ。 「なぁんてウソ」  いたずらっこのような瞳をしてクレアがからかってみせると、ジェルはふうっと息をついた。 「ジェル、なにやってるの? こーんなにファイル出しちゃって。その調子だと全部ひっくり返すつもりらしいけど、いらないファイル片付けるだけでもかなりの仕事ね。まさか、これの検索を私にさせるつもりじゃないでしょうね?」  クレアは、山と積み上げられたファイルの群れを指した。 「僕の手伝いをしてもらうだけだよ」 「同じことよ。たとえ半分だけをやるにしたって、これの半分ならかなりのものだわ。なんだって急にこんなこと始めたの?」  そう言ってクレアは、ジェルが検索するつもりであるらしいファイルの山々を一つ一つ眺めた。 「とりとめのない取り出し方してるのね。この船のデータに……ちょっと、歴史を紐解いてどうしようっていうのよ。生物学もある。これなんて八年も前のファイルじゃない」 「その生物学の奴、君内容把握してる?」 「大体ね。専門ですから。聞いてくれたらその項をピックアップできる程度には」  仕方がないなぁといった顔でクレアが言うと、ほっとしたようにジェルは息をついて目頭を押さえた。かなり目が疲れているらしい。 「こんなに多種類のファイルどしたの? ジェルの専門じゃないものもずいぶんあるじゃない」 「そう、僕はすべてに興味がある」  当然、といった風で彼は言い、やってられない、といった顔でクレアは肩をあげる。 「はいはい。で、どうするの」 「僕らが無期出向扱いになった理由を突き止める」 「え?」  クレアにはジェルの言っている意味がつかめない。 「本来ならこういった情報は必ず本人に前情報がある筈だ。ジョンが教えてくれたのは確定情報だった。あれでは本人達へは遅すぎる。課内全員と同じ速度だ。あれからデータ検索もしたけど、これについての情報は一つも無かった。SSTAで連絡した以上、データが送られていて当然の筈じゃないか。だから、M・システムに入るんだ」  一気に熱がこもったように言ったジェルに対してクレアは冷静だった。ただあっけにとられているようにも見えたし、はじめから彼の言うことに取り合っていないようにさえも見えた。実際、彼女は、彼の言うことは何処か遠くで起こっているような感じしか受けていなかったので、それは仕方がないと言えば言えたかもしれない。とりあえず言いたいことは言ったというジェルに、クレアはこう言った。 「判った、判ったから、とにかくこのファイルの山をどうにかしてね。このまんまじゃなににもできないでしょう。それからもう一度呼んでくれる? じゃね」  さらっと言いのけてクレアは部屋を出ようとする。それでもなにか言いたそうなジェルに気がついて、 「あんまり熱くなっちゃだめよ。体、もたないからね」  と、いつものどこか透明な笑顔でジェルを黙らせて彼女は部屋を出て行った。  ジェルは、クレアも当然、一緒になってすぐにでも行動してくれると思っていただけに唖然とした。彼女はまるで子供を説得するかのように冷静だった。  ジェルは改めて自分の部屋を見回して片付けるのが嫌になった。と同時によくこれだけ棚に入っていたものだと感心さえしてしまう。クレアでなくても呼ぶなら片付けてから呼べと言ったに違いない。 「フレア・ブルー女史、ご心配なく。クレアは今誰よりも冷静ですよ」  うるさいほどのファイルの中でぽつりと彼は呟いた。 ***  信明は入ってきたデータをチェックしながら無期出向について考えていた。出てくるデータは彼の目に映るものの、本当にただ映るだけで意味を持って頭に入ってこない。  俺があの家を継げなくなるということはどういうことなんだろう。  漠然と考えた。アテラに家ごと移る、というのも一瞬頭をかすめたが、それは無理な話だ。アクアリウム・テラ・セカンド、通称『アテラ』。あの星はまだ開発途中だ。なにより開発局関係者以外は近寄ることすらできない、なにより存在を知らされていない星だ。  では、どうする。  今すぐにでも計画メンバーから外れる。これは無理な話だ。開発局は普通の企業体ではないし、少なくともこの計画に俺の代わりはいない。簡単に辞めてしまえる状態にはいないのだ。計画が成功した時点でならなんとかなるかもしれないが、そんなものいつになるのかまだ判らない。惑星一つ、まるごとの開発だ。何年かかるか、なんて誰が断言できるだろう。  では、どうする。  今日子に跡を継がせる、というのがある。あれも嫁いだ先ではなんとかやるだろう。でも、継ぐとまでは考えたことはない筈だ。ものが全然違う。俺が死んだのならまだしも、こうして生きているのが判っている以上、俺が継ぐのが当然だと思う。皆そう思っているだろう。せめて弟がいればいいのに。そうすれば俺の良心が少し痛む程度で済むのに。でも、弟妹は今日子しかいない。  では、どうする。  答えが見つからない。  考えてもみなかった。  自問自答してる間に考えが袋小路に入ってしまった。もしくはメビウスの輪といったところか。いつまでたっても、どこまでいっても同じところをぐるぐる回っているばかりでどこへも進まない。  疲れた。  データを次々と出してくる端末からすっと離れると、どさりとベッドに身を投げる。端末のことは既に頭になくなっている。  一体、どうすればいいのだろう。  なぜ無期出向になったのかなんて、おそらくどこに聞いてもムダだろう。  もう、考えたくない。  でも、考えなくてはならない。  こんなに距離があったら家を呼び出して話し合うことすらできない。かといって、なにをどう話そうかなどということが頭の中でまとまっている訳でもない。だから、たとえつながってもどうすることもできない。  そう、どうすることもできない。 ***  いつもより濃いめの紅茶をいれて香りを楽しむ。ウィルの癖だったような気もするし、私からウィルにうつったような気もする。落ち着きたい時は当然、ウィル用のお茶もいれる。これに限らず、どこかでまだウィルの存在を気にしている行動を色々なところでしているのだろうな、とクレアは紅茶の紅色を見て考えていた。フレア・ブルー医師はこれを見たらなんて言うのだろうか。  なにもかも吸い込まれていきそうな深みのある紅。優しくて、ちょっと苦味があることもあって、たったカップ一杯なのにひきつけられる紅。秋の夕陽を思い出す。  つい、と目を『外』に向ける。こちらも吸い込まれそうなくらいに濃い闇。  SSTAのデータに限らず、データをすべて納まるべきところに分けて、一区切りつけてから飲むお茶が好きだ。なにもかも忘れて、ただぼうっとまどろんで目を閉じる。優しげな感じをいつも忘れないように。それでも、その時どこかで、自分の影がとまどっているような感じがするようになった。肌では判らない風を感じていると、どこかで幻が冷ややかに笑っている。その悲しい幻が同化してから目を開けると、落ち着いている自分を見つける。心だけ何光年も飛ばして戻ってきたような感じもする。ちょっと聞くとなにかアブナいような気もするけど、それはとても懐かしい感覚だ。例えて言うなら、秋の夕暮れか夏の朝。どこか透明な空気とそよぐ風。冬の緊張感のある空気。  ひと心地つけて、クレアは端末を叩いてM・システムのデータベースとアクセスを始めた。パスワード入力、選択、実行の繰り返しの中、IDをたまに聞いてくる。中にはIDナンバーがパスワードになっているものもあって、なかなかにややこしい。もっとも、M・システムへの中心部へのアクセスだから、当然と言えば当然と言える。端末も登録されているものでなければならないのはもちろんだ。  慣れているので反射的にキーを叩いて数々の『門』を抜けた。アクセスした先は、無機的なM・システムの中心にも関わらず、知る限りでは唯一『人間的』なものだ。性格さえ感じられる。データベースの中にあってデータベースでないもの。 『お久しぶりです。元気にしてました?』  画面に人の顔が現れ、そう言った。このあたりは、まるでテレビ電話に近い感覚だ。 「お陰様で」  クレアはこう答えてから次になにを言うべきか困ってしまった。 『どうしました、なにかあったのですか』 「別になにも。ただ、なんとなくアクセスしたかっただけ」 『ありがとう。そうやってアクセスして頂くのも嬉しいものです』  これといって画像が大きく動く訳でもない。前もって記憶している精密画像がたくさんあるだけだ。それでもまったくなにもないよりははるかに話はしやすい。まだ若い、東洋系の顔立ち。おそらく日本人だろう。中国や韓国の顔ではない。どこがと問われると困るけれど、雰囲気でそんな気がする。信明で見慣れているせいだろうか。なにか言わなくては。 「そこってJだけしかいないの?」 『おや、これは失礼、まだ説明してませんでしたか。他に数名いますよ。AとかKがね。なんなら「呼び」ましょうか』  実に気持ち良く、隠さずに教えてくれる。はたしてこれはデジタル制御故の率直さなのだろうか。 「今はいいわ」  作りものの画像が照れるのを見るのは面白い。なかなか見れるものではない。その画像は、照れながら一生懸命に真面目顔に戻る。この変わり方も、かなり人間味があって好きだ。ともすれば普通の人間と話をしているような気になる画像が、そんな気を起こさせるのかもしれない。東洋人ということを考えにいれて二十代後半から三十代前半くらいの、端正ながらもどこか人なつっこそうな顔。 『ありがとう。からかわれたような気もしますが、良い意味で受けとっておきましょう。そう言って頂けて光栄です』 「そんなこと言うコンピューターなんて、やっぱり珍しいわよね。汎用ソフトならともかく、M・システム内じゃ特にね」 『またそういうことを言う。私は「お話しソフト」じゃないんです。そんじょそこらにころがっているものとは根本的に違うんですよ、そこんとこ間違えないでくださいね』 「今やってることはそれと変わんないと思うけど」  クレアはついいじめたくなってからかってしまう。こんな、とりとめのない会話がM・システムの一部とできるなんて、信じられないような光景だなとつくづく感じている。冗談は言うしケンカもする。ケンカのできるお話しソフトなんて、確かにどこにいってもないだろう。 『それはあなたがいけないんですよ? そうさせているのはクレア、あなたなんですからね。判っていますか?』  Jが苦笑している図なんて誰が想像つくだろう。 『あなたの友人が、私にアクセスしようと躍起になっていますよ。やはりなにかあったんでしょう?』 「彼は知りたいの。なぜ私達がアテラに長くいなければならないかをね」  クレアはまた遠い目をして視線を『外』に向けた。そこには真夜中色の昼と夜が広がっている。不思議な感傷にふとかられた。地球からどのくらい離れたかなんて、はっきりと言えないところまで来ていて、当然地球なんて見えなくて、なのに今、地球の一部と会話していて、しかもそれは生物的に生きているものではないのだ。  かつては夢だった現実。  地球産生物である自分が太陽系を抜け出して、そこで地球で作られたものと『次』を造りだす。地球で生まれ、造られたものが次の地球に影響を与える。夢も希望も、不安も悲しみも作りだす。  かなえられた夢の数々。 『クレア』  こう呼ぶ声もこの画像も、おそらくM・システム始動前後にサンプリングされたものに違いない。今まで実に四〇〇年あまり、Jはなにを想い、なにを見てきたのだろう。 『クレア』  もう一度優しくJに呼ばれて、クレアは我に返った。 『旅の疲れが出てきたようですね。睡眠は充分にとれていますか』 「大丈夫よ、ありがとう。ちょっと考えごとしてただけ」 『それはあまり気分のいいものではないですね。無視はしないでくださいよ』  困ったような顔になったJは、本当に生きてでもいるようだ。 『私は、私達はM・システムの末端プログラムではないんですから、もう少し人間的に扱って欲しいものです』  クレアは、Jの言い回しが好きだ。妙に人間臭い。 「面白い言い方をするのね。J、あなたは、あなたは何?」  なんだかほのぼのとした気持ちになってクレアは尋ねる。 『私ですか。私はJです』  いつものようにきっぱりと彼は言い切る。クレアはなにも言わない。 『外とアクセスできるようにするために今はデータベースというアプリケーションに位置していますが、私はデータベースではありません。私からデータベースに干渉することはあっても、その逆はありません。私は独立したものです』 「それは知ってる。私が聞いてるのはあなたが誰なのかってことよ」  クレアの声は穏やかなままだ。 『おや、お気に召しませんでしたか。いやぁ、嬉しいなぁ。そういう質問をしてくれたのは貴女で何人目だろう。少ないことは確かですよ。でも、どう答えればいいんです?』 「どうとでも。私はいっこうに構わないから」 『私はJ。木下 純一。言葉使いに調整があることを除けばオリジナルとほぼ同じです。あなたは私をご存じですか』  Jがそう言った時、クレアの目は信じられないことを聞いたかのように見開かれた。 「貴方がそうだったの? じゃあ、仲間だって言ってた『K』っていうのはケリー、ケリー・オースティンのことなの?」 『そのとおりです。フルネームで知って頂いてるとは光栄です。私達が『開発局』と『アテラ』計画の創始者です。そう、ジェル君が今まさに知りたがっているものを造った人間です。クレア、私はJ。私は『私』です。あなたも、あなたは誰かと聞かれたらそう答えているでしょう?』 「もちろん。私は『私』よ。他の誰でもないもの」  瞳の奥に強い光を放ってクレアは答えた。彼女は落ち着き払っている。 『クレア、あなたは』  その時、Jの口調が変化したような気がした。ある程度の抑揚は当然あっても、ニュアンスという微妙な調子はやはり出しにくいJなのに、彼が名乗ったその時から、以前にも、先程にもまして人間的になっていっているような気がする。それともこれもプログラムのうちなのか、クレアが勝手にそう思っているだけなのか。Jの声は、なにかを懐かしむような感じだ。 『クレア、あなたは段々ウィルに似てきましたね』  Jの口からウィルの名前が出るのは久し振りで、その懐かしい響きはクレアの目頭を熱くさせる。 「ウィルに?」 『そう、彼に。今のあなたは六年程昔の彼に感じがとてもよく似ている』  ウィルの話題を急に始めるなんて、クレアがほんのわずかずつでも、ウィルのことを昔のこととして話せるようにようやくなってきているのを、敏感に察知したのだろうか。クレアにしてみれば、ウィルの話を聞くのに、ようやく顔をひきつらせないでいられる程度になっただけなのに、Jはどう感知したのだろう。クレアがなにも言わずにいる、それをどう判断したのかJは話を続ける。 『やはり、あなた方は似た者同士だったのですね。表現がおかしいですか? では言い方を変えましょう。さすが、四年間一緒にいただけのことはありますね』  そうだ、Jは学習する人工知能だった。おぼろげにクレアは思い出して納得していた。今までJを無理に『人間だ』とは思ったことはなかったけれど『ただの機械』だと思ったこともない。ではなんと思っていたのだろう。 『また自分の世界に『とんで』いますね。なにを考えているんです?』  Jが咎める雰囲気を匂わせながらクレアに聞いてくる。クレアはくすっと微笑んだ。 「J、あなたと初めて会った時のことを思い出してたのよ」 『私と?』 「そう、あなたと」 『三年前でしたね』 「半分違うわ。私が初めてあなたを知ったのが四年前だから、これが半分」 『またそんな細かいことを。ウィルがあなたに話したのですか』 「そう。僕にはちょっと変わった友達がいるんだよ、ってね」 『あぁ、それなら覚えがあります。私が許可しました』 「珍しいこともあるものね。あなたがそんなことするなんて」  いつから彼はウィルとの共通の友人になっていたのだろう。特別意識した覚えもあまりないのでよく判らない。 『もちろん、あなたに興味があったからですよ、クレア』  画像が微笑む。 「私に? どうして」 『ウィルの興味のある、可愛がっている女の子というのはどんな人だろうと思ったんですよ。是非会ってみたかった。そうしたら、彼もそんなことを言っていたので時期をみてOKしました。願ってもないチャンスですからね。私もあなたに興味を持っていました。あぁ、この興味という単語は不適切かもしれませんね。好意と訂正して下さい。そう、私はあなたに会う前からあなたに好意を持っていました。あなたもそうだったのでしょう? 事実、私と出会った時のあなたの反応は、ウィルが私に出会った時のそれと同じでした。私はとても嬉しかったんですよ』 「嬉しかった?」  意外な言葉を聞いたな、とクレアは静かに考えた。嬉しいなんて感情が、はたしてあるのだろうか。 『そう、嬉しかった。自分と同種のものに出会えた時、あなたは嬉しくありませんでしたか、クレア? ウィルは、私を友人として扱ってくれました。だから私も彼にそう接してきました。彼は人工知能である私も、彼をとりまく友人も、そして機械も同じようにあたたかく接していました』 「ウィルの悪いクセよ、それ」  クレアは思わず苦笑する。 『良くも悪くも、時によって変わるのでしょうけれど、それはあなたも同じですよね』 「まぁね。道具はともかく、その他にはね。でも、彼だって私だって、偏屈マニアみたいに道具を異常にかわいがることはしなかったわ」 『当然でしょう。それは区別されるべきですから』 「とにかく、JはJだし、ウィルはウィルよ。それのどこが変なの? あ、そっか、その区別がついていない人の方が多いのよね」 『そうです。これだけ『個人である』ということが要求されている時代にも関わらず、殆どの人は『同じ』です。いくつかのパターンに分類することしかできません。それであなたは昔悩んでいましたね。自分だけ周りと違いすぎると』 「そんなこともあったわね」  また軽く苦笑がこぼれる。 『懐かしいですか。でも、それは大切ですよ。それを知ってどうやって世界と折り合いをつけるか、なんてことは大切なことです。これができなければなにもできませんからね。そうした人を私はこれまでにたくさん見てきました』 「まったく、あなたが言うと説得力がありすぎるわね」  Jはクレアの言葉には答えずに話を続けていく。 『私達が要求しているのは、『自分』というものを見つめることです。原点に立ってすべてを見て欲しいのです』  いつになく彼はよく喋っている。口調に熱さえこもっている。 「知ってるわ。私だって頭を持ってるのよ?」 『これは失礼。ついいつものクセが』  くすっ、とJが笑ってみせる。 『クレア』  急にJの口調が変わった。真面目で厳しいその声につられて、クレアもつい真顔になる。 『あなたの友人のジェルですが、まだずっとデータバンクと私達にアクセスしたがっています。彼の知識は大したものです。私達の誰にアクセスするにせよ、まだ時期ではありませんが、もう少し情報を与えてもいいでしょう』 「つまりうるさいわけね」  クレアはウィンクしてみせた。 『まぁ、そんなところです。M・システムのデータバンクの一部なら彼はアクセスできますが、あれでは満足のいく解答は得られないでしょう。だからといって全部を解放するわけにはいきません。幸い、あなたとウィルの共同研究ファイルがありますね。あれを少し彼に見せてあげてはどうでしょう。おそらく、その方が彼にとっても判りやすいでしょう』 「判った、少しデータを回しておくわ。そうね、彼の知識は大したものだわ。あなた達のことも知ってるんじゃないの?」  話のピークが過ぎて緊張がほぐれてきたクレアは椅子に深くもたれかかった。 『彼は薄々感づいてはいるようですが、あと一歩というところのようですね』 「ジェルとアクセスするのは嫌なの?」 『いえ、そんなことはありませんよ? まだその時期でないと言ってるだけですよ。あなたがデータを回すことによって、彼が私達のところまでやってきたのなら、それはそのときに考えますよ。それも、じきになることでしょうしね。本当に嬉しいなぁ。またアクセスできる人が増える』 「それで? 計画は次の段階に入れる?」  二人の目が光を放った。クレアの顔は笑っているが、目だけは真面目になっている。試しているのだ。 『そろそろかな。でもどうして』  Jは納得顔をした後で素朴な疑問を投げかけてくる。 「私にも頭はあるといったでしょう?」  クレアがこう言うとJは慌ててまた謝った。 「あ、怒ってるんじゃないのよ。これもウィルとの研究の一貫でね、判ったことなの」  Jに悪いような気になって、クレアも慌ててフォローをいれる。 『ありがとう。それで、察しのいいクレアさんは? 計画名もご存じなんですか?』  Jもクレアにやられてばかりではないようだ。しかし、クレアも負けてはいない。これじゃない? と言ってキーを叩いた。  テラ・インコグニータ計画。クレアがそう打ち込んでみせると、Jは本当に驚いたようだ。妙に嬉しそうな顔をしながら、ジェルを含む人々を押さえるのと、通常彼が行っている数々のデータ処理をするために彼は画面から消えていった。  クレアは、なんだか久し振りに楽しく喋った気分になっている。なぜだかとても気分がいい。  解放された気分で回路を順々に閉じ、ファイル棚に向かった。学会用のファイル、部用、私用、そしてウィルとの共同研究ファイルがきれいに分類されて並んでいる。それを一冊取り出して表紙をめくると、データチップ毎の見出しページがある。更にはらり、はらりとめくっていくとデータチップが何枚かずつ並べられている。ファイルそのものは薄くて、データチップも、それ程数は入らないけれども、一枚のデータ容量がかなりのものなので同じ厚みをもってしても本とは桁違いのデータが入っている。  何冊かのファイルから何枚かずつデータチップを取り出して携帯用ファイルに移すと、クレアはジェルの部屋へ向かった。 ***  ジェルはクレアに言われて我に返ってみると、確かにファイルが散乱しており足の踏み場もない、というのが判ったが、奥にまだいくつかのファイルがあるのでそれを選別してから片付けることにした。  ジェルの持つファイルは人一倍多い。『知識のジェル』と言われている彼の持つファイルだ。たとえちょっとしたことでも興味を持てば必ずファイルに入れている。その『ちょっとした』データがかなりの量あるのだから、ファイルが人よりどうしても多くなってしまうのは仕方のないことかもしれない。ジェル本人でさえ、たまにデータ整理をしなくてはどこになにが入っているのか判らなくなる程だ。タイトルとファイル名、データチップの検索用だけでファイル一冊できてしまうかもしれない。よくそう言ってからかわれたりするのだが、本人もそんな気がしないでもないのであまり強くは否定できない、というのが口惜しいところである。  来客を告げるブザーが鳴った。はたして入ってきたのはカールで、彼は部屋に入ろうとして部屋の中を見た途端に目を大きく見開いた。彼はとりあえずドアだけは閉めた。 「な……お前なにしてんの? ファイルひっくり返して。もしかして全部出してんの? なに、データの大掃除でも始めるのか」 「いや。ちょっと調べものしてるだけ」  ジェルはカールの言葉をこれといって介すでもなく、ファイルの選別を続けている。 「ちょっと、でこんだけファイルをひっくり返す奴がいるかよ。普通検索かけないか」  カールの目はさすがに普通に戻っていたが、あきれた様子はそのままだ。カールのそんな言葉にもジェルはまったく動じた様子はない。 「ったく、しょうがない奴だな。一人で片付けろよ。俺は手伝わないからな」 「言われなくても判ってるよ」  ジェルは、返事は一応するものの意識がカールに向いていないことは明白だ。 「その様子じゃまだ知らないんだろ」  グループを組んでしばらく経っていることだけあって、カールもジェルへの対し方がかなり慣れてきている。今はこうやって生返事をしているが、ジェルはおそらく、聞いていないようでちゃんと聞いてはいるのだ。ファイルの方に意識の重きを置いているだけの話で、それが終わればちゃんとカールの方を見るだろう。決してカールのことを軽んじている訳ではない。その証拠に、ちゃんと返事は返ってくる。 「なんのこと?」 「ガヴィの話だよ。彼女、ようやく開発局に来る気になったってさ」 「へぇ。あいつが卒業するの。なんか信じらんないなぁ。あいつって一生学生のような気がしてたのに」  いたって呑気にジェルが言うと、カールはかえって驚いた。 「お前本当に知らないのか? SSTAのデータに入ってた筈だろ。俺んとこにそう入ってた」  ようやく最後のファイルを分け終わって、トン、とファイルの山の上に最後のファイルを置いてジェルはカールの方を見た。 「あぁ、そう言えば、なんかそんなようなのがあったな。他のことに気、とられててさ、ちゃんと見てないんだ。で、彼女なんて言ってた? 理由は入ってなかったんだ」 「冷たいなぁ、お前。仮にも昔の恋人なんだろ」 「昔のね。今は友達だよ」 「お前って割り切ってんのな」 「当然。あいつもそうだよ。そうじゃなきゃつきあえるか」 「なんで別れたのか知らないけどさ、別れてなおそれだけ仲のいい奴らなんて始めてだ」 「ほめるな、ほめるな」  まぁまぁ、といった感じで手でカールを制してみせる。 「どうせガヴィのことだから、アカデメイアに飽きた、とか言ってんじゃないの。あ、違うな。あいつ勉強は好きだからなぁ。そうだ、バイトに飽きた、これだろ。違う?」  まるで妹かなにかのことを話すようにジェルは考えをめぐらせながら言った。 「本当に見てないのか? いいけど、お前ってやっぱりよくガヴィの性格把握してるなぁ」  なにを思っているのか、カールはうんうんと大きく納得している。 「ガヴィって割と単純な性格してるんだよ。知ってたか? それにしても事務所がよくもバイト辞めさせてくれたよ。なにか聞いてる?」  ジェルは、今必要ないと判断したファイルの山を片付け始める。このままでは二人とも身動きできない。 「一年くらい前から段々減らしてたとかなんとか言ってた。計画的だな」  カールは邪魔にならないよう壁にもたれてジェルの片付けを見ている。  こういう時に、下手に歩いたり手を出したりすると、かえって邪魔になるものだ。ちらかした当人だけで片付けさせた方が結局早く片付く。 「あいつが? へぇ、成長したじゃないか。いや、それでも大もとは同じだからな。油断できないな」  笑いながら、ジェルは片付けを続けている。 「事務所はたまんないだろうなぁ。本人はバイトのつもりでいても稼いでたもんな。よく手放したな」 「こうと決めたらなんとしてもやり通す、そんな奴だよ。悪く言えば頑固者だね」 「頑固?」 「そう、頑固だよ。それであいつは昔から損ばかりしてる。もう少し気楽になればいいのにな。それで元気だって?」 「あぁ。なぁジェル、お前今なんか上の空みたいだから、俺帰るわ。じゃな」  そう言ってカールが出ていこうとするのにジェルが振り返る。 「なに、なんか用だったの」 「いや別に。ガヴィの話だけだよ」 「あ、そう」  実にあっさりと、なんの余韻もなしにジェルが答えるのに、 「お前、その妙にあっさりしたとこクレアに似てきたんじゃないか」 カールは意見を述べてみせた。 「そうか?」  ジェルがなんのてらいもなく言ってのけるのに、 「それだよそれ」 と切り返す。 「と言っても、お前ももとからあっさりしたとこあるよなぁ。そうじゃなきゃガヴィとあれだけの仲になってて急に別れたかと思えば、それからずっと仲のいい友達のままで続いてるなんてできる筈がない」 「そうかなぁ。別にそこまで深く追及するほどのことじゃないと思うよ」  ジェルは、すっとぼけた、ちょっと困ったような顔をした。これ以上この話題をしても仕方がないとふんだのか、カールは話題を切り替えてくる。 「で、クレアとはどうなってんの」 「へ?」  ジェルはカールの言ったことが理解できないらしく、すっとんきょうな声を出した。カールは薄く笑いを浮かべながらジェルを見ている。 「またなにぼけてんだよ、この。気になってんだろ」 「なにが」  ジェルの顔は一見きわめて冷静なままだ。 「おやめずらしい、とぼけるとは。あれだけクレアに相手にされてなきゃとぼけたくもなるか」  うんうんとカールはうなづいている。ジェルは反撃を開始せざるを得ない。 「相手にされてないんじゃないって。そんなんじゃないよ」 「どこが。なんだお前もしかして本気なのか」  カールの顔は、からかうような顔から真面目な顔になりつつある。 「だから、そんなんじゃないって。にしてもカール、その言い方は失礼だと思わないのか。それだと僕がガヴィに本気じゃなかったと聞こえかねない。あの頃、僕はガヴィに、確かに本気だったよ」  ジェルのきっぱりした迫力に押されたようにカールがなにも言えなくなったところで、ジェルはぽつり、といった感じで言葉をつなげる。 「クレアっていつも遠い目をしてるだろ。あれが気になるんだ」 「もともとああいう顔する奴じゃないの」 「全然違う」  間髪いれないジェルの言葉に、カールは再びたじろいだ。 「昔はあんなに生気のない表情ばっかりじゃなかった」 「それいつの話だよ」 「二年前くらいまでかな。あんな表情ばっかりになってきたのが一年半くらい前からかな。妙に冷めてて、いつでもどこか周囲と違ってる。お前クレアと初めて会ったのいつ頃?」 「一年前かな。このグループになってからだから。その前は見かける程度で、それも一年半くらい前だな」 「じゃあ無理ないかな。とにかく、今の彼女ってどこか生気に欠けるんだよ」  ジェルが至極真面目な顔をして言うのを聞きながら、カールは、それだけ細かく見ていて、しかも、それをどうにかしようなんて考えるのは、既に気になっているなんていう程度ではない、と思ったが、それを言うとまた、ジェルになにをどれだけ言い返されるか知れたものではないので、もうこれ以上なにも言わないことにした。さっきの『無期出向』の件で、少々頭に血が昇っていることも頭に入れておかなくてはならない。それはカールにとっても同じと言えば同じだったが、そこはそれ、人によってとらえ方が違うというものだ。なにより、『最後の独身期間』などと周りからひやかされているカールにとって、婚約者がじきにアテラにくるという幸せの方が大きく、『無期出向』はある程度、どうでもいいものになっている感が強い。確かに、それを聞いた瞬間はショックだったが、なにせ度合いがまったく違う。ジェルは変に責任感や義務感が強いから、理不尽な通達ということ、それ自体にかなりの反感を抱いているようだ。メンバーの中の誰をとってみても、カール以上にショックが弱い者はいないだろうし、信明以上にショックが強い者もいないだろう。どうして信明があんなにショックを受けていたのか、カールには知る由もなかったが、そういうことに関して細かく気がつく訳でもないし、信明もなにも言わないので、すぐになんとかなるだろうと考えている。幸せの絶頂にいる者の考えなんて大概こんなもので、なんだかんだ言っても結局は自分の幸せの中に戻ってしまって、現状把握能力が普段より劣ってくるものだ。カールにとって今の状況は『結婚して独立する』のと感覚がまったく変わらないのである。 「なんかよく判らんけど、とにかくがんばってくれよな。んじゃ、俺本当に帰るわ」  ジェルの持つ、妙な義務感に、今はまったくついていけないカールは早々と辞退を申し出た。ジェルの方も、調べものをしなくてはならないという考えが頭にあるので、素直に応えて手を軽く振って、すぐにいくつかのファイルの山を前にして、ガヴィエラのこととは別のことを考え始めた。  はたして、どの関連データからつつけばいいのだろうか。データチップの数が多すぎて、見ただけでぞっとするような量がある。目の前にデータチップの山。一つ一つチェックするとして、一枚にどれだけの量が入っているかを考えると、それこそ日が暮れてしまうどころの騒ぎではない。それより数週間は少なくともかかるだろう。いや、それも甘いだろう。とりあえず、分野別に分類してから始めることにした。これも時間のかかる作業ではあったが、M・システムのデータベースの奥にアクセスするには、もっと時間がかかりそうなことは容易に想像できたので、あまり気にならない。それより、気にしてはいられないといったところか。なにより、先刻から頭に血が昇り気味になっていることもある。  やっとの思いでデータチップを整理して、必要なかったファイルを棚にしまい終えて大きな深呼吸をひとつすると、ジェルは気分も新たに端末に向かった。  もとより、『知識のジェル』と言われている彼だけあって、通常はあぁだこうだと調べながら端末を叩くことはまずない。彼の持つデータは一定水準のものが多いこともある。なのに、今回は勝手がかなり違っていた。一時間経った今でさえ、彼はM・システムのデータバンクの奥とアクセスできないでいる。M・システム、つまりアウラと、そのデータバンクとのアクセスなら簡単なのに、もう一歩踏み込もうとするといつもそこで基本メニュー画面に戻ってしまう。それでも何度もやっていくうちにある種のパターンがつかめてきていて、ここで後一つなにか、そしてここでも後一つ、ほんの少しのプラス『なにか』でもう一歩踏み込めるだろうというのが判っているのに、それができない。単純なところでは、下手に改行キーで入力キーの代わりにしようとすればそこでエラーが出て終わり。またはこのパスワードの後に続く『なにか』のパスワード。その『なにか』がどれだけ調べても判らない。データチップを検索してやっても、それのどこかに引っかかってはいるのだろうが、どうつながっているのかが判らないものの幾つかを、パスワードとして放り込んでやってもエラーはやはりエラーなのだ。  段々、どうしてM・システムのデータバンクの開放されていない部分とアクセスしようとしていたのかが判らなくなってきつつあった。何度やってみてもあっさりと門前払いをくらってしまう。それなのに、幾度も幾度も懲りずに持てる知識の総てを総動員して挑戦してしまう。どこかで冷ややかに笑っている自分の影を感じる。M・システムのデータバンク、その開放されている部分ならアクセスできる。でもそれは小さな玄関で、彼の求めるものは与えてくれない。だから今は、そこはもう避けるようにして、別の玄関を探している。その玄関が見つからない。無い筈はない。確かにあるのは判っている。ただそれが『何』であって、どうすればいいのかが判らないだけの話だ。  来客を告げるブザーが鳴ったので、初期画面まで戻った。初期画面にならないとドアの鍵が開かない。ずっと座りっぱなしだったので、気分転換もかねて手でドアを開けるとそこには、なんの分野だろう、判らないがファイルを持ったクレアが立っていた。 「やぁ、クレア。どうした」 「あれから三時間経ったからね、そろそろ部屋も片付いた頃じゃないか、と思ってきたの。なんだか目が疲れてるわよ。また難しいことを、画面とにらめっこしてたんでしょ」  クレアはジェルの案内するままに彼の部屋に入った。 「これね、お土産。ウィルと私の共同研究ファイルの一部なんだけど、なにか役に立つかと思って。どしたの? 難しい顔しちゃって」 「いや、別に。ちょっと疲れただけ」  素っ気なく彼が言うのに、クレアは無邪気な笑顔で、 「そう。それならいいのよ」  と言ってファイルを机に置くと、コーヒーをカップに注いだ。それをジェルが飲むのを見ながら椅子に腰掛けると、彼女もコーヒーを一口だけ口にし、そのままジェルをじっと見つめた。ジェルが不審がるとなんでもない、と言って微笑んでいる。訳がまったく判らないジェルは、妙に照れてしまって、一心にコーヒーを飲み干した。これくらいで照れてしまうのはさっきのカールのせいだと彼は強く心に言い聞かせた。  カップを置くと彼はすぐに端末に向き直った。キーを叩き始めるとすぐに、クレアがデータチップを差し込んできて、続いて操作できるようにする。読み出したデータに説明を入れたり、関連事項の紹介をしたりとクレアは忙しい。ジェルはそれをじっと聞き、たまに質問をする。そんな、妙に静かな時間がしばらく流れる。 「これは?」  ジェルの持つデータ検索もマンネリ化してきたので、気分転換に、クレアの持ってきたデータを読み出していると、ジェルが反応を示してきた。なにか心に引っ掛かるものがあったらしく、瞳に力がある。それを見るクレアの瞳には光がある。 「なんだと思う?」  一見とりとめがなくて、無造作にも思えるような感じで様々なデータが並んでいる。ジェルは画面を食い入るようにして見つめ、考えている。画面が変わっていくにつれてジェルの瞳には、僅かながらも光が見え隠れしはじめた。そんなジェルを、クレアは探るようにして見ていた。 *** 「リーダー、ジェル」  クレアの声が部屋中に響いた。全員が彼女を見る。 「今回のワープもやめるべきです」  はっきりしていてよく通る声だ。しかし、あっさりとそうですか、とは認められない。 「昨日遅れが指摘されたところだろう」  ジェルの言っていることは確かだ。けれども負けてはいられない。 「体調のすぐれない者がいるんです」  二人の間に緊張が走る。 「では、この遅れをどうやって取り戻す」  二人は本気でやり合い、火花が散ってさえいる。誰も口を出すことを拒まれている。 「それは次以降の光速、準光速飛行をぎりぎりまで増やせばいいことです。それに」 「なんだ」  ジェルの顔も声も冷徹そのものでともすれば迫力に押されてしまいそうになるが、ぐっとこらえる。 「あなたも判っている筈です。彼の今の状態では、機器の微調整に支障をきたしかねないことが」  クレアは、きっ、とジェルを見据えている。彼もそれに負けてはいない。そうした睨み合いの沈黙ががしばらく続いた後、ジェルが折れた。 「判った、今回も見送ろう。それだけ言うのならそれなりのデータがあるのだろう、すぐに提出するように。しかし次回はない。これ以上は無理だ。いいな」  クレアはそれに目礼で答える。 「次までにはあいつを元に戻しておくように。判ったね」  予定された航行からかなり遅れてきているので、ジェルの言葉の端々に焦りが感じられるようになってきた。  クレアも焦りを感じ始めていた。ただでさえ長旅の疲れが全員に出始める頃なのに、そこへ予定よりかなり遅れているというプレッシャーがかかってきている。行程はまだやっと三分の一を越えたところだ。なのに時間は予定の半分を経過してしまった。規定ぎりぎりまでワープ回数を増やさなくては、冗談抜きで予定どおりには向こうに着くことはできないだろう。なんとしてでも早く信明に立ち直ってもらわなくてはならない。ワープは信明が主任だ。起きて一応の行動はとっているものの、ワープの微調整をきっちりと確実にできそうな程の判断力が、今の彼にあるとは思い難い。いくらクレアがカウンセリングしようとしてもあちらが受けつけないのだ。憔悴した感のある信明を目の隅でとらえてから、クレアはパネルに目を移す。最近、ジェルとクレアの間で繰り返されているこの会話は、今はかろうじてクレアが勝っているものの、今日でもう後へは引けなくなった。会話の語気も語句も、繰り返される毎に段々きつくなりつつある。今ではもうケンカのようだ。他の者もそれを知っているけれどなにも言わない。下手に口出しできない雰囲気が二人の間にあるからだ。 「ケイト、現在地出して」  ケイトを呼んだクレアの声は、今ジェルと話していた時のそれとは違って普通の声になっている。 「データは」  だが、ケイトは答えない。 「ケイト、聞こえなかったの? データ出して」  ケイトは聞こえていないのではなく、聞こえないふりをしているので、クレアが言葉に少し力をいれて言うと、ケイトはなにも言わずにパネル操作をした。答える気はないらしい。それをクレアはじっと見ていたが、データが揃うとなにもなかったように向き直り、操作を再開した。誰もなにも言わない。気まずい雰囲気の中黙々と作業を続ける。  部屋に帰る時、クレアはそっとケイトの後をつけていき、ケイトが部屋に入ると同時に彼女の部屋に入った。それに気が付いたケイトが部屋を出てしまわないようにするために入り口をふさぐ。先手をとられたケイトは眉間にしわを寄せた後、ぷい、ときびすを返して部屋の奥に歩いて行く。 「なに、あたしに用なの」  そう言ったケイトの声はひどく冷たく、とげがあった。 「なにを怒ってるの」  穏やかな、けれどもやはりどこか咎めるものを含んだクレアの声が、ケイトを追いかける。 「あたしが怒ってる? どこが。別に、なんにも怒ってやしないわ」  ケイトはクレアに背を向けたままで肩と手をしゃくってみせ、クレアを見ようとしないまま窓から外を見ている。なにを見ているのかは影になっていてクレアには判らない。 「あたしが怒ってると思うなら、それはクレアにそうかもしれないと不安がる要素があるせいよ」  ケイトの言葉は、まるで突き刺そうとするかのように切り出されてくる。クレアとしてもかなりの引っ掛かるものを感じてはいるけれども、ここで感情的になってしまっては台無しになってしまうので、感情を押さえて、しゃべろうと努力してみる。 「ケイト、あなたのその態度のどこが怒ってないって言うの? この頃ずっとそんな調子じゃないの。四六時中ぶすっとして。みんなに迷惑がかかるわ。そういう態度はやめて」 「あんまり気分が良くないのよ」  たたみかけるように、吐き出すようにケイトは言葉を返す。 「つまり、あたしとは口をききたくない、という訳ね」  クレアの言葉にケイトはなにも答えない。クレアは腕を組んでしばらくケイトの後ろ姿を見ていたが、それでもケイトはなにも言わなかった。 「はっきり言ったらどうなの」  クレアの語気はどこも荒くはなかったけれど、芯のある強い声だったので、ケイトはその迫力に押されて、しぶしぶ口を開き始めた。 「クレア、嘘ついたじゃない。信明のことなんとも思ってないって言ってたくせに、そんなことないじゃない」  その言葉を聞いて、クレアは唖然とした。  なにを言い出すかと思えば、やきもちなのだ。信明のことで普段なら気にならないことまでも、彼のことで疲れだしているケイトは今は敏感に感じとってしまうらしかった。信明が沈んでいくと、それと同じ速度で、時には加速までしてケイトはやつれていっている。そんな二人を見ていられなくて、胸が痛くて、客観的事実もまじえて、クレアはメンバーにできるだけ負担を与えないよう努力してきた。それが裏目に出てしまった。  なにをどう説明しても、ケイトは聞き入れようとしない。かえって気が高ぶっていくようだ。声は大きくなっていくし、語気もどんどん荒くなっていく。途中から、クレアがなにも言わなくても、ケイトは一人で感情を高ぶらせ始めた。軽いヒステリー状態だ。ひどくなる前に止めなくてはならない。そう判断してすぐに、クレアはケイトとの距離を早急に詰めた。手首を握って彼女の動きを封じる。  パン! とケイトの頬を叩く音が響いた。  驚いた目がクレアを凝視する。そして一瞬の緊張の後、泣き声と共にクレアはケイトに抱きつかれた。その声は大きくて、完全防音の部屋であると判っていても、声が外に漏れるのではないかと心配になるほどだった。初めのうちは驚いた表情をしていたクレアも、それでもすぐに表情が柔らかくなって、ケイトの頭をなで始めた。  ケイトは不安で仕方がなかった。自分を入れてもたった五人でなにもないところにくる日もくる日も放り出され、頼りの筈の恋人は、一人で殻に閉じ籠ってしまってなにやら悩んでいるので、見捨てられたような気になるし、それを自分でどうにもできないのが口惜しいし、腹立たしくもある。そしてひたすら心配して疲れている。今はただ、泣くばかり。泣き疲れたケイトをどうにかなだめて、ようやくケイトの部屋を出た。  あれは、どんな感覚だったろう。言葉にするには気恥かしいような、優しい感覚。なにも考えずただ優しく抱きとってあげたい、柔らかい気持ち。忘れていたものを一生懸命思い出しながら部屋に帰る途中、給湯室の前でコーヒーサーバーでカップにコーヒーを注いでいる最中のジェルに呼び止められた。先刻の言い合いのような雰囲気はまったくない。 「コーヒー余分に作っちゃったんだよ。飲んでくれない?」  湯気のとなりで微笑んでいるジェルに、クレアはなぜだかほっとしながら、誘われるままに給湯室に入ってジェルのいれてくれたコーヒーを飲んで談笑を始めたが、ふと冷めた表情を急に見せるとカップを置いた。 「ごめんなさい、ちょっと疲れてるから部屋に戻るね」  ジェルはそれにはなにも問わずに優しく微笑んで、あぁ、そうしといで、と言って彼女を送り出した。  クレアは、そんなジェルの笑顔に半ば逃げるように部屋に帰ると、急いでドアを閉めてもたれた。強く強く目を閉じる。今にも涙がこぼれてしまいそうになる。  ウィル!  強くなにかを念じ、祈るような顔をして、クレアは暗い部屋の中、ドアにもたれたまま上を向いた。  『外』には、相変わらず上下左右のない真夜中が静かに広がっている。  クレアが湯気の向こうに消えるのを見送ったジェルは、自分の顔のどこかが凍っていくのを感じていた。やがて、彼はゆっくりとクレアのカップを手にとり、手で包み込むようにしてぐっと力を込めてから、再びそれを置いて立ち上がった。
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