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第五章 夜に抱かれて
「ハイ、カール。元気にしてる?」
データを全部チェック、整理し終わったと思ったら、様子の違うものがあったので、カールはなんだろうと思いつつ、殆ど無意識に開いてみた。すると、なんと、突然メアリーの顔が画面に現れてきて、驚いたカールはあわや椅子からずり落ちるところだった。
彼女を、たとえこんな映像でしかなくても見るのは何週間ぶりだろう。見た途端、ここは宇宙船の中ではなく大地に立つ建物の中にいるような気分になった。人なつっこく笑う彼女の笑顔が懐かしい。彼女は指輪の話をちらっとしていたが、そんなことはカールにはもうどうでもいいことだった。
せいぜいがいいとこ十秒か二十秒程度のメッセージデータだったが、カールを和ませるには充分だった。
ったくあいつめ、なにをムダ遣いしてんだよ。金がどれだけかかるか本当に判ってるんだろうか。いつだってお前って奴はびっくり箱だな。早く来い。待っててやるから、いや、待ってる。一分一秒でも早く来い。その髪にもう一度触れさせて欲しい。
***
「不安なのよ」
ぽつり、とクレアが言った。声がやけに乾いている。ゆっくりした間の後、
「誰が?」
とジェルが、こちらもまた乾いた声で答えた。今もなお画面では、ジェルによるM・システムへのアクセスとデータ検索が、飽きもせず続けられている。クレアが言葉を発すると、ようやく彼は彼女の方を向いた。
「みんなよ。なんのかんのと言ってみても、みんな不安なのよ。幸せの絶頂にいるようなカールでさえ、不安になってるわ。彼のは一番軽いけどね。信明は押し潰されてしまっているし、ケイトも似たような状態。個々の理由はどうあれ、こんな封鎖された状態で何ケ月もの間、それを生業としない人間が、こんな宇宙の中を漂っているんだから仕方ないと思う。私だって早く着きたい、あなたと同じにね。あの三人と同じように、私達だって不安よね。公的立場としてはあなたが一番不安なはずだものね。リーダーだもの。私はサブリーダーだから、まだいくらかは楽なんだと思ってるわ。けれどお互いにそれを表には出せないじゃない? だから余計にストレスがたまるのよね」
こう一息に言ってしまってから、クレアはため息をついて椅子に深く座り直した。ジェルは、なにも答えてくれない端末と、またにらめっこしようとしている。
「あなたも、いい加減にあきらめたら? 教えてくれと言ったって教えてくれるものじゃない話よ、これ。もうやめた方がいいと思うけど。体にさわるわよ」
クレアがいたわるように声をかけると、彼は素直に、開きかけていた画面を終了させた。終了した画面をしばらく見つめてから、改めてクレアの方に向き直った。その様子は、明らかにほっとしているのが判る。
「ありがとう。僕も疲れてきてたんだ。どこかで誰かが、そう言ってくれるのを待ちながら、それでも抜けきれずにやってた」
ジェルは微笑んでみせた。
「確かに君の言うとおりだよ、クレア。僕を含め、みんな不安だ。ジョンも心配してる筈だよ。彼は僕らの直属の上司だから、この船に乗っていたって別におかしくはないし、もっと細かいフォローがあったっておかしくない。事実、最近ジョンから非公式のSSTAが増えてきてるんだ。僕らがこんなとこでのろのろしてて、彼はもどかしいだろうと思うよ。ま、僕らとしては? 自由でいいけどね。信明は僕らじゃどうにもできないだろうね。あいつ自身が立ち直る気にならない限り、どうにもならない。あいつは馬鹿だね。きっと今世界で自分一人しかいないように思い込んでるよ」
「ケイトが可哀相」
二人の声は淡々としていて、少しの焦りも、苛立ちも感じられない。
「そうだね。あの二人、恋人同士なんだろ? なのに放り出された彼女は、辛いだろうね。日本人ってのは判らないなぁ」
「信明の場合は、民族的なものよりも、むしろ性格的なものだと思うな。私の知ってる日本人はそうでもないもの。まぁ、そういう性格をした人が他より多い、というのはあるかもしれないけど」
クレアはついと立ち上がると、外を見に窓に近寄った。「本当に真っ暗よね。あの星達があっても、みんな遠すぎて遠近感がないしね。知らなかった。宇宙がこんなに怖いなんて。宇宙線やその他諸々の怖さは知ってたけど、それをのけてもこんなに怖いものだとは思いもしなかった。出発するまではね、船に乗ることなんて、ちっとも怖くなかった。むしろ好きだった。でも、それは短時間飛行だからだったのよね。飛んでもすぐに、あのしっかりした大地に足を下ろすことができたからよ。こんな、何ケ月もの間、文字どおり『宙に浮いた』状態なんて、精神衛生上良くないことこの上ないと思う。設備がどれだけ整っていても、部屋がどんなに地上のと同じようでも、結局は根本的なところから違ってる。本当に進んでいってるのかどうかと思うことがある。今、私達は進んでるんじゃなくて、本当は、後退してるんじゃないか、って時々不安になる。本当のことを言えば、予定どおりの日程でアテラに着けるかどうか、自分でも不安になってる。あれだけ何回もワープを止めさせておいて、その度に大丈夫、必ず着くって言ってるけど、あれはね、あなたと彼らに言ってるんじゃなくて、私自身に言い聞かせてる。あ、そんなに慌てないで。もちろん、確証なしに言ってる訳じゃない。計算はしてる。気が狂いそうになる程、何回も何回もね。いつまで、どこまでこのまま進んでも予定に間に合うかをね。それでも、不安なものは不安なの。本当にこの計算で合ってるんだろうか、なにか見落としてやしないか、まったく違うことをしてるんじゃないか、これでジェルを納得させることができるだろうか、これでジェルは納得してくれるだろうか、みんなをこれで説得できるだろうか、私の不安を悟られやしないだろうか、いつまで納得させ続けることができるだろうか、どこまで、みんなに負担をかけさせずにすむだろうか、ってね。それが気になって、この頃、毎日毎日、計算ばっかりしてる。情けないことにね」
静かだが一気に言ってしまうとクレアは口をつぐんだ。部屋には明かりがついていたが、それは白々しく、その光で部屋の中は、白昼夢のように色鮮やかで、毒々しく見えた。そんな光景を見たくなくて、ジェルはそっと立ち上がるとクレアの側に行き、彼女の肩に手をやった。
「気の使いすぎだよ。君がそこまでやる必要はない。それは僕の仕事だよ。このままだと君まで参ってしまうよ。そうしたら、僕の話し相手がまた一人減ってしまって、僕はまた寂しくなる。そんなのつまらないからやめてくれよ。僕のわがままのためにもね。心配してくれるのは有り難いけど、君自身をもっと大切にしてくれなきゃ。大丈夫だよ。一人で辛くなっちゃだめだ。ここにはみんながいるじゃないか。みんなに言えなくても僕に言えることはないの? 少なくとも僕はここにいるよ。大丈夫、きっとうまくいく」
涙こそ流れていないものの、クレアは口に手を当てて、微かに肩を震わせている。クレアの肩にやったジェルの手に無意識に力がこもる。
「It's gonna work out ……? 」
クレアはジェルの最後の言葉を小さな声で復唱した。
「そうだよ。きっとうまくいくよ」
思わずぐっ、とジェルが手に力を入れた時、クレアが急にびっくりしたように目をひらいて、けれども伏目がちにゆっくりとその手を外そうとしたので、ジェルは慌てて力を抜いた。
「あ、ごめん。痛かった?」
クレアは小さく首を横に振ると、なにも言わずに、またジェルの手を外そうとする。ジェルは再び手に力を込めた。我知らずジェルの声は大きくなった。
「また逃げるのか」
びくっ、とクレアは体を震わせて、自分のほうに向き直らせようとするジェルから、できるだけ顔をそむけた。
「クレア、君はいつからそんなに弱い人間になってしまったんだ? 昔の君は、もっと現実の中に生きてた。今の君はいつもどこか幻想の中にいて、時々僕らの前に現れるだけだ。やっと現れたと思ったら、すぐにそうやって幻想の中に戻ろうとする。本当の君はどこに行ったんだ」
クレアは目を伏せたまま、それでも突き放すような口調で話し始める。
「なに青臭いこと言ってるの。本当もなにも、これが私よ。放っといてよ」
「放っとけないから言ってるんだ」
「どうしてよ」
クレアは急に、振り向きざまに顔を上げてジェルの目を見、はっきりとした瞳と声で言った。目の前にジェルの顔がある。
「仕事はきちんとやってるわ。誰にも文句を言われたことなんかない。言わせない。なのにどうして放っといてくれないのよ」
二人の視線がぶつかりあい、沈黙が流れていく。
「そんな君が辛そうだからだよ」
しばらくして、ジェルは痛みに耐えるように言った。
「今の君は、必死に幻想にすがっているだけで、現実に存在してないんだ。そして、そんな君はいつも辛い目をしてる」
どこがどうという訳ではなかったけれど、ジェルの言葉は短かったが、確かに、クレアになにがしかの影響を与えた。ジェルの言葉を聞くうちに、クレアの顔からは先刻までのきつさが取れつつあって、段々とまた辛そうな顔になっていった。そして、目が空をさまよいはじめている。
「現実感がなくなってしまったの」
声を喉にからませてクレアが言った。出先で迷子になったまま、夕方になってしまった少女のように見える。
「苦しくて、苦しくて、でも、叫ぼうとしても声がでなくて、叫ぶこともできないの。道は凍てついていて、でもそこを歩かなきゃならなくて、うつむいた自分の姿が見えてて、世界は群青色の濃淡だけで……」
「もういいよ」
なだめるように、なぐさめるように、ジェルはクレアの言葉をさえぎった。
「もういい、それ以上言わなくていい。よく判ったから」
ジェルはクレアの肩から手を外すと、クレアの顔を自分の胸に引き寄せた。それに抗う気力はクレアには無かった。
「忘れてた。君が僕より五つも年下だってことを。常に君は対等だったから忘れてたよ。フレア・ブルー女史が君のことを気にかけてたけど、それは、ただの社交辞令的なものだと思ってた。だって、ウィルが亡くなってもう二年だ、だから、かなり立ち直ってると、そう思ってた。でも、君にとっては、たったの二ケ月に等しいものだったんだね。しかし、僕がここにいることを忘れないでいて欲しい。ウィルのことを忘れろ、とは言わない。彼は確かにいた人だから。それでも、現実にはもういない人だということも、忘れないで欲しい。そしてなにより、君は今、生きているんだということを覚えていて欲しい。いいね、君は生きてるんだよ」
クレアはなにも言わないままで、静かにジェルの胸に頭を当てている。ジェルはそっと体を離して、クレアをドアの方に導いた。
「いいかい、一旦ぐっすり眠りなさい。君も疲れてるんだから。いいね、ちゃんと休むんだよ」
クレアの目を見ながら念を押した。クレアはうなずいたが、そのうなずき方が気になって、ジェルはクレアを部屋まで送ることにした。
クレアの部屋も、ジェルの部屋に負けず劣らずファイルが多かったが、キャビネットの扉が閉じられていたのでその数までは判らない。なによりも、ジェルはクレアの部屋に入ることはしようとしなかったので、彼は机の上に何冊かファイルがあるのを垣間見たに過ぎなかった。
もう一度、ジェルはクレアに念を押してから、静かに部屋のドアを閉めた。
「よぉ、ジェルか。どした? しんきくさい顔して」
カールはジェルとは正反対の、幸せ一杯の顔をしてジェルを迎えくれる。その顔を見て、ジェルの緊張がゆるむ。
「お前ってホンっと明るい奴だな」
「そうか? よく言われるけどな。お前ちょうどいいところにきたな。いいもんがあるんだ。見てくれよ」
そう言ってカールはジェルの手をぐい、と引いた。さっきは白々しくそして毒々しく見えた部屋の照明が、この部屋では生命力溢れる光に見える。
「SSTAのイクスクルーシブなんだけどさ、すっげー金かかってんのがあるんだ。とりあえず見てくれよ」
カールはよっぽど繰り返して見ていたのだろう、セットされたままのデータチップからデータを呼び出した。ジェルが椅子に腰かけるのを待ちかねるようにそれはスタートした。
画面上に突然メアリーの顔があらわれて、ジェルが驚いている間にそのメッセージは終わってしまい、なにごとかとカールを見やったが、カールはただひたすら上機嫌だ。その笑顔にジェルは救われたような気持ちになった。
「僕、お前と友達でいて本当に良かったと思うよ」
ジェルはぽんぽん、とカールの肩を叩く。カールとしては訳がまったく判らない。
「なんか判らんけどありがと。でさ、向こうに着いたら、俺、家を探さなきゃならないんだけど、いいとこあるかな」
「それなりのフラットがあるだろうと思うよ。でもな、なんでそれを僕に聞く訳?」
当然のことながら、二人はアテラにはまだ一度も行ったことがない。
「だってさ、お前っていろんなことよく知ってるじゃん。だから、アテラの住宅事情なんかも、もしかしたら知ってるかなーって思っただけ。いいだろ別に。俺にとっては重要な問題なんだぞ。なに笑ってんだよ」
くっくっくっくっ、とこらえながらも漏れてしまう、ジェルの笑いを見たカールの眉が、ちらっと上げられた。
「ごめんごめん。悪気はないんだ。いやー、世の中平和だな」
「なんだよそれ」
「僕らの明日は明るいってことだよ」
カールは眉間にしわを寄せてまたジェルに問う。
「余計に判んねーぞ。おい、一人で納得してないで説明しろよ」
笑いを止めるためか、勿体ぶってか、ジェルはこほん、と一つ咳払いをしてから口を開いた。
「いや、実はさ、ちょっと落ち込んでたんだよ。それがお前の顔見たらぶっとんだんだ」
「うーん、なんかばかにされてるような気がしないでもないけど、許してやる。で、お前俺になんか用があったんじゃねぇの」
カールはすでに機嫌をなおしていて、ジェルの笑いもようやくおさまった。
「別に? ちょっと話をしに寄っただけだよ。ほらさっき言ったろ? ちょっと落ち込んでるって。でももう治ったからいい。彼女によろしく言っといてくれ」
「ふうん。案外お前も単純にできてんだな。知らなかった。もっとややこしい性格してんのかと思ってた」
今度はジェルが、聞き慣れないことを聞いたという顔をして、
「なんだそれ」
と問うと、
「文字どおりだよ」
カールはいたってあっさり答え、あ、そう、とジェルもそれ以上聞くのをやめる。
「でさ、リーダーに質問なんだけど、いつまでこのあたりでうろうろしてるつもり? 期日までに着けなくなるぜ」
一変して真面目な話を持ち出してきた。
「判ってる。クレアが毎日必死になって計算してくれてるから、なんとかなるだろう。それにな、信明があの状態だろ。あれだとワープの調整ができるかどうか判らないからね。無理を言えば信明も動くのかも知れないけど、自分の中に閉じこもってて、僕らの声は聞こえてないみたいだから、下手に刺激しないようにしてるんだよ。知ってるだろ。それに最近ケイトも暗くなってきてるだろ?」
「まったく、最近みんなやたら暗いよな。毎日毎日ずっとあんな調子でさ、よくも疲れないなと俺は思う訳。なに、お前まで暗くなってるって? よしてくれよ、マトモなのって俺だけになっちまう。ジェル、頼むから、お前はマトモでいてくれよな。俺達の左脳がだめになったら、どうにもならなくなっちまう。お前、俺達の左脳だろ、判んないかな。信明を外して四人でワープってできない?」
「信明の仕事を僕らで分担するのか?」
ジェルの眉が上がる。
「そう、俺達でやるの」
「信明の分担量知ってて言ってるのか? ばか言うなよ。ただでさえワープはしんどいんだよ。普通でも穴埋めはしんどいのに、その上、あの『技術の信明』の分担量を負担するなんて、みんながまいりつつある『今』は無理だ。信明にテクで対抗できる奴なんて、ざらにいないんだよ」
「でもさ、知識量はお前の方が上じゃないのか」
素朴な疑問をカールは投げ掛けてくるのに、ジェルはすっと肩をすくめた。
「こればっかりはね。知識はあっても、その時その時の瞬間のカンを含んだテクって奴は、信明は天才だしね。それぞれの向き不向きって奴だね」
「お前だって充分にすごいと思うけどな。あ、俺も落ち込んできた。クレアも、確かアカデメイアで、あのウィリアム・イアハートと共同研究してたんだよな。あの年でさ。ジェルにクレアに信明、その上に今度ガヴィが来るんだろ。ものすごい奴ばっかりどんどん集まっちゃってさ、俺、いるとこなくなっちゃうんじゃないかな」
「お前ちっとも落ち込んでないって。なに言ってんだよ。僕らはジュニアスクールはウィスト学園、その後大学はアカデメイア、そして今こうして開発局にいるんじゃないか。どれをとっても、ひとつとして望んで簡単に入れる所じゃないんだから、変なとこでひがむなよ。それともなにか? お前、見せかけだけの自由を与えられた、人形みたいな生活の方がいいのか? 僕にはそうは見えないよ。大丈夫、お前どこをとってみても『開発局』の人間だよ」
最後の方は笑いをまじえて、なにをしょうもない、といった風でジェルが言うと、カールも明るい反応を示した。
「ありがとさん。やっぱりお前もそう思う? 俺もそうじゃないかと思ってたんだ」
得意気に言うカールを見て、ジェルは軽いめまいさえ感じて額に手をやる。
「本当、お前は『開発局』の人間以外の何者でもないよ。こんなに元気な奴が開発局以外にいるはずがない」
「判んないって。俺のIQがあと十も低かったらコモンだったんじゃないか」
「開発局に入るのにIQは関係ないだろ。とにかくお前は開発局に来たと思うよ」
ジェルの声には確信に満ちた力が笑いとともに含まれている。
そうして、二人の話はいつものように雑談へと流れていく。
***
信明は、いつものようにベッドに寝転んで、ぼうっとしていた。
今日の日課も、必要最低限やるだけはやった。ミーティングにも出席だけはした。ワープも、いつものように延期になった。
このところ、信明は日に数時間も働いていない。ほんの少し仕事をしたかと思えばすぐに終わって、あとはひたすら、ぼうっと寝転んでいる。ものすごい無気力状態で、体が重く、立って歩くのが億劫だ。なにも考えたくない、と考えたのはいつのことだったろう。もう、それも考えたくない。もう、なにもかもどうでもよくなってきている。
ごろん、と寝返りをうつとファイル棚や端末が目に入る。簡易ながらも充分な機能を持たせたAV機器も目に入る。今、機械類はなにも見たくないので、すぐにまた寝返りをうった。
そうして何時間過ぎたろうか。時間の感覚がおかしくなっているのでよく判らない。十分くらいだろうか、それとも三時間くらいだろうか。照明もかなり暗い状態なので、余計に判らなくなっている。
おかしなものだな。
機器のグリーンランプを目の端にとらえながら信明は思った。この部屋の中で活動しているのはあの機器達だけだ。それを使う人間は誰もいない。正常状態を示すグリーンランプだけが、静かな空間で自己顕示をしている。
そのとろっとした、深海にも似た空間は、来客を告げるブザーの音でかき消された。
信明は誰にも会いたくはなかったが、あらがう気にも、後で聞く、と伝える気もおこらなかったので、のろのろとリモコンに手を伸ばしてキーロックを解除した。
入ってきたのはケイトで、彼女の習慣らしくそのまま閉めてキーロックする。その流れるような動きは、ちょうど海の中を泳ぐ魚の動きのように見える。生命力あるその動きは、しなやかできれいだ。最近やつれてきた感のあるケイトだが、今の信明にそこまでは判るはずもない。
「コーヒーいれてきたの。一緒に飲も」
ケイトはひょい、と両手に持ったカップを顔の高さまで持ち上げて示した。
ケイトがベッドの脇に立つと、ようやく信明はのろのろと起き上がる。その彼にコーヒーを渡して彼女もベッドに腰掛けた。
甘く、苦いコーヒーの香りが漂う。一口飲む度にそれは、その冷たく沈んだ心と体に流れ込み、しみわたる。その暖かさだけが現実のようだ。
「ありがとう、おいしいよ。いい香りだ。……なぁ、ケイト」
何週間かぶりに信明が自分から話を始めた。久々に聞く声に、ケイトは期待をもった目で信明を見る。信明はコーヒーの湯気を見ている。
「……親って、家って、一体なんなんだろう。生まれた時からずっと一緒に住んでるだけなのに、ただの遺伝子提供者なのに、どうしてはっきり他と区別つくんだろう。インワイルドなんてただ試験管で授精しただけで、親の概念さえないのに、どうして僕らワイルドだけそんな感覚があるんだろう」
いきなり難しいことを言われたのに、ケイトはまるで予期していたかのように動じた様子もなく、ただ静かに微笑んだ。清らかな感じさえ漂っている。信明はゆるゆると言葉を口にした。
「今までずっとこうあるだろうと思っていたものが崩れてしまったんだ。『無期出向』はそのきっかけに過ぎない。簡単に言えばジレンマなんだ。おそらく僕は、これからずっと向こうで生きていくことになるんだろうけど、地球にある家も守っていかなくちゃならないんだ。でも、僕のこれからの生活のベースはアテラなんだ。僕は一人で、どうすればいいかまったく判らなくなって、なにを信じていいのかも判らなくなってしまったんだ」
ケイトは信明の言葉をじっと聞いていたが、段々その目から優しげな光が消えていき、言葉が終わるとベッド脇のサイドテーブルにカップを置き、無言のままゆっくりと信明のカップも取り上げて、サイドテーブルに置いた。
そんなケイトの行動を、信明はなにをどう思うでもなくただ見ていたが、彼女が二人のカップを置いて振り向いた時の微笑みは、理解できなかった。ケイトと目があったと思った刹那、彼女の手が振りおろされて、信明は思いっきりひっぱたかれた。
「『ひとり』、ですって」
ケイトは信明を見据えた。
「今、独りって言ったわね」
ケイトの迫力に、信明は思わず目をそらしてしまう。
「君はまだ僕の家の一員にはなってない。こんな面倒と関わらずにいられるんだよ」
そう言うと、信明はまたケイトにひっぱたかれた。彼女の目から涙がこぼれる。
「あぁ、もう、ひっぱたくだけじゃ物足りない。殴ってやりたい。信明は馬鹿よ」
二度も叩かれると、さすがに信明は外界への目を覚まし始めているらしい。目の光が違ってきている。ケイトから目が離せなくなる。
「どうせ信明のことだから、あたしが今泣いてる理由も判ってないんでしょ。そうよ、ここは宇宙よ。寝ても覚めてもただ闇の中で季節もなにもない所よ。空に広がる雲や、すべてを金色に染める夕焼けも、しっかり踏みしめることのできる大地もない。でも、だからこそ、その美しさを想うことができる。目の当たりにした時に、感動することができる。地球の環境が良くなってきたからって、こんな光景はなかなか見れないし、自然の中だけにずっといられる程じゃない。ドームだけで、一生本当のそんな風景を見ずに過ごす人もたくさんいる。けれども、あたし達は違う。アテラで現実のものとして、中にはいっていくことができる。こんな贅沢がある?
それはあたし達の大きな特権とも言える。そのためにいろいろな苦労もあるけど、その中に立ったときの幸せはかなりのものよね。
そりゃ、家の問題は大切なことよ。おろそかにしちゃいけないと思う。でもね、生きていく以上、どうしようもないことは確かにあるのよ。それに、今は自分の考えだけで先走ってて、解決策も見出だそうとしてない。問題があるのは他でもない、信明自身の中よ。あたしはあなたのなんなの。悩みも打ち明けてもらえない存在な訳? だったら、……だったらこの間くれたこの指輪はなんなの。どうして家族に紹介した上でこんな物くれたのよ。あたしってそんなに信用ない? 違う? なにが。どうせ信明のことだから、また勝手にあたしに苦労かけたくないとかなんとか、訳の判んないこと言うつもりでしょ。あなたの、その独りよがりこそが、あたしを不幸にしてるっていうのが、どうしてまだ判んないのよ。
どうしてあたしの存在をそこで否定するのよ。侮辱もいいとこだわ。この、判らずやの大馬鹿」
ケイトは、手許にあった枕を信明に思いっきり投げつけた。
「馬鹿よ」
言いたいことを言い終えたらしく、彼女は口をつぐんだ。二人の視線が交錯する。信明の目は生気を取り戻しつつある。
しばらくの沈黙の後、信明の目に力が戻ってきたのを見てケイトは落ち着いてきた。目に優しさが戻っている。左を向くと信明の正面になる。ケイトは彼から窓へゆっくり視線を動かして、うたうように言葉を口にする。
「確かに、ここは上も下もない大宇宙よ。こんなとこにたった一人でいたら誰だって怖いに決まってるじゃない」
信明は、完全に正気に戻っていた。目の輝きが、その発散するオーラが違う。
「ここにはあたしがいるじゃないの」
なにも言わずに、信明はケイトを抱きよせた。ケイトは素直にそれに応えながら、なおも言葉を続ける。
「あなたの鼓動が聞こえる。あたしの鼓動と混じって不思議なリズムができてる。一人じゃ絶対に無理なリズムができてる。判るでしょ? それでね、それを生んでくれたのが親。それでいいんじゃないの。理屈なんてこねたって、こねるだけ無駄だと思うよ」
信明の顔が近づいてきて、ケイトのその言葉の最後は口の中で消えていった。
***
ジェルの部屋に、非公式のSSTAが入ってきた。ジェルは慌ててそれを受ける。アクセスと同時に、部屋の鍵は自動的にロックされた。
画面にジョンの顔が現れた。いつものように真面目な顔だ。
思ったとおり、進捗が遅れていることへのフォローだ。
ジョンはいつも真面目だ。組織運営上、上にしてみれば有り難い人材に違いない。ひとクセもふたクセもある人間ばかりが集まるところだから、彼にもなにかあるに違いないだろうが、それがなんなのかは知らない。
こういう時、弱気な態度で応ずるべきではないと知っているジエラールは強気だ。受け答えする目に自信があるので、ジョンもあまり強くは言わない。だから通信も早く終わる。しかし、さすがに今回のフォローはきつかったので早々にSSTAを終わらせようと思っていると、次にフレア・ブルー女史が出てきたので、切る訳にはいかなくなった。
「元気そうね。安心したわ」
開口一番に女史はこう言った。
「もっと参って、暗くなってるんじゃないか、と思ってたら案外それ程でもないじゃないの。その分じゃ、クレアも大丈夫……というわけではなさそうだわね。じゃあ、ちょっとした質問を送るから、それに答えて明日SSTAで送って頂戴。クレアの診断をするわ。他のメンバーはいつもどおりのフォーマットでね」
「女史。クレアは『揺らぎ』を見せています。これがいいものなのか悪いものなのか、僕にはまだ判らないですけど、彼女の中で確かに変化が起こりつつあります」
「そう。クレアと直接話してみたいけど、どうかしらね。……やっぱりよしておくわ。荒療治をしようとしたのは私なのだしね。ウィルを亡くした傷をこのまま放っておくと、クレアのためにならないわ。私が今、あの子の前に以前のように現れると、あの子は今のままかもしれない。あの子にとって、今、私はただのグループ顧問カウンセラーなのだしね。迂闊なことはできないわ。ジェル、辛いかもしれないけれどあの子のこと、よろしくお願いするわね」
その、哀れみを含んだ女史の目に、ジェルは、女史はクレアのことがあまりにも心配なのか、ととった。
「そんなに気に病むことはありませんよ。僕ができるだけあなたの手足となって働きますから」
「ありがとう。ジェル、あなたもがんばってね。リーダーのプレッシャーはなかなかのものでしょう。無事アテラに着けることを祈ってるわ。主人はきついことを言ってこない?」
「いえ、ちっとも。部長は優しい方ですから。予定より遅れているのは僕らのせいですから、かえって申し訳なく思っています」
「気を使ってくれてありがとう。長くなったからそろそろ終わるわね。あら、あともう一人あなたと話をしたい方がいらっしゃるようよ。それじゃあね」
物腰の柔らかい女精神科医が画面から消えると、今度は正反対の雰囲気を持っているガヴィエラが画面に現れた。
「久しぶりね。元気にやってる?」
ガヴィエラの笑顔はいつも生き生きしていて、見ていて気持ちがいい。雰囲気が一変して、ジェルは対応にとまどいすら感じている。
「おま……、そこでなにやってんだよ」
「なにってSSTAじゃない」
「そうじゃないだろ。なんの用だよ」
驚きあきれているジェルを尻目に、ガヴィエラはいつものように呑気だ。
「あいさつよ、あいさつ。非公式なSSTAだってことでね、させてもらえたのよ。あたしもやっとちゃんと働く気になったのよ。えらいでしょ」
「別にえらかないさ。だいたいだな、開発局は二十歳で入るもんだ。お前そろそろ二三だろう」
「あら、偏見よそれ。あたしはずっと遊んでた訳じゃないもの。クレアは元気?」
女史との話の後だけに、関係ないとは判っていても、ジェルはかなりどきりとさせられる。
「なんとかやってるさ」
ジェルの答え方がぶっきらぼうだったので、その答え方が、ガヴィエラの勘のどこかに引っかかったらしい。眉が片方上がった。
「ふうん、そう。……だめよ? 大事にしてあげなきゃ。あの娘、気はめちゃくちゃ強いけど、急に神経の細いとこが出てくるからね。あんたが気をつけてあげなきゃ。あの娘は、あたしの数少ない理解者なんだからね。頼むわよ」
それでも軽い感じで話していたガヴィエラは、急に真面目な顔になった。
「本当に彼女、大丈夫なんでしょうね」
念を押すように目が訴えて来る。その目にジェルが一瞬ひるんだのを、ガヴィエラは見逃さなかった。
「どういうことなの」
ぐっと踏み込まれて、ジェルは答えない訳にはいかなくなる。
「ちょっと精神的に参ってきてるんだ。大丈夫、今休ませてるから」
「本当?」
「本当だよ。大丈夫、僕がついてる」
「それが信用できないんじゃないの」
ジェルの目の中に嘘はない、と見て取ったガヴィエラは、緊張の糸をゆるめた。
「ジェルってちょっとお調子者のとこがあるから気をつけんのよ。じゃ、そろそろ時間だから切るわね」
「おい、もしかして、わざわざクレアのことを僕に言うために来たのか? 誰かに頼まれたのか」
「誰にも頼まれてないって。あ、本当にもう時間がない。またね」
ぷつ、と通信が切れても、ジェルは席を立たなかった。
女史は別として、さすがはガヴィエラだと言うべきなのだろうか、ジェルのちょっとした動揺を見つけるのは凄いものがある。他人には殆ど判らないのに、ガヴィエラには全部ばれてしまう。
ま、しょうがないかな。そんな奴が一人くらいいたっていいだろう。それが女なんて、こんな友達持ってる奴はあまりいないことでもあるし。あいつが部に入ってきたら、ジョンはまた頭痛を起こすんだろうな。なんせ、バクダンみたいに元気のいい奴だ。 ジェルは目を伏せて、少しだけ微笑んだ。
***
さらっ。
ケイトはシーツの中から手を伸ばして信明の頭をなでた。
「なに?」
ゆっくりとした声で言いながら信明はケイトを見た。真近に信明の顔がある。
「いいな。あたしもこんなに柔らかい髪が良かったな」
「そうかな。そんなにいいもんじゃないと思うよ」
「それは男の人だからよ」
ケイトはちょっとすねて、頬をぷくっと膨らませた。
「関係ないよ。だって君は君、僕は僕なんだろう?」
信明の頭から手を離すと、ケイトはくるりと寝返りをうって、うつぶせになって枕に横顔を埋め直して信明を見た。
「ほら、そうやってすぐいじめる。可愛くないとこは全然変わってない。これから先が思いやられるな」
小さくため息をついて、いたずらっ子のように笑って見せる。
「そうだな、先が思いやられるな。こーんなに気の強いのとずっと一緒にいなきゃなんないんだもんな」
「あたし知らないもんね」
「言ったなこいつ」
信明は急に腕をケイトの首に回した。お互いの体温が暖かい。ケイトは驚きながらも嬉しそうだ。
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