第一話 ホッピー

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第一話 ホッピー

     1  その日も、安生正勝はしたたかに飲み明かしていた。  現場をはけてからすぐに現場監督に連れて行かれ、作業員たちとともに安酒をとにかく飲まされ、気付いたらひとりになっていたのである。態のいい財布だ。  それから、ひとりで河岸を変えて飲んだくれ、夜が明けるまでには、と店を出た。  人通りも少なく、肩を抱いてどこに消えようとしているのか、というカップルくらいしか見当たらない。客引きも引っ込んでしまったらしい。  ふらふらと歩いていると、明日の朝(というか今日この後か)の収集に出されたゴミ袋に躓いて睨みつけた。  怒りに任せて蹴り上げてやろうかと考えた、しかしそれをやるとゴミが散らかる、と頭の片隅で考え、ふい、とまた前を向いて歩き出した。  こんな、微妙に常識人の自分が妬ましい。  でもわかっている。だからこそ、自分がこの職業に、この職種に、この役職に就けていることも。  ふらつく足を何とか真っ直ぐ歩かせようと、電柱に寄りかかった。  大きく息を吐いて、先程買ったペットボトルの水を飲む。どんなに酔いたくても、どこかで明日に残してはならない、と用心をして水を買う冷静さはある。本当に、ほとほと自分が嫌になりそうだった。  そこで、ふと顔を上げた。  昔なら、時間が時間なら煌々とグラウンドを照らす照明が目に入ったはずだ。  それが今は、照明すらない。  ここにあった、都会の一等地に相応しい競技場は、解体されてしまった。  視線を下に移すと、味気のない白いフェンスが聳え立ち、その隙間からやっと見えるのも、瓦礫と何もない空き地だった。  安生は溜息を吐き、もう一度水を飲んだ。  その時、ペットボトルの中の水が、光った気がした。  怪訝に眉をひそめ、ペットボトルの中を覗いた。異物混入かとも思ったが、何もない。  何かが映りこんだのだろうか。しかし、ご覧の通り一番光りそうなものも解体され、辺りは真っ暗闇だった。  酔っ払っているからだろうか。  頭を振り、掻き毟った。  そして、空を見上げる。都会の空に、星は光らない。  再びペットボトルを持ち上げ一気飲みをしていると、安生の目の片隅、ペットボトルの中で、また何かが光って揺れた。  ペットボトルを下ろす。  すると、フェンスの隙間から薄く見える瓦礫の、そのまた向こうで、ゆらゆらと、橙色の光が揺れていた。あの光が、水に反射していたのだ。  惹かれるように、フェンスに寄っていった。  やはり、松明のような、柔らかい光が揺れている。  安生は周囲を見渡した。  工事用車両の入り口が、薄っすら人が通れるほど開いているのに気がついた。  ぎり、と歯軋りをしながら走り寄る。  やっぱり。誰が最後の戸締りを点検したのだろう。工事用地の侵入は早々防げないとはいえ、怠慢である。  安生は誰か若い人間が遊んでいるのでは、と危惧し、入口を通り抜けた。  とはいえ、暴走族だと、襲われるのも怖い。まずは確認しようと、ゆっくりと近づいていく。  光は、揺れながらも動かなかった。  瓦礫から顔を覗かせ、光の元へ目をやった。  星が、瞬いていた。  思わず目を疑い、擦った。  改めて目を開けてみると、それは光を反射した瓶の光だった。  棚が置かれ、その中に所狭しとボトルが並べられているのだ。工事現場に、何故?  もう一度目を擦り、全体を眺めると、手前に木の床。その先に重厚なカウンターがあり、カウンター席が四席ほど、そしてテーブル席もふたつ準備してあった。  カウンターの中では、ひとりの男が、白いシャツに黒いエプロン、どこからどう見てもバーテンダーの姿で俯いてグラスを拭いていた。  ここは、バーだ。  不意に、男が顔を上げた。マッシュルーム型の髪の下から、安生と目が合う。  安生は、その視線から、何故か逃げることが出来なかった。  男が、笑った。 「ようこそ、バー・シックス・ディメンションへ」  そこは、不思議な空間だった。  温かな光、穏やかな音楽、上質な調度品。それが、野外にある。その証拠に上に顔を上げると、そこは天井ではなく暗い空だ。星も見えないので、暗い天井だといえばそう思えなくもないが、思い込もうとしてもこの開放感には抗えない。  そして、すぐ傍には瓦礫の山も見えた。ここがあの競技場跡であることは、やはり間違いがないのだ。  そう確認しながらも、安生はまだ半分夢を見ているような気持ちでいた。酔い過ぎて、幻覚を見ているのかもしれない。  だが、目の前に立つバーテンダーに目をやると、仄かに微笑みかけられた。微笑が仄か、というのもおかしな話だが、無表情なのにどこかに沿う感じさせるものがある男なのだ。そしてここがバーであることに気がつき、慌てて注文を試みた。 「え、ええっと……何か、お勧めはありますか?」  つい、そう訊いてしまい、安生は恥ずかしくて体を小さくした。  いつもそうなのだ。  自分の好み、と言うものがなく、習慣的に人の勧めを聞き、それに流される。  そんな自分がなんとなく嫌で、こんな個人的な趣味を楽しむところですらそうかと、辛くなったのだ。  だがバーテンダーは、至って普通にその質問に応えてくれた。 「そうですね。とりあえず、こちらを飲まれてはいかがでしょうか」  そう言って安生の前に出してくれたのは、水だった。  余計、小さくなる。 「酔うのは楽しいことですけど、酔い過ぎるとお酒の味はわかりにくくなります。そんな時は、余り高いお酒を飲むのは、僕はお勧めしません」  なんとも正直な青年だ。酔っ払って気が大きくなった時ほどいい酒を頼んでしまいがちだが、そんな時にはその良さがわからなくなってしまっているのだから、本末転倒なのは考えればわかることだ。  しかし、彼が働く会社は、そんな人間ばかりだった。少なくとも彼には、そう思えた。 「そういうことをお含みおき頂いた上で、こちらはいかがでしょう」  差し出されたのは、キンキンに冷えていることがわかるジョッキグラスと、茶色の小瓶だった。 「……ビール?」 「いいえ、違います。シャリキンホッピーです」 「シャリキン? ホッピー?」  ホッピーは、聞いたことがある。よく居酒屋でビールと並んでいるが、頼むのは年配者ばかりで、それも痛風持ちの人間が多かったため、安生は敬遠していた。 「そうです。まずは、飲んでみてください」  そう言うと、ボブの髪を揺らしながらその場を離れて、バックバーの裏に消えてしまった。  安生は目を瞬かせながら、残されたグラスを覗き込んだ。ジョッキの底に、シャーベット状の氷が溜まっている。これが〝シャリキン〟だろうか。  ホッピーの瓶には、作り方が書かれていた。と言っても、好きな量焼酎を注いで、このホッピーで割れば完成という、なんとも簡素なことらしい。  安生は、恐る恐るホッピーを注ぐと、ジョッキを手に取った。ホッピーは、全てなくならず、意外とまだ残っている。  これはどうしたらいいのか、と悩みながらも、とりあえずひと口飲んでみることにする。  くい、と傾けると、ジョッキの冷たさが唇に気持ち良く、続いて氷が流れ込んで、この熱帯夜になんとも爽快な気分になった。喉越しも、キレがある。ふと、目を開けると、夜空が見えた。  ふいに、酔いが醒めていく。  これを、味わわせてくれたかったのかもしれない。  何故だか、涙が流れた。  それと同時に、夜空が回り始めた。 「あれ?」  星もないのに、どうして回っているとわかるのだ。  そうか、バーの明かりが。いや、おかしい。じゃあ回っているのは自分の?  そう、気付いたときには、安生はそのまま後ろに倒れてしまっていた。  派手な音をさせ、スツールも転げる。  裏手から、先程のバーテンダーとは違う、オールバックに髪を固めた男性が戻ってきた。そのスツールを元に戻しながら、安生を見下ろし、呟く。 「さて、今回も始めるとしましょうか」  いつの間にか、彼の後ろには五人の影が、並んでいた。
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