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2
ちちち、と鳥のさえずりが聴こえた。
気持ちの良い朝だ。
安生は寝返りを打つ。と、確かな手応えが一気に消え、恐怖に目を覚ました時には地面にしたたかに打ち付けられていた。
「いっつう……」
背中を擦りながら体を起こすと、緑道、続いてランニングをする人々の姿が見えた。
慌てて周囲を見渡すと、自分が寝ていたベンチ、そして緑道の向こうにある球場の影が目に入った。
立ち上がり、まず携帯を探る。その前に、腕時計だ。
時間を見ると、朝の四時半。まだ、大丈夫だ。
とりあえず安堵の溜息を着き、改めて携帯を探った。
クールビズのシャツの胸ポケットにも、ズボンにも入っていなかった。そこで、布団代わりにかけられていた上着が地面に落ちていることに気がつき、持ち上げる。
あった。右ポケットに入っていたのを取り出し、念のためメールを確認した。
何も、入っていない。
この一連の動作だけで早朝だというのにだいぶ暑くなり、安生は流れる汗を拭った。今年の夏も、暑くなりそうだ。
と、突然携帯が震え、落としそうになった。何とか手の内で留め、チェックするとメールが一通届いている。
――Bar 6th Dimention
差出人はそうなっている。
どこかで登録しただろうか、と首を捻りながらとりあえずそれを開封する。
しかし、どこで記憶を失ったのだろう。意外とそれなのに二日酔いでもない。
そう思いながら携帯の反応を待っていると、本文が表示された。
――昨夜はご来店、ありがとうございました。今夜も十二時より、同所で開店いたします。よろしければお越し頂けますと幸いです。
少しずつ、記憶が戻ってきた。確か、自分は昨夜、不思議なバーに寄った。競技場跡地に、忽然と出現していたあのバーだ。夢ではなかったのだ。
安生は、思い出して身震いした。
あそこは、自分の工事現場だったのだ。
深夜に不審人物が変な店を開業していたとしたら、工事責任者の自分の責任だ。
安生は、今夜、自分の眼で確かめねばならない、と決意し、携帯を仕舞った。
できれば、上司に、そして現場監督にばれる前に、自分の責任内で物事を収めておきたかった。
もうこれ以上の問題は勘弁だ。
安生は足早に公園を去り、着替えるために一旦自宅へと向かった。
「またアンタか! いい加減にしてくれないか!」
現場監督から怒鳴られ、安生は首を縮めていた。ちらり、と覗うと、すぐさま次の罵声が飛んでくる。
「これだけ俺たちが汗水垂らして働いているっていうのに、デザイン畑のアンタは重役出勤でケチばかりつけて何にもしようとしない! せめて飲み屋で腹割って話そうや、と思っても金だけ出してさっさとどっか行っちまう。もうこんなスタジアム、建てられるかってんだ! なあ?」
監督が作業員達を振り返った。何事かと集まっていた彼らも、語気に当てられ大きく頷く。
「おう!」
「そうだそうだ!」
賛同の声が集まり、監督が振り返って鼻高々と安生を見下ろした。
「そういうこった。一度事務所に戻って、上と相談してきな。今日は俺たちははけるぜ」
行くぞ、と声を掛け、監督はスタジアム跡地を出て行ってしまった。作業員も、銘々それに続く。去り際に安生を睨む者、唾を吐く者、それぞれだったが、誰も安生を同情的に見てくれる人はいなかった。
どうして自分が――。
安生は誰もいなくなった吹きさらしの跡地で、上部に広がる青い空を見上げた。
この都会で、どこよりも開けた美しい空が広がっていた。
「だからね、俺は主張したわけですよ。ちゃんと飲みにも付き合ってる。話も聞いてる。向こうの理不尽な要求も、上に伝えて何とか宥めすかしてやってきた。なのに、今更何だと」
美しい空は、いつの間にか漆黒の、墨を流したような暗闇に変わっていた。
その夜空の下、暖かな光を灯すバーで、安生はカウンターに突っ伏すように管を巻いていた。
カウンターの中の相手は、先日と同じマッシュルームカットの青年で、長い前髪の下の目の色は読めないが、優しげな空気を出し、それを見守っている。
安生の手には、先日と同じく、ジョッキのグラスが握られていた。
「そもそも畑が違うって言っても同じ会社の仲間でしょう? そりゃあ下請けもいるだろうけど、幾らなんでもこれは酷過ぎませんかね? こんなんじゃ、建つもんも建ちませんよ? それ以前に活用法もデザインもまだ煮詰まってないとか言い出す始末ですけど……」
項垂れる安生の前に水と茶色の瓶を差し出しながら、カウンターの中の青年が笑って呟いた。
「もう一度、そちらを飲んでみて頂けますか?」
安生は自分の手元のジョッキを眺めた。量は、半分ほどに減っている。
「ホッピーは、自分で割り方を決めながら飲める、独特の飲み物です。元々は、ビールの代替品として生まれた飲料ですが、今ではプリン体も含まれず、ビールと比べて健康に良いとして中高年の男性を中心に好まれています」
「はあ……」
急に始まった説明に戸惑いながら、安生は茶色い液体を注ぎ足し、再び杯を傾けた。前より、味が濃くなった気がする。
「そちらが、ホッピーです。そしてシャリキン、というのは、金宮焼酎を凍らせたもの、シャリシャリの金宮、なのでシャリキン、です。こちらは商品名の〝ホッピー〟とは実は関係はないのですが、お店では瓶の方が〝ソト〟、焼酎が〝ナカ〟と呼ばれてひとつの〝ホッピー〟として売られています」
「あ、そうなんですか?」
安生は驚きながら瓶を手にした。確かに、ホッピーと書かれている。
「同じ名前なのに、不思議ですよね。でも、もしかしたら、今お話し頂いた建築のお話とも、少し似ているかもしれない、と思ったんです」
「建築と?」
安生は怪訝な顔で青年を見上げた。青年は、目元は見えないながらも、穏やかな表情で頷き、手元で何かを作業しながら続けた。
「そうです。ホッピーというお店での商品名を建築物、実際のホッピーをデザイン側、焼酎を作業側、と考えたら、どうですか」
問われて、安生は手元のグラスを眺めながら考えてみた。
グラスの中では、茶色と透明の液体が混ざり合って揺れている。
自分たちがデザインしないことにはまず設計図自体がなく、ものを建てることなどできない。商品名、つまり、代表するものだ。
しかし、同様に実際にそれを現実に現す作業をする人がいないと、これまたものが実際に建つはずなどない。
しかし、最終的に消費者が見るものは、その混ざって出来上がった〝ホッピー〟という飲み物だ。どちらがホッピーで、どちらが焼酎で、ということは関係ない。
そう考えると、混ざり合いながら出来上がり、双方違うものなのに同じものと見られる、というのは商品として美味しいものになっていくホッピーと似ている、と思えた。
「改めて、こちらが〝ナカ〟です」
新たな、シャリキンだけが下に溜まったジョッキを青年が出してくれた。
「飲み切ったら、また新しくこちらを頼んで頂いて、また注ぎ足し注ぎ足し飲んでいく。それがホッピーの楽しみ方です」
青年は説明しながら、あても出してくれた。
鳥のたたきだ。
「美味しいお酒に、美味しい肴は不可欠だと、僕は思っています。どうぞ、食べてみてください」
促されるがままに箸を取り、ひとつ摘んで口に運んだ。
うまい。
舌に刺激を与え、鼻から抜けるにんにくの濃さ。鶏肉の柔らかさと旨みが口の中に残り、じっくり味わっていたくなる。
それを敢えて、ホッピーで流し込み、洗い流す。ぐっと、爽やかな風が吹いたような味わいを覚えた。
「なるほど。これは美味しい」
「でしょう」
青年は、笑ったような声を出し、皿洗いを始めた。何かをしていれば、無理に話さなくてはいけない雰囲気も出ないので、ゆっくりとひとりで味わっていられる。
充分時間をかけて肴と酒を安生が楽しむのを待ってから、青年がまた控えめに口を開いた。
「あてと酒は、合う合わないがあります。人間関係と同じですかね。両方とも美味しくても、合わなければ逆に絶望的に不味くなってしまうことすらありえます」
「ああ、ありますよねえ」
安生は笑いながら、魚と赤ワインを合わせたときのことを思い出していた。格好をつけてワインを頼んだら、赤と白を間違えたのだ。その結果、生臭くてが大変なことになった。狙っていた女性との食事だったこともあり、忘れられない思い出だ。
「お酒のことだけを考えるのも勿論いいんですけど、そのお酒をどうやって楽しむか、そのためにはどんなおつまみがいいのか、を考えるのも、僕はバーテンダーをやっていて、いえ、単純に自分でお酒を飲むときでも、楽しいな、と思います。最も利益の高い楽しみ方、というか。それもまた、お酒の楽しみ方なのかな、なんて考えています」
青年は、そう言って頭を下げ、バックバーの裏手に消えていった。
青年の言葉を頭で反芻しながら、先程のホッピー建築論を思い出していた。
手元のグラスを掲げて、透かして夜空を見上げる。
真っ黒な夜空に、黄金の氷が浮かび、星空が瞬いているように見えた。
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