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3
安生は、朝イチで現場に乗り込み、既に暑い日射しの中、ゆっくりと跡地を見て回っていた。
机上の空論と、現場の感想。そして、後々使うだろう人たちの意見。
それらが見事に合わされば、昨日のバーのような素敵な空間になるだろう。
だが、合わなければ、絶望的な味付けになるに違いない。最も、利益率の高い建築物は、結局最も納得できて感動できる建築物だ。
その成否は、今、唯一三方を見れる位置にいる自分に掛かっているのではないだろうか。
「おう、どうした、早えじゃねえか」
後ろから声を掛けられ振り向くと、棟梁が腰に手を当てて立っていた。
安生は向き直り、唇を引き結んでその目を見た。
棟梁が、お、と口の端を上げた。
「お話したいことがあります」
「ふん、いいだろう。聞こうじゃないか」
棟梁が手招きし、プレハブ小屋へ入っていった。それに、安生も続く。
プレハブ小屋は汗臭く、工事道具や着替えなどが放られ、男の現場が色濃く出ていた。
そんな場所で、中央の机に、ふたり向かい合って座った。
「ああそうか」
と呟き、棟梁が、自らコーヒーを淹れるために立った。
「あ、いや、僕がやります」
「いいから、座っとけ」
棟梁のひと睨みにやられて、再び腰を下ろす。こんなことではいけない。安生は頬を叩いた。
「ほれ」
棟梁が、カップに入ったコーヒーを目の前に置いた。
安生はすぐさま手に取り、口を付けた。苦い。だがそれが、怯んだ意識を覚ましてくれるように感じられた。
棟梁が、笑っている。
「出されたもんを飲むのも、また相手を信頼している、ってことになるだろう? 俺たちは、夜の飲み会でそれを見せようともしていた。だがあんたは、金を出すだけで、お前から飲ませよう、というのが見えなかった。それが気に食わなかったんだ」
そう言って、体を前に倒した。
「さあ話を聞こうか」
安生は唾を飲みこみ、同じように前に出した。ここで引いてなど、いられない。
「棟梁、あなたは、どんな競技場を建てたい、と思っていますか」
棟梁は、安生の真摯な視線を受け止め、一度も逸らすことなく、言葉を返した。
「お言葉だが、俺たちは言われたもんを建てるプロだ。どんな、ってのは、あんたらが描くもんだろう?」
「それでも敢えて、です。この現場を見て、現場で動く棟梁たちは、どうお思いか、お伺いしたい」
じっと、ふたりが見つめあった。暫くして、棟梁が笑いながら体を引く。
「はっはっ。だから、ちゃんと飲み会で腹割って話せ、って言うんだよ。こんな場所で誰かに聞かれたらどうする? オフレコだから意味があるんだろうが」
少し茶化すような口調に、安生は姿勢を変えないまま喰い付いた。
「それに関しては、謝ります。それでも、今、ここで、棟梁にお伺いしたいのです」
じっと見詰め続ける視線に耐えかねたのか、棟梁がコーヒーをひと口啜った。そして、カップの水面を見ながら呟く。
「俺たちはよ、折角こんな所に建てるんだ。皆に、誇りを持ってもらえるようなのを建てたいんだよ。だから、現場を見て、デザイン的に無駄じゃないかと思えるところ、こうしたほうが良くなるんじゃないか、ってところを、できれば提案してえ。だが、まずお前らがどんな絵を描いているか、設計図から読み取ろうとそりゃするが、俺たちゃ頭が良くない。だから、読み取れないもんを腹割って、わかりやすく話して欲しい。そう思うんだよ」
「ありがとうございます」
安生が、机に額をつけるように頭を下げた。
そして顔を挙げ、額を赤くしながら続ける。
「僕も、そう思っていました。今からでも、変えましょう。丁度折りよくデザインも変わるという話になっています。基礎の部分だけ、進められるところは進めるよう話が来てしますから、未来を見据えて、できることはやってしまいたい。そう思っているんです」
「やってしまいたい?」
棟梁が、言葉尻を捕まえて眉根を寄せた。そして、顔を寄せて悪い顔で笑う。
「お前、もしかして、勝手にやっちまうつもりか」
安生も顔を近づけて、不敵に微笑んだ。
「予算内、期間内にやってしまえば、誰にも分かりません」
ふたりが、また暫し見詰め合った。今度は、明らかに大笑して棟梁が身を起こした。
「あーっはっはっは! 最高だな、あんた。何があった? 何で変わった? まあいいや。そんなことは関係ねえ。やるったら、俺たちはやるぞ?」
「喜んで」
安生が、手を出した。棟梁が、それを握り返す。
「未来のために、俺たちが思いつく限りのできること、ぶちこんでやろうじゃねえか」
「上が頭悪ければ、下が判断してやるしか、ないんです」
棟梁が頷く。安生が、決然と言った。
「味を決めるのは、結局混ざり合う僕達なんですから」
すぐさま彼らは動き始めた。
どこまで進めることが出来るのか。外せない要因は何か。
それらを調べた上で、今後の変化のためにできることはなにか。
作業員たちも、目標が明確になればそのための努力は惜しまない。
気がつけば、瓦礫の山はものの見事に片付けられていた。今や跡地は、土で整備された土台へと様変わりしている。
「これなら、何でも作れますね」
「おうよ。掘れと言われれば掘るし、広げろと言われれば広げてもやれる。そんでもって、そこかしこに仕掛けがあるから、うまくやりゃあサブトラックだってなんだって併設できる。完璧な作業だったと、俺も思うぜ」
棟梁は、安生に手を差し出した。安生も、それを強く握り返す。
「ありがとうございました」
「こっちの台詞さ。お疲れさん。さて、飲みに行くか」
棟梁が部下達を振り返り、煌く汗を拭きながら談笑している彼らを眩しそうに眺めた。
それを見て、安生も笑う。
「あ、そうだ棟梁」
「何だ?」
「棟梁は、ホッピーって飲み物、ご存知ですか?」
「ああ? 誰に聞いてやがる。土方のおっちゃん達なら、誰でも飲むのがホッピーだろう。お坊ちゃん、もしかして知らなかったのか?」
急にすごまれ、安生は少し身を引きながら応えた。
「え、ええ……。でも――」
「そりゃあいけねえ!」
安生が言葉を継ごうとしたが、それより前に棟梁が食い気味に遮った。
「そうとわかりゃ、前みたいな上品な店じゃなく、俺らの行きつけで、ちゃんとしたホッピーを味わわせてやらにゃあかんな。おうお前ら! 社員さんをいつもの店に連れてくぞ!」
「おおっ、いいっすねえ!」
「ういっす! 俺たちにゃああそこは上品過ぎると思ってたんすよ!」
口々に賛同を示す中で、安生はひとつだけ、引っ掛かっていたことがあった。今まで行っていた店も、彼らの好みに合わせた、随分大衆的な中華料理屋だった気がする。
あれが上品というレベルは、どれほどなのだろうか。
そんな懸念を余所に、棟梁が安生の肩を抱いた。
「よっしゃ、そうと決まりゃ、行くか! 今日は俺のおごりだ。遠慮すんなよ!」
「あ、ありがとう、ございます……」
安生は口の端を引き攣らせながら、微笑むしかなかった。
「うう……」
頭を押さえながら、安生が道の端をふらふらと歩いている。
結局連れて行かれたのは、ガード下の小汚い焼き鳥屋だった。だがこれが、抜群に美味いのだ。
ガード下なのと、彼らの元々の地声の大きさで、とにかく怒鳴りあうように語っていると、いつの間にか杯も進んでしまった。
浴びるように飲み、結局どこではぐれたかわからないままに打ち捨てられ、気付けばまたいつもの道だ。
見上げると、フェンスに囲まれた競技場跡が聳えている。その上で、細い月が輝いていた。星の見えない漆黒の夜空も、月を際立たせる意味では悪くない。
そう思いながらガードレールに寄り添うように歩いていると、また、隙間から暖かい光が見えた。
「……」
頭は、痛い。だが、寄りたい。
暫し立ち止まって考えた後、また安生の足は入口へと向かっていた。
人ひとりなら、入れないことはないだろう。しかし、あのバックバーはどこから入れたのだろうか。
そんなことを思いながら、持ち歩いている鍵で安生は堂々と中に入る。
瓦礫は綺麗に片付けられているので、土の地面が広がる一帯でぽつん、とバーがあるのが余計目立って見えた。
ゆっくりと歩いていく。
「いらっしゃいませ」
中には、やはりいつものバーテンダーが立っていた。
安生は頷き、カウンターに座る。
「何にいたしましょう」
そう訊ねるマスターの笑顔は、柔らかい。だがその裏で、何を企んでいるのか知りたかった。
どう考えてもおかしいのだ。
ここに簡単に入れていることも、安生が来ることを見越しているようなことも。言ってしまえばホッピーを出してきたことまで、全て計算され尽くしているような気がしていた。
それを、問い質したかった。
「何が欲しいか、わかっているんでしょう」
試しに、仕掛けてみた。しかし青年は、無表情でグラスを取った。
「そうですね」
そう言って、水を注ぎ、差し出す。
「まずは、お水でしょう」
安生は出された水をひと息に飲み干して、大きく息を吐いた。
まだ、いい。ここからだ。
「お伺いしたいことがあります」
「僕でお答えできることでしたら、何なりと」
青年は、すぐにお代わりを注ぎながら頷いた。
「どうやって、ここに入りこんだんですか。僕が、仕事で悩んでいるのは知っていたんですか。狙いは、なんですか」
立て続けの質問に、青年は表情を変えず、背筋を伸ばした。
「残念ながら、ひとつ目のご質問にはお答えできません。企業秘密です」
「なんで!」
「何故って、あなたもおわかりでしょう。このようなところに、許可を取って出店できるはずがありません」
そう言って、肩を竦めてみせた。
「それでも、こんな秘密の場所に、あなただけが知るバーがある。そしてそのお店は、訪ねた、見つけた人にだけ、求めるお酒を提供する。楽しくありませんか?」
安生は、肩の力が抜けていくのを感じた。この人は、心底そう思っている。心が、永遠の少年なのだ。そしてその心は、自分も少なからず持っている。こんな秘密基地、誰にも教えたくないくらいだ。
「じゃあ、ふたつ目の質問は?」
安生が悩んでいるのを知っていてのではないか、ということだ。
「そうですね……」
青年は暫く考えるように空を見上げてから、にっこりと笑ってみせた。
「そちらも、企業秘密で」
安生が崩れ落ちる。
「結果的に、あなたを救うことになっただけ、と言い張ればそうなりますし、もしかしたら色々と推測して作ったかもしれません。でも、結果がよければ、それでいいじゃないですか」
まあ、そうかもしれない。それに安生には、もう責める気持ちになれなかった。救ってもらったのだ。自分に害がなければこのままでいいじゃないか、と思えた。
「じゃあ念のため、最後も」
こんな所でバーをやる、狙いだ。そう聞いた安生に、青年がジョッキを差し出した。ホッピーだ。
「それは、このお店に来た人に、利益を得て欲しい、つまり、幸せになってもらうためです。そしてその幸せが、多くの人に広がれば、と思っています」
安生が頷き、ジョッキに口を付けた。冷たくて、美味しい。改めて、ジョッキの中を覗いた。
「そう言えば、さっきもホッピー飲んで来たんですけど、シャリキンじゃなかったです。どうしてシャリキンなんですか?」
素朴な質問に、青年が応える。
「何事も、ひと手間掛けた方が美味しいでしょう。凍らしたほうが、焼酎の味が濃く出るんです。結局、物の質を決めるのは、素材なのかもしれません」
「なるほど」
頷いて、空に掲げた。安生はこの風景が好きだった。。月の光が反射されて、星のようにジョッキの中で凍った金宮焼酎が輝く。
「でも何だか、前の例え話からしたら、この粒が、ひとりひとりの作業員さんのようで、僕はそれだけで好きだなあ」
そう言って、またぐいと杯を傾けた。
「どうぞ」
す、とおつまみが出された。
きゅうりのおしんこだ。
「暑い日には、さっぱりとしたものがいいですよね」
「確かに」
安生は舌なめずりをして箸を割った。
「きっと、ホッピーが愛される要因のひとつに、その爽やかさがあると思うんです。ビールは、コク、と言われるようになかなか飲み続けるのが難しいものもありますが、ホッピーは永遠に飲み続けられる気がします」
「あ、それはありますね。ビールのおつまみは、味の濃いものが合うような気もしますし」
笑いながら、きゅうりを嚙む音を高らかに鳴らす。
「時期によって、合うお酒、おつまみ、組み合わせは変わってきます。それは、お酒だけではないのかもしれません」
青年が静かに呟いたことが、安生の胸の中にゆっくりと沈み込んでいった。
なるほど、スタジアムだって、その時の気候に合わせたイベントだったり、造りに変わることが出来れば、より良いものになるのではないだろうか。
「全ては、繋がっているのかもしれませんね」
安生がジョッキを眺めて呟く。星々が煌いて、繋がり、星座を描いているようにも見えてきた。
「僕は、そうだと思います」
青年が静かな、だが確かな口調で同意してきたので、安生は驚いて顔を上げた。
「どうしてです?」
「それこそが、共通言語だと思うからです。多様性も勿論あるとは思いますが、そうした通底する価値観があるからこそ、僕たちはわかりあえるのではないでしょうか。僕が、最も大切にするのは、実利です。でもそれも、価値観が共通しなければ、全く意味を持たなくなる」
す、とジョッキが差し出された。
「生ビール?」
それは確かに、綺麗に泡が盛られた黄金色の飲み物だった。
「いえ」
それだけ言って、青年は黙っている。飲んでみろ、ということらしい。
安生は恐る恐る、その泡に口を付けた。
すい、と飲める。これは、ホッピーだ。
「どういうことです?」
「生ホッピーです」
「へえ! ホッピーにも生があるんですね!」
「ええ。美味しさを泡で封じ込められますし、濃さなどは提供する側の好みで作られますから、味覚が合えば、これもまた楽しみ方のひとつではないかと」
自分で作るホッピーも美味しいが、プロに作ってもらったものもまた、格別だった。
皆が出来ることを、粛々と、本気でやる。
それしかないのだろう。
外のことで振り回されてはたまらない。
プロの仕事を、見せてやればいいのだ。
「ありがとうございました」
安生は笑って立ち上がった。そこで、ふと気がついた。
「お会計は」
そういえば、酔っ払っていてこれまで幾ら払ったのか覚えていなかった。
財布の中身が乏しかったかもしれない、と少し不安になる。
「お支払いは、こちらに戴きましょう」
青年が静かに掌を差し出す。
「?」
何のことかわからず、安生はその掌を覗き込んだ。そこで、また、安生の視界が歪んだ。これは、前に味わったことのある感覚だ。世界が回る。まさか……。
安生が何かに勘付いた時、既に彼の意識は彼方へと消え去っていた。
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