第二話 バラオンダ

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第二話 バラオンダ

     1  七色の光が眩しいばかりに舞い、ミラーボールが暴力的に光を射してくる。  それでもまだ暗い、黒い空間に、人がひしめき合い、汗と欲望の匂いを発散させていた。  音楽が爆発するように溢れ、それに合わせて人間も壊れそうなほど体をうねらせている。  繁華街の、地下にある有名クラブ。そこのVIPルームに、そんな人間を憐れむように見下している一団がいた。  真ん中には、男たちにかしずかれ、女たちには持て囃されている女がいる。  脚を組み、白い、滑らかな太腿を晒すたびに、男たちが唾を飲み、また忙しく彼女へおべんちゃらと奉仕を開始する。  女が、グラスを差し出した。  ひとりの男が慌ててボトルを傾ける。血のような、赤い液体が注がれる。ボトルには、白地に青で、ふたりの男性の顔が背中合わせで描かれていた。  女はその赤い唇を赤い液体で濡らし、つまらなそうにグラスを机に戻した。  そして、ひとりの男の手を取り、ダンスフロアを見下ろすバルコニーに身を乗り出した。  踊る客がそれに気付き、見上げ、騒ぎ始める。 「おい、あれ、女優の草凪美智佳じゃね?」 「マジで!? 元首相の孫だろ? こんなとこで遊んでいいのかよ」  騒然とする中、それを嫣然と見つめた美智佳は、横の男の顎を摑み、唐突に口付けを交わした。  場内が見惚れ、音だけが異様に空間を支配していた。  やがて、ふたりは顔を離し、男が崩れるように座り込んだ。  見上げていた客たちも、陶然としている。  美智佳は、またくだらなそうに鼻息ひとつ吐き出して、奥へと姿を消した。  後を追ってくる取り巻き共を追っ払って、美智佳はひとり、運転手に「家」とだけ告げて黒いレクサスに乗っていた。  ネオンを置き去りにし、喧騒を遠ざけながら、車は住宅街へと向かっていく。どうして人は、明るい賑やかな場所に集まらざるを得ないのだろう。それが終わり、離れれば、悲しくなることがわかっているのに。  溜息を着いて車窓を覗いた美智佳は、大きなフェンスが目の前に続いているの気がついた。  自分の祖父が、最近煩わされている、と聞いている競技場跡だ。  美智佳は目を細め、それを睨みつけるように眺めた。  ここも、明るい、賑やかな場所。しかもその中心地になろうとしている。そこに集まる人々は、集まろうとしている人々は、何を欲しているのだろう。  その時、競技場の中でひとつ、光が灯ったのが見えた気がした。思わず、窓に額を寄せる。  また隙間から、確かにオレンジ色の光が目に入った。 「ちょっと! 止めて!」  運転手に指示を出し、車を飛び降りた。ヒールの音を高く鳴らしながら、競技場へと向かっていく。  そこには、かつての威容はなく、寂しい地面が広がっていた。  しかし、その真ん中に、小さな光が灯り、屋台のようなものが佇んでいる。  ――あれは何?  美智佳は高いヒールが汚れるのも厭わず、何故だか呼び寄せられるようにして隙間から競技場へと身をするりと潜りこませると、土を舞わせながら光へと向かっていった。  近付くにつれ、様相がわかってくる。  それは、バーだった。  屋台のようなものは、バーのカウンターとバックバーだ。  オレンジ色の温かい照明が、木の床を照らしている。どこからか、柔らかな調べの音楽も聴こえた。  喧騒とは遠く離れた、バーがそこにはあった。  誘われるようにふらふらと美智佳は近寄ると、急にヒールが音を立てた。本物の、木の床だった。  その音で、カウンターの中にいた金髪の男が顔を上げた。  きりりと吊り上がった涼しげな目元に、皮肉げな笑みを浮かべる。 「ようこそ、バー・シックス・ディメンションへ」  それが、美智佳と狂信の、出会いだった。  美智佳はきょろきょろとせわしなく辺りを見回しながら、ゆっくりとカウンターに腰掛けた。 「何にいたしましょう」  狂信にそう声を掛けられて、美智佳はびくりと肩を震わせた。それを誤魔化すかのように平然な振りをして脚を組み、カウンターに肘を乗せる。そのまま顎を手に置き、サングラス越しに挑発的な視線を狂信に送った。 「ワインある?」  ぞんざいな口調にも狂信は嫌な顔ひとつ見せず、質問を続けた。この反応は、彼にとって非常に珍しい、と言わざるを得ない。 「赤、白、どのようなワインがお好みですか?」 「何でもいいわ。この店で一番高いの出して」  言ってから、美智佳はじっと狂信を見た。狂信は涼しい顔を崩さず、頷いてバーの裏手に消えた。  それを見送って、ひとり残された美智佳は改めて周囲を見渡す。  何もない。  競技場の壁すらない。本当に、白いフェンスに囲まれているだけの、空き地だ。  フェンスも高いので、周囲の建物も見えなかった。まるで、どこかの砂漠に放り出されたかのような不安を、一瞬覚える。  ちらり、とサングラスを上げ、奥を覗こうとした。  すると、それを待っていたかのように狂信が姿を現したので、慌てて掛け直す。  狂信が手にしていたのは、赤ワインだった。  赤いラベルが巻かれていて、九文字のアルファベットが黒字で正方形に並んでいる。あれがワインの名前だろうか。BとHだけ、よく見ると白だった。  栓を開け、テイスティングを進めてくる。  美智佳はそれを、断った。どうせ変更もしないし、金も掛かるのだ。  狂信は大人しく引き下がって、改めてワインを注ぎ込んだ。  一度、空気を含ませ、差し出した。  受け取り、匂いを嗅ぐ。悪くない。  そのままくいと、一気に飲んだ。 「!」  美智佳は、目を丸くした。  赤といえば渋くて、何が美味しいかわからなかったのに、これは随分飲みやすい。有体に言って 「美味し……」  思わず声に出てしまい、口を押さえた。それを見て、狂信が口の端を持ち上げ、突如顔を寄せた。  思わず美智佳が顔を引く。  色んな男と遊んできたが、ここまで綺麗で、切れそうで、理知的な瞳を見たことがなかった。  急に、胸が高鳴る。  狂信が、サングラスを取った。 「これは、うちの中でも安い方だ、馬鹿野郎」 「え」  美智佳が呆気にとられる中、急に失礼になった狂信が続けた。 「うちが出すワインだからどれも美味いのに間違いはないが、人間には好みに加えて、年齢による味覚の変化もある。お前みたいな若造が、価値も味もわからず、ただ高いもんだけを頼めばいいなんて思うじゃない。ワインにも、作り手にも、失礼だ」  いいな、と言ってサングラスを美智佳に戻した狂信は、カウンター越しに美智佳の体を半回転させた。 「お帰りはあちら。今日はサービスしとくから、ちゃんと自分に合ったもの、必要なものがわかったら、また来い」 「ちょ、ちょっと!」  今まで味わったことのないような無礼な扱いに、やっと美智佳が現実に戻って怒りの声を上げた。 「私はお客よ!?」 「だからどうした」  狂信はにべもない。 「お金が不満なら、倍は出すわ。ちゃんと相手しなさいよ」 「こっちも客を選ぶ権利があるんでね。価値を提供するに値すると示すのは、何も金だけじゃないんだぜ」  もう一度美智佳を半回転させると、駄目押しのように肩を押して美智佳を突き放した。  美智佳が、サングラス越しでもわかる燃えるような怒りの炎を宿した眼で狂信を睨んだ。 「そっちがその気なら、こっちだって手はあるわ。うちのお爺ちゃんに言ってやるんだから。こんなところでバーなんて、どうせ不法でしょ? あんた、名前は何ていうのよ」 「獅子丸狂信だ」 「覚えたわよ、獅子丸。後で後悔して謝っても許さないんだからね」 「どうせなら狂信で覚えてくれ。俺には双子の弟もいる」 「うるさいわね! 獅子丸狂信、覚えてなさい!」 「覚えてなさいと言われても、俺はお前の名前も知らないが」 「はあ!? この私を知らないって言うの!?」  美智佳はサングラスを外し、狂信に顔を寄せた。だが、狂信は眉をひそめるだけだ。 「ああ、知らない」 「……!」  美智佳が絶句し、後じさりしかけたが、何とか踏み止まる。  きっ、と狂信を睨みつけ、言った。 「もう、本当に怒ったわよ」 「どうぞ」  狂信は肩を竦めて片付けに入っていた。もう美智佳など眼中にないようだ。 「覚悟しておきなさい。うちの……」 「お爺ちゃんか? お前が何かできないなら、もう帰ってくれないか」  顔を真っ赤にし、震えている。狂信は涼しい顔で片付けを終え、冷たい目線をひたと美智佳に据えた。  その視線に一度身を竦ませ、それを振り払うように美智佳が叫んだ。 「こんな店、潰してやる!」  踵を返し、ヒールを高らかに鳴らして店を出て行った。  だが競技場は広いので、地面を歩いていく様は長い間狂信の視界に入っていた。  最後まで、肩をいからせて足音がなるように腿を高く上げて去っていった。下が土なので音が鳴るはずもないのだが。  どこかで狂信が止めに来るはずだと信じていたのだろう。  狂信はふっと息を吐き、口許を緩めてみせた。 「狂信君は、あのような女性が好みですか」  いつの間にか仁が後ろに立っていて、狂信の顔を覗きこんだ。狂信はすぐさま表情を不機嫌なものにする。 「まさか。一番嫌いな部類です」 「そうですか」  仁はにこにこしながら今夜のおつまみを作り始めた。 「大丈夫そうですか?」 「まあ、一発目としては、上々じゃないですか?」  狂信が輿に手をあて、美智佳が去っていった場所に目をやった。  仁が頷き、美智佳に空けた赤ワインを手にする。 「それじゃあ、今日は一杯やってしまいますか」  狂信が、にやりと笑う。 「いいですね」  グラスを掲げた。赤い、だが濃すぎない、ルビーのような液体が、月明かりに揺れた。
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