第二話 バラオンダ

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     2 「お爺ちゃん! ちょっと聞いてよ!」  怒りの収まらない美智佳は、あの後もう一度六本木に戻り、酒を浴びるように飲み、足が棒になるまで踊ってから、早朝に帰宅した。そして早速リビングに飛び込み、歳を取り早起きになった祖父を見つけて声を上げたのだ。  早朝の散歩を終えたのか、ジャージ姿の祖父は、新聞を片手にコーヒーを飲みながら顔を上げた。 「おやおや、どうしたんだい、美智佳」  この祖父は、驚くほど孫に甘かった。ねだれば何でも買ってくれるし、甘えれば何でもやってくれる。その所為で美智佳はこのようになってしまったのだが、本人は至って無頓着である。  両親のお蔭で良い顔・体型に恵まれたので、祖父に甘えて芸能プロダクションに口を利いてもらった。それが今では、芸能界の寵児である。 「さっき有り得ない奴にあったの」 「ほう。どんな奴かの」 「それが、お爺ちゃんが今やってる、新競技場の跡地なんだけど、そこで勝手にバーとか開いていて」 「ほう」  思いの外、低い、真剣な声を聴いて、少々酔っ払い気味だった美智佳が祖父を仰ぎ見た。祖父はゆっくりと笑ってみせる。優しい祖父は、美智佳に怖い顔を見せたりなんかしない。 「迷惑な奴もいるもんだな。それで、そいつに何をされたんじゃ」 「それが、私が味がわかってない、って安いワインを騙して出した上、追い出したの! まず営業しちゃ駄目な場所でしょう? どうにかしてよう」  祖父の腕に抱きつき、甘えてみせる。いつもなら、相好を崩してすぐさまオーケーを出してくれるはずだった。しかし、今日は返事が遅い。  また、顔を上げると、黙って前を見詰めている祖父がいた。 「どうしたの?」  美智佳が首を傾げ、今度は真剣な眼差しのまま、祖父が美智佳に顔を向けた。 「良いかの、美智佳。これまでわしは、美智佳がしたいということ、欲しいというもの、すべて叶えてきてあげた」  美智佳が、黙って頷く。 「それも、どれもこれも美智佳のためになると思ったからじゃ。しかし、ここを潰す、というのは、美智佳に何の糧になる?」  まさかの祖父からの窘めに、美智佳は今日何度目かの絶句と驚きを感じることになってしまった。  確かにこれまで、気に喰わない奴を潰して欲しい、というお願いはしたことがなかった。でも、それは買ってくれたものや貰ったお金で、どうにかなっていたからだ。 「勿論、違法行為は捨て置けん。しかも今少々厄介な案件だ。潰しはするが、それは美智佳のためではない、ということは、覚えておいて欲しい」 「な、何よ! もうお爺ちゃんなんて知らない!」  美智佳は叫ぶと、立ち上がって逃げるようにリビングを出た。  後ろで何か言っているような気がしたが、関係なかった。  そういえば、汗臭いし酒臭い。今日はもうお風呂に入って寝る。  そう決めて、美智佳は涙目で、家の廊下を駆け抜けていった。  ぶくぶくと、風呂に口まで浸かって泡を吐き出し、唇を突き出した。  どうして自分があそこまで言われなければならないのか。  大きな浴槽で、脚を伸ばし、自分のスタイルの良さと艶に満足気に酔いしれる。  胸は、そんなにないけれど、この気品はそのためだとも考えられるから、気にしない。  立ち上がって浴室に置かれた鏡に体を映した。  どんな男も、この体と、祖父のお金さえあればかしずいた。  初めて、あんな男に出会った気がした。  あいつが出した赤ワインは、あいつは安いと言っていたけれど、本当に美味しかった。あれは、紛れもない本音だ。だから、口惜しかった。  獅子丸狂信。  奴は何者なのだろう。  ふと、彼が出した赤ワインが何だったのか知りたくなった。  風呂を出て、裸のまま脱衣所を抜け、長い廊下を歩き、自分の部屋へ向かっていく。 「お、お嬢様! お召し物を!」  後ろからメイドが近付いてくるが、無視をしていたらタオルだけ巻かれた。  部屋に入り、ベッドに倒れこむ。朝の爽やかな風と光が気持ちいい。  どんなに外は暑くても、我が家は緑に囲まれ、気持ちいい風が入ってくるのだった。  これまでの疲れに呑み込まれるように微睡んでいく。  彼のワインを調べるのは、起きてからにしよう。  草凪美智佳は、柔らかい枕と布団に包み込まれるように、眠りへと飛んでいった。  目を覚ますと、夕方だった。目を開けてすぐ目に入った赤い夕焼けがそれを物語っている。  寝惚け眼をこすりながら、美智佳は階下へ降りていった。いつもの習慣でテレビを点け、冷蔵庫を開けて水出しの紅茶を飲む。  テレビが、喧しくがなりたてていた。何と無しに目を向けると、どうも見た顔がフラッシュを当てられていた。思わず、駆け寄る。  祖父だった。  不躾なレポーターにマイクを向けられ、ただでさえあまり良くない人相がだいぶ怖いものになっていた。  慌てて音量を上げて、テロップを注視する。  ――新競技場、個人的思惑の果て!?  レポーターががなりたてた。 「草凪元総理! あなたの裁量でこのスタジアムのデザインも費用も決まったと、そういうことでよろしいのですか!?」  祖父は黙って押し退けて歩いていく。 「答えてくださいよ! 国民の血税は、あなたの財布じゃないんですよ!? 好き勝手やりたいなら、自分のポケットマネーでやったらどうです!」 「馬鹿野郎!」  車に乗り込むまであと少しだったのに、祖父がキレた。  美智佳は思わず額に手を当てた。 「国民皆が望む競技場を作る、それにたったあれっぽっちの金も国が出せないなんて、その方が恥ずかしいと思わんのか!」 「あれっぽっち!? あれっぽっちと言いましたか!?」  祖父は、車に乗り込んでいってしまった。  しかし、言ってしまった言葉は、もう元には戻せない。  いつもの、おじいちゃんの失言癖だ。あれがざっくばらんでいいという人もいるけれど、今のタイミングは、最悪だった。  競技場の問題は色々なところで噴出している。こうなると、ターゲットにされて祖父は思うように動けないだろう。つまり、あの糞野郎も祖父の力で潰せない、ということだ。  ――ちくしょう、ツイてやがる。  美智佳は汚い言葉を心の中で毒づいて、着替えることにした。  こうなれば、自分で動くしかない。祖父も公的に働きかけはしてくれるだろうけど、それだけでは物足りない。  まずは、友人たちだ。  遊び仲間を適当にピックアップして、お礼をする、と添えて、競技場跡を調べてくれるよう送信した。  すぐに返事がくる。  そう、私に従わない男など、いないのだ。  美智佳は満足気にその従順振りを伝える携帯の報せを見ると、特に内容も読まず、放置して化粧をしにリビングへ行った。お姫様にも、忠実な家臣を従わせるのに少しだけ、努力が必要なのだ。  黒いミニのフレアスカートに黒のタンクトップ姿の美智佳が競技場に姿を見せると、すぐさま男たちが群がってきた。  ぱっと見で三十人程か。フェンスの中にいるのも、他のところを捜している男もいるだろうから、まあまあいい方か、と頷いてみせる。 「美智佳、俺たち言われてからすぐここに来たけど、そんなバー、なかったぜ? 怪しい奴が近付いてきたら問い詰めてやったけど、今からやるってわけでもなさそうだったし」 「ふうん」  美智佳は興味なさそうに男の報告を聞き流すと、中にいる男たちに声を掛けた。 「ねえ! 何か痕跡とか残ってる?」  だが中の男たちは、無様に首を振るだけだった。  使えない。  美智佳は貌をしかめ、舌打ちをしながら、隣りにいた男に手を差し出した。  よく心得た男が、ジュースを差し出す。しかし、美智佳の今日の気分のものではなかったため、放り投げた。 「今日はピーチフラペチーノの気分」  慌てて何人かの男たちが方々に走り出す。因みに、いつもはお気に入りのマンゴーを用意させている。 「全然駄目じゃん。私が言った、男の情報は?」 「顔の特徴だけだと、なかなか……。色んなとこに声掛けてるけど、似たような奴が多くて。美智佳に見て貰いたいんだけど……」 「獅子丸狂信、って名前も言ったでしょ!? こんな特徴的な名前なのに、そんなのも見つかんないの?」 「でも偽名とか、聞かれて嘘ついてる可能性もあるし……」 「それを調べて見つけてくるのが、あんたたちの役割でしょ! そこまでしたら、私がお礼をしてあげる、って言ってんの。もういい。今日は帰るから」  まごまごしている男たちを置いて、その場を去ろうとした。その腕を、ひとりの男が摑む。 「何?」  その鋭い目線に短髪で筋骨隆々の男は少し怯みながらも、ここまできたら引き下がれない、と言葉を継いだ。 「今の言い草はないんじゃねえの。皆、美智佳のためにやってんだ」 「私のためにやるのは、当たり前でしょ」  男が、絶句する。 「やるたくないんだったら、やらなくていいのよ」  男の手を振り解いて、冷たい目で見据えた。 「あんた、もうこなくていいよ」  今度こそ、競技場を後にする。待たせていた黒いレクサスに乗り込み、出発させた。 「どちらへ?」  運転手が行き先を聞いてくる。  美智佳は髪を掻き揚げ、窓の外を覆うフェンスを見ながら、あのワインに思いを馳せた。  美味しかった。また飲みたい。 「適当に流して」  少し考え事をしたかった。運転手が、頷く。 「?」  その時、何かが頭の中に引っ掛かった。  窓の外を眺めながら、それを摑もうと思考を巡らせる。  あの男の顔。バーの雰囲気。出されたワイン。どこかにヒントは転がっていなかっただろうか。  一番は、やはり獅子丸狂信だろう。あの変な名前に加えて、派手な金髪だ。そう簡単に隠れることなどできそうにないが……。 その時、先程の違和感に気がついた。運転手が頷いた仕種で、帽子から運転手の襟足がのぞいたのだ。  運転手の顔なんて美智佳が覚えているはずもない。髪形だって、同様だ。  だが流石に、金髪の運転手は抱えているとは思えなかった。 「ねえちょっと」  美智佳が身を乗り出す。 「はい?」 「こっち向きなさいよ」  運転手の肩に手を掛けた。その手を、とられる。 「申し訳ございませんが、お手を触れるのは厳禁でございます、お嬢様」  振り向いて皮肉気な流し目をくれたのは、まさにあの男だった。 「獅子丸狂信!」 「遅いんだよ、気づくのが。とりあえず目的地に着くまでは、大人しくしてもらう」  冷たく言って、スプレーを美智佳の顔に吹きかけた。  何か言い募ってやろうと、嚙みつかんばかりに狂信に喰いつきかけていた美智佳は、その煙をもろに浴びた。意識が、遠くなっていく。  ――折角、会えたのに。  美智佳の思いは、泡のように消えていった。
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