シュレーディンガーの招き猫

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 それから暫く〈俺もどき〉は現れなかったけれど、次に現れたのは人事課の面談がある日だった。  目が覚めると、俺はフローリングの上で寝ていて、〈俺もどき〉はベッドで寝ていた。 「今日はお前が会社に行ってくれないかなあ」  俺はインスタントコーヒーをひと口啜ってから言った。 「遠慮しとく。お前こそ行けよ」 〈俺もどき〉は口を尖らせる。  俺の人事評価はいつも中の下レベルだ。面談の時、人事課の担当者に嫌味の二つ三つ、いや五つ六つ言われるに違いない。〈俺もどき〉が嫌がる気持ちは分かる。 「じゃん拳だな」  俺たちはじゃん拳で決めることにした。俺が勝って、〈俺もどき〉が出勤することになった。今回もシュレーディンガーの招き猫は福を招いてくれたのだ。  肩を落としてワンルームマンションを出て行く〈俺もどき〉の後ろ姿を見送ると、俺は前から見ようと思っていた「十三日の水曜日」を見に映画館に行った。  会社勤めだとどうしても映画を見に行くのは休日になってしまう。ところが、休日だと観客が多くて、中には俺の席近くでお喋りをしたりポップコーンを頬張る輩がいて、気になって映画に集中できないのだ。けれど、今日は平日なので観客は少ない。気持ち良く映画を見れそうだ。俺が二人いるといいこともあるもんだ。  そんなことを考えていると上映が始まった。何か恐ろしいことが起こると予感させるオープニング。俺はスクリーンに見入った。  やがて物語は進み、スクリーンでは殺人鬼がキャンプに来た若者たちを追い回している。躓いて転倒した若者の頭に殺人鬼の斧が振り下ろされる。思わず俺は、「おおっ」と声を上げてしまった。  その瞬間、俺の前には苦々しい表情をした男たちが現れた。俺がよく知っている男たちだ。会社の人事担当者だった。映画館にいた俺がなぜ会社にいるんだろうか。 「今、『おおっ』と声を上げましたね」  テーブルを挟んで左側に座っている男が言った。人事課長だった。黒縁眼鏡の奥の目が鋭く俺を射る。  まだ若い右側の男は黙って冷たい目で俺を見ている。おー怖い。ホラー映画の続きを見ているようだ。 「そ、そうですか」  俺は狼狽える。状況がよく理解できない。 「面談が終わったので、歓声を上げたんですか」  人事課長は非難するような口振りだ。 「いえ、ちょっと、うとうとしたようです。夢を見たようです」 「ほう、面談中にうとうとね。夢まで……。大した度胸ですね」  人事課長が声を落として言う。若い男の目は更に冷たくなっている。 「申し訳ありません」  椅子から立ちあがり、九十度の角度で頭を下げた。 「垣内さんの前回の評価は中の下でしたが、今回はどうでしょうかね。期待しない方がいいですね」  最後に脅しの文句を聞かされて、俺は面談室を後にした。  俺は自分の席に戻る道すがら考えた。  俺は映画館で消えたんじゃないか。と同時に、〈俺もどき〉が確率百パーセントの存在になったんじゃないか。そして消える瞬間、俺の意識と〈俺もどき〉の意識が混ざり合ったので、「おおっ」と声を上げたのじゃないか。  俺は〈俺もどき〉になったけれど、元々俺も〈俺もどき〉も俺自身だから、これからは俺と言おう。何だかややこしい。  その夜、帰宅してからもう一人の俺の帰りを待っていたが、帰って来なかった。やはり、俺は映画館で消えたのだ。  招き猫はただの猫になったのかな。
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