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 厚木が進行ガンを抱え、国立病院に通院して抗癌剤と鎮痛剤で躯を支えていたと知ったのは、後のこと。  荼毘に付されたあとの骨は脆く、触れただけで零れ落ちた。四十代でその脆さはまず有り得ない。文字通り骨身を削り、生命力を使い果たしていたことが判った。    葬儀が終わって独り自室に引き取った夜、厚木の灰を口にしながら北原ははじめて泣いた。何故死んだと、骨壷を抱いて掻き口説いた。  あの強靭だった長身が今は小さな壷に納まってしまっていることに、人間の生命そのものの儚さを思わずにはいられなかった。乾いた灰の味に底無しの孤独と奈落を思い知らされた瞬間だった。 『自分が死んだら骨を組長に渡してくれ、と言われていたので』  葬祭が終わった時に、芳輝が骨壷の入った箱を差し出しながら語った言葉。  病の真相を最後まで自分に隠されていたことが、北原にとっては二重の打撃だった。  厚木との間には隔てなどないと信じていた。生命の浮沈に係わることを伏せられたのは最悪の背叛とさえ思えた。思慮深い厚木の想いを誰よりもよく察していながら、それでも無茶に対する詰りは止められなかった。  ――俺の傍を離れないって約束を死んでまで守ろうというのか、厚木――  頬に涙を伝わせながら遺灰に語り掛けた北原は、そのまま一睡もせずに夜明けを待って、芳輝に箱を返したのだった。  顔色が悪いことを案じた、厚木が咳き込むたびに幾度も尋ねた、医者には行ったのかと。  けれど彼は煙草の吸い過ぎだと答えるきりで、逆に北原を心配性だと笑った。  人員こそ少ないが上がりの大きい賭場を幾つも有している北原組は、児島道三の好意が濃く掛かった一家であるということも手伝って、他組織からの挑発に絶えず脅かされていた。北原を護るために、厚木は嘘を綴ったのだ。  組の若頭が不治の病に取り付かれていることが知られれば敵が隙を狙ってくる、それを避けるために。  何故その嘘に、その病に気付けなかったのかと、北原は幾度おのれを詛ったことだろう。  一番近くに居ながら、心を寄せ合っていながら、何故、と。  自分が厚木を殺したも同然だと胸を掻きむしり、眠れない夜に酒を呷っては嘆きを繰り返した。  飲み過ぎだと止めてくれるその存在が傍らにないことに、さらに絶望を覚えながら。 『親父と同じでな、あれは人が良すぎる。頭は働くが、馬鹿や。反対にお前は頭がええ、いざという時には斬り捨てることも知っとる。せやから丁度ええ組み合わせやと儂は思うとるんや――あれを、頼む』  厚木たちに救いの手を差し伸べた児島道三は、座布団を降りて畳に深く手を突いた男に、北原を評してそう言ったという。  昔気質の木場組でやって来たお前たちには、北原組の気風が一番合うだろう、とも。 『田舎の街の、小さな地付きの組や。荒事は好まんとパチンコ店や賭場で生計を立てとるが、これがなかなか手堅い上、近くに大企業の工場が出来て人口が増えたりしてな、シマとしては上々の土地なんや。せやから他所の組が時々ちょっかい出して来よる。北原は手前の子分守るためなら自分のタマも平気で捨てるような奴や、そうならんよう、お前がよう見張ってくれ。判ったな』  経緯を厚木から聞いた時、児島の大親分に取っては俺はガキ扱いかと苦笑したものだが、厚木は表情を崩さなかった。それどころか、低い声で、しかしはっきりと言い切ったのだ。  ――江田の四代目に、感謝しています。私を貴方に引き合わせて下さった、あの方に――  ふたりの間で止まった刻は、続く口付けで融け合い、言葉は不要のものとなった。  あの穏やかな声も、鋭い光を放った眸も、ほんの一瞬前のこととしか思えないのに、厚木はもうこの世には居ない。 「……俺は怨むぞ、厚木。一生、怨んでやる。お前を俺のところに寄越した四代目をな」  喪失すれば永遠の孤独を免れない、それほどの存在を自分に与えた、老いた侠客を。  天井を見詰めたまま追憶に沈んでいた北原は力ない笑いを浮かべ、半ば冗談、半ば本気で呟いた。  人は誰でも死ぬというのに、どうして厚木に、あそこまで心を明け渡してしまったのだろう。  生死の狭間を渡り歩く世界に生きている以上、人の命運を乗せた天秤がいかに脆弱であるかを、骨身に徹するほど判っていたはずなのに―― 「気分は、どうですか」  風呂から上がってシャツとジーンズ姿になった芳輝が、新しいタオルを持って応接間に入って来た。  腰の痛みは最初に比べると随分と治まっていたが、年末の忙しさに疲労が溜まっていた身は、持ち主の意志に抗って言うことを聞かない。辛うじて上体を起こしてソファに座ると、芳輝が北原の乱れた項をタオルで拭って整える。  下手な謝罪を綴らない自戒の強さは父親の気性そのまま。見上げた視界に映る顔も、昔の厚木にそっくりだった。三十代に近くなれば出会った頃の彼と瓜二つになるだろう。  一度、喪った。かけがえのないその男を、十二年の歳月を共にした後に。  懐かしさと同時に、心臓を刳るような記憶をも呼び覚ます芳輝の容姿に、北原は我知らず目を伏せた。  胸中に深く葬った厚木の死をふたたび突き付けられる激痛が、全身を差し抜く。  大切でたまらない面影。だからこそ、目にすることすらも辛い面影。  父と同じ昏く狂おしい眸で、己を見詰めて来る青年。  長い刻を共有した厚木ならばともかく、女に不自由をしない容姿と環境を持っている上に極道の柵を持たないこの若者が自分に執着する理由そのものが、少しも掴めなかった。 「……何で、俺なんだ。四十三の男なんぞ、普通なら願い下げだと思うが」 「貴方が好きだからです。好きなことに、理由なんてない」 「………」 「俺は、親父とは違う」 「芳輝」 「親父みたいに、聖人君子にはなれない」    既視感のある問答。北原も以前に、似たような会話を交わした。  貴方を抱けないと告げた男に言ったのだ、俺は別に聖人じゃない、と。  それに対し、厚木は首肯を返した。 『判っています。我々と同じ、人間です。泥に塗れることもあれば反吐を吐くこともある、人間です。それでも――抱けない。汚せない』  呻くような声で呟き、侃い光を湛えた眼差しをこちらに投げると、男は静かに去ったものだ。  北原が過去を辿っているのを察したのか、芳輝は心情を乱すことを恐れるかのように、ごく低く囁いた。 「俺が、親父の分も傍に居ます。ずっと」 「約束はするな」  もう、違えられる約束はたくさんだった。  誓っておいて、あの男はどうなったか。病魔も顧みずに北原の為に尽くした挙句、血を吐いて死んだ。  床に投げ出された身体を腕で支えた時の重み。悲歎に狂った喪の中で口にした灰の味。  微笑んだ声も、唇を塞いだ息遣いも、抱き締める力も、全ては幻となって消え果てた。  ――貴方の傍を離れない。何があっても、貴方の傍に居ます――  厚木にかつて告げられた誓言を芳輝からも聞いた時、無意識とはいえあまりにも似ている父子の在りように、抵抗の力が身の内から失われ、諦念にも似た感情の渦に巻き込まれながら、肌を与えた。  芳輝を無下に拒めなかったのは、愛して欲しいと叫んでいる希求が、痛い程に伝わって来たから。  芳輝は、自分が父と同質の情で愛されている訳ではないのを知っている。それでも求めてやまない彼の哀しい願いに、応えないままで居ることなど出来なかった。 『貴方は、与え過ぎる。骨身まで削って、最後には何も残らないのではないかと――それが私には、辛い』 『残るさ、事実がな。とどのつまりは自己満足だろうが、そうせずにはいられないんだ。江田の親分の言う通り、難儀な性分だ。親父譲りだな』  組織の為ならば末端を容赦なく棄てる、長を名乗るものなればそれが当然なのだろうが、北原はそうしなかった。統率を乱す者を切り離しはしても、見棄てはしなかった。  営利が最優先となり、昔ながらの義理は忘れ去られた現代の裏社会では、北原の気性を愚昧と嗤う者が大半だったが、慕って付いて来てくれる子分たちとの絆は大組織のそれを遥かに上回り、結局は組の堅実な運営と発展に繋がっている。  北原は、それでいいと自然体で構えていた。  父の跡目を継いだ時から、野心を持ったことはない。組が安定して維持され、舎弟たちがそれぞれの人生を全うすることが出来れば、充分だった。  そうやって己なりに紡いだ厚木との十二年で残ったのは、真の信頼関係に身を置いた心地良さと、恋愛に限りなく近い感情で心が結ばれていたという事実。  それは相手の息子にまで求められるという展開をも招き、自らも一度は許した。  だが、ここまでにして置かなければならない。  芳輝の想いはたしかに真摯なものだが、父の影響も加味されていると北原は感じていた。  若さにありがちな一時的な熱情は、しばしば当人をも騙す。時が経てば自然と目が覚め、女性を愛するべき本来の性質に戻って行くだろう。  何より芳輝は、厚木の忘れ形見。世間に後ろ指をさされない道を息子に与えたいと祈った父親の親心を、自分も楽しみにしていた青年の行く末を、ここで違えさせる訳にはいかない。  零れる表情のひとつまで見逃すまいと、こちらに強い目線を注いで来る青年に向かって、北原はおもむろに口を開いた。   「お前を、組には入れない――こんなことをするのも、今日限りだ」
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