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2
薄い傷痕が、肌膚の上に何本か残っている。北原がこの世界で戦い、生き抜いてきた証。
胸元や肩に走るその線を舌先で舐めると、大柄な体躯がびくりと動いた。今は芳輝も衣服をほとんど脱ぎ捨て、素肌を触れ合わせている。
「……芳輝」
「はい」
「おまえ……いつ、厚木とのことを――」
言いよどむその先を、芳輝が引き取った。
「十年前、貴方がここで親父と酒を飲んでいた時に」
「………」
眉を軽く顰めた北原は、自分でも思い出したのか、何も答えなかった。
思えば、十年前のあの瞬間が、北原への特別な感情を意識するきっかけとなった。
十二歳の芳輝は夜中に喉の渇きで目が覚め、台所まで降りた。その時、応接間の扉がわずかに開いていることに気付き、漏れる煙草の煙と声で、父と北原が同席しているのだと知った。
小父さんが来ているなら挨拶しようかと様子を窺うと、二人はソファに並んでいながら何故か黙りこくっていて、不審に思った芳輝はタイミングを量ることにした。いつもであれば芳輝の気配を父が察したであろうが、咎められることがなかったのは、それだけ彼らが互いの存在に集中していることを示唆していた。
ややあって北原がグラスに酒を注ごうとするのを、飲み過ぎを制するためであろう、煙草を置いた父が手首を掴んで止めた。
はっと顔を上げた北原と、父の視線が、絡んだ。
ふたりは距離を詰めたまま、しばらく躊躇っていた。
少なくとも芳輝には何分もの長い刻に思われたが、実際は数秒の間だったのかも知れない。
この先に待ち受けるものが何であるかを、思春期を迎えていた少年は充分予測しており、だからこそ心身が震え、立っているのもやっとだった。
やがてどちらからともなく、磁力に引かれるように顔を近付け合い、父は掌をゆっくりと北原の後頭部に回すと、唇を重ねた。
最初は軽いそれだったのが、北原の腕が父の首筋に巻き付いた瞬間に激しい接吻に変わり、ふたりの影は離れなくなった。
彼らが性的な接触を持っているという嫌悪よりも、求め合う者同士のみが持ち得る濃密な官能に芳輝は圧倒された。それ以上は到底見ていられず、足音を忍ばせて自分の部屋に戻るも一睡も出来ず、身体中を駆け巡る熱と胸の痛みに悩まされた。
その胸の痛みの正体が、独占欲から来る嫉妬であると思い至ったのは、程なくしてから。
幼い時から北原に誰よりも可愛がられたがゆえに、いつしかその情愛が自分の物でなければ我慢出来なくなっていた。北原が組員たちを家族のように大切にしているのは知っていたけれど、それとは別個の、人間としての彼の心を独り占めしたかった。青年へと成長を遂げつつあった一介の男としての恋着だった。
だが北原はその愛情を父に、父だけに注いでいた。
どう足掻いても太刀打ち出来ないふたりの繋がりに芳輝は嫉妬し、以来、北原を『小父さん』と呼ぶのを止めた。突然の変化に北原だけでなく父も周囲も驚いていたが、背伸びしたくなったのだろうと微笑まれるに終わった。
あの時から、彼はすこしも変わっていない。
年齢は重ねていても、戸惑う表情は、若かった当時と同じ。
限りなく優しい手付きで北原を引き寄せた父の所作を思い出しながら、頬や鼻筋に口付けを落とし、眸を見詰めた。
「――そんなに親父と似てますか、俺は」
「………」
「抵抗できないくらい、似てるんですね」
自嘲を呟く芳輝を、北原は哀しい眼差しで見詰め返したまま、何も答えない。
少なくとも身体は拒絶していないのは、芳輝の髪を梳く仕草や、すでに昂ぶっている熱から明らかだった。
脇腹まで掌を滑らせると、北原のくちびるから甘い吐息が零れる。若い頃は野球や柔道をしていたという肉体は、芳輝よりも余程に力強さに満ちている。
彼の全てが欲しかった。男らしい男の体躯に潜む官能をこの手で、身体で目覚めさせ、欲情の淵に溺れさせ、乱れさせたかった。
それだけに取り付かれた芳輝は、欲望の赴くままに脚の付け根まで舌を下ろし、もうひとつの敏感な箇所まで丹念な愛撫を施し始めた。
「だ……めだ、芳輝、やめろ……!」
唇で湿した指先で中を探る度に、北原の腰が跳ねる。
異性も同性も経験がある芳輝は、手を緩めない。
「親父にだって、こうされていたんでしょう」
何を今更、と言い放ち、強弱を付けて快楽を引き出す試みを繰り返す。
思っていたよりも手間取ることに、父が亡くなって時間が経っているからかと考えながら、時折北原自身を唇で呑み込んでやる。
纏わり付く汗の香。かすかに残るボディジェルの薫り。
暖房と体温で高められて空間に散るそれらが、芳輝の背筋にぞくぞくと熱を走らせる。
荒い息遣いに上下している胸板や、快楽に堕ちる寸前で踏み止まっている表情――父も北原をこうさせていたのだと思うと、たまらなくなった。
「好きなんです、北原さん」
「………」
「俺を好きになってくれとは、言わない……でも、今だけでいい。俺に貴方を下さい」
北原の眼差しが揺らいだ。
「今だけは……親父じゃなくて、俺を見て下さい。俺はもう、子供じゃないんだ」
所詮身代わりでしかない己の存在価値に、喉が詰まる。
そんな芳輝の頬を、北原が指先で撫でた。労わるように、何度も。そして首筋に手を滑らせ、上体を屈めるよう促される。芳輝は素直に従った。
「――来い」
聞こえるか聞こえないかという響きで耳打ちされ、思わず目を見開いた。
強引に身体を奪おうとしている自分を微塵も責めず、北原は受け入れてくれようとしている。芳輝がどれほどに彼を求めているかを知ったからこそ、何も言わず。
その懐の深さに触れられただけで、もういいと思えた。
心は自分のものにならなくても、今の北原は本当の自分を見てくれている、そう感じた。
北原の左足の膝裏を腕で掬い、反応を確認してから貫く。北原の背が、衝撃にしなった。
一体になっている箇所から全身が蕩けて行くかと思うほどの熱だった。誰よりも愛している存在を抱いているからこそ感じる、精神の奥底で感じる悦楽だった。
体調を気遣いながら快楽の在り処を探るうちに、北原の吐息に艶が混ざってゆく。
どんな男でも逃れられない箇所を的確に責めて乱れさせつつ、己の頂点を少しでも引き伸ばそうと、芳輝も奥歯を噛み締める。ソファが軋む音と、ふたりが喘ぐ息遣いと、濡れた肌が縺れる淫靡な響きが部屋を満たし、果てのない愉悦を聴覚からも味わわせる。
汗が伝い落ちる喉元を軽く食んで、舐める。
眉根を寄せながら悶える躯を組み伏せ、腰を捕えて最奥まで満たしてやる。
数度か遣り過ごした悦楽のうねりが大きくなり、今度こそは逃れられそうにないと判断し、一息に北原を導いた。
唐突な昂ぶりに喉を逸らして達した北原の艶態を見極めてから、芳輝も間を置かず彼の中で果てた。
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