3

1/1
237人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

3

 快楽と激情の余韻に魂を抜かれたように芳輝は身動きを忘れていたが、やがて我に返ると、己の下で荒い息を吐いている北原の様子に、あわてて身を起こした。   「北原さん、大丈夫ですか」 「大きな声を出すな」  大袈裟なと云わんばかりに遮った北原は、それきり語尾を切った。  芳輝は自分の身じまいをざっと整えると、湯に浸したタオルを急いで用意した。北原の肌を清めて行きながら己の行動を冷静に振りかえってみれば、その身勝手さに顔も上げられない。  同性の、それも配下の息子に強引に抱かれたという状況が、どれ程のダメージを北原に与えたことか。  恋情は言い訳にはならない。  幼い頃から慈愛をひとかたならず注いでくれた恩人に、父が所属していた組織の長に対し、自分は男としての矜持も在り方も踏みにじる行為を浴びせてしまったのだ。  父ならばこんな性急な抱き方はしなかったであろうに。理性を見失った幼さに、つくづく自己嫌悪が増す。  薄手のブランケットを掛けてやり、自分はソファの脇に両膝を突いて、瞑目している貌を見詰めた。  どれほどの時間が経ったか、重苦しい沈黙がしばらく流れた後に、北原は物憂げに芳輝を見上げた。 「……思い違いをしているようだから、これだけは言っておく。俺は、厚木に抱かれたことはない。一度もな」  愕然とした。父は、北原を抱いていなかったという。  あれほどに狂おしく唇を重ね、互いを抱き締め合い、心だけでない繋がりを示唆していたふたりが最後の一線を越えていなかったなどと、容易には信じられないことだった。 「俺を抱かないのかと、訊ねたことはあったがな。あいつは、出来ないと答えた。俺が大切過ぎて抱けない、とな」  抱かないのか。男の身で、それも組長という立場に在りながらそれを部下に問う行為の重さは、推し量るまでもない。  尋常ならば在り得ない、しかし北原はそうした。  そう出来るほどに父を信頼していた北原の想いに、そしてその好意に易々と乗るような真似をしなかった父の侃さに、芳輝は心底から打ちのめされた。  その事実を言い終えさえすれば充分とばかり、北原は前腕を額に置く。  芳輝は、急いで照明を絞った。 「とにかく、シャワーを浴びて来い。それが終わったらしばらく頭を冷やせ」  芳輝の誤解を批判はしても、行動そのものを咎めているのではないらしい。  物理的な制裁はもとより、絶縁を言い渡されても仕方ないと覚悟していた青年はひどく戸惑った。明かされた父との真相にしろ、抵抗が途中から収まったことにしろ、振り返ってみると北原の反応にはあまりにも謎が多すぎる。  本気でこちらを止めさせる気であれば、真実を真っ先に告げて誤解を解いたろう。それに極道として生きて来た北原の力と腕ならば、いくら若い芳輝でもすぐに跳ね返されたはず。  困惑の中から、芳輝はありのままの疑問を口にした。   「何故、俺にそう云わなかったんですか――俺を殴ってでも止められたはずなのに」 「それでお前の気が済むなら、好きにすればいい……そう思っただけだ」  そういう男だから、奪わずにはいられなかった――何もかも、身体も心も、自分のものにせずには居られなかった。  芳輝は唇をつよく噛んだ。  根も持たず、ただ情に流されているのではない。真摯に求められれば、同じ真摯でもって応えることを知っている男だからこそ。    最後の最後まで自分を犠牲にすることを厭わず、他者のことだけを考える。  それは理性的な思いやりというより、この男が生まれながらに持っている本能と表現すべき性質だった。  組織を率いる際も、損得より部下たちの心を第一に考える。組織は規律ではなく人が作ることを、学ばずして知っている。  これで惹かれない方がおかしいというものだ、表社会の枠からはみ出てしまい、自分の居場所を見つけようと必死に足掻いて来た男たちならば、尚更に。  組員たちが北原の傍から離れず、父と同様に生命を賭するのも当然だったし、規模だけで見ればたかが末端の小さな博徒組織に過ぎない北原組を、江田組の長が強く信頼している理由も充分に伺える。  幼かった頃は、父親が極道であることを怨んだこともあった。憎み、恥じ、周囲に隠したこともあった。息子として愛情はあったものの、複雑なわだかまりは消えなかった。  そんな息子を父は全部受け止め、時には父親として頭ごなしに叱咤し、時には愛情を注いでくれた。  父への激しい反発は己の裡に潜む情念を知ったことで理解に変わり、いつしかその生き方をなぞるようにすらなっていた。魂を擲っても惜しくないほどに信じられるものをひたすらに追う、不器用とも呼べる生き方を。  ただ、同じ偶像に魅せられても、触れずに崇めるか、手に入れて己のものにするかは人による。  厚木は無論、前者だった。自分も父がいなければ、ふたりが深い接吻を交わしているあの光景を見ていなければ、あるいは前者のままで終わっていたかも知れない。  結局、自分はあらゆる意味で、厚木俊宏という男の影響から逃れられないのだろう。  物理的にも、精神的にも。  北原が己を受け入れたその根底にあるのは、思いやりだけではない。相貌や躯に厚木の昔日を重ねている無意識の追憶も、確かに息衝いている。生涯肌を重ねることのついになかった、けれど心はこれ以上ないほどに結び付いていた男の面影を探しているから、拒まなかったに違いないと思った。  自嘲を胸の奥で押し殺しても、その苦さは全身を苛むばかり。  身体を繋いでいた一瞬は、北原の目が自分に注がれているという手応えも感じることが出来た。だが父たちの間に何もなかったと聞いてからは、それも錯覚に過ぎなかったと切なくなる。  先刻の情交は、渇いた人間が砂漠で目にした蜃気楼のようなもの。  掴めると思って手を伸ばしても、永久に自分のものにはならないことを思い知らされるに終わった。  諦めることが出来れば、どれほど楽だろう。  忘れることが出来れば、どれほど救われるだろうか。  けれど叶わないのならば思い切る、そういう潔さは持てない。  誰よりも北原を愛しているからだ。性別も、年齢も、将来も関係なく、生命を奉げられるほどに、ひたすらに。    父の葬儀の当日、灰が納められた箱を委ねた瞬間に歪んだ、北原の悲痛な双眸。それを目にした時から、自分がこの男を護ると決めた。  中途半端な覚悟で、手助けをしたいと言った訳ではない。父の子であり、北原の遣り方は幼い頃からその聡い耳目で見聞きして来た。まだまだ青二才であっても、通常の一般人よりは裏社会の苛烈さを知っているつもりだ。尊敬と栄誉を勝ち取るまともな人生を歩むよりも、両手を血に染めてでも北原を護る道を選びたかった。  黙りこくっている芳輝の耳に、汗を流して来るようにとの、北原の再度の促しが入る。  視線が一瞬重なったが、どちらからともなく解け、空間に消えた。  まだ起き上がれるほどの回復は見せていない北原のブランケットを直した芳輝は、バスルームに去った。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!