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 北原はクッションを枕代わりにすると、天井を仰いで深い溜息を押し出した。  壁の時計はすでに夜の時刻を指している。  芳輝がこの身に指先を掛ける直前まで、まったく想像すらしていなかった展開だった。  よりによって、厚木の命日に、こうなろうとは。  乱闘や抗争で受ける暴力なら慣れている、いくらでも耐えられる。しかし生まれて初めて身体の内部を――それも最も信頼していた者に――侵蝕された痛みは、心のそれと相俟って深い衝撃と混乱を北原に齎していた。  瞼を閉じれば、幼かった芳輝のあどけない笑顔がすぐに浮かぶ。  父親が帰って来るのを待ちくたびれて事務所で眠り込んだ小学生の彼を、抱いて車まで連れて行ってやったこともあった。  誕生日やクリスマスが訪れるたびに、一番に芳輝にプレゼントを用意した。決まった伴侶も、子も持たなかった北原は、無心に懐いてくれる彼が我が子のように愛おしかった。芽吹いたばかりの若樹のようにちいさかった童子が少しずつ背を伸ばし始め、少年期を経て立派な青年になっても、彼は依然として息子のようなものだったし、高校や大学に合格するたびに手離しで喜び、祝いを贈った。  それなのに、いつの間にか芳輝は、ひとりの男としての恋情を己に抱いていた。  “小父さん”と称していた呼び方が、ある年齢から“北原さん”というよそよそしいものになった理由が、やっと判った。  まだまだ学生で、女もろくに知るまいと思っていたのに、思い掛けないほどに強い力で己を組み伏せ、靭やかな躯で抱いて来た。それは子供の所作ではなく、まさに大人の男としての行動であり、交わした抱擁と接吻は対等な肉体を持つ者同士のそれに他ならなかった。  出会った刻から流れた歳月の長さを、実感せずにはいられない。  厚木俊宏という男を喪った、空白の重みも。  遡ること十四年前、江田組組長直々の口利きにより、北原は木場組の残党参入を承諾した。  運命は偶然から成り立っているのではなく、必然のみを用意しているのだと、今にして思う。  木場組は隣県にシマを有していた同系組織で、北原も、初代と何度も顔を合わせたことがあった。北原の父と同じく児島道三の気に入りで、武闘派として裏社会で名を売っていたが、老いが進むにつれて持病が悪化し、ために存命時から一代限りの身代と引退を強く希望していた。彼が若衆頭と共に偶然の交通事故で命を落とした際に、組の存続が論議されたのはそれが理由である。  児島は木場組の廃業を認め、組員たちには北原組への合流を勧めた。  異例とも呼べる差配だったが、どちらも数十人規模の小さな組織で、合併しても周囲の勢力地図を刺激することはないとの判断が下されたのだった。  父の死後に組を継いでいた二十九歳の北原に児島は直々に電話を掛けて来て、若頭補佐の厚木以下十五名を引き受けてやってくれと告げた。児島の親分がそこまで言うならば間違いはあるまいと北原は了解し、そして、厚木たちが来た。  この男ならば信用できる。  初めて目を合わせた瞬間からそう確信した。  始終横槍を入れて来る敵に狙われて自身に万一のことがあろうとも、彼に後を任せられると安心した。厚木も自分に忠誠を誓い、どんな困難に直面しようと決して裏切ることはなかった。経営面にも駆け引きにも長けた男は北原組の地盤固めに寄与し、万事において揺るぎない手腕を見せた。  堅い信頼が、篤い忠義が、それ以上の深みに進んだのがいつなのかは判らない。  見詰められる眼差しの奥に在るものに気が付いた時、北原もまた己の奥に在るものを悟った。  厭悪はなかった。逡巡もなかった。  自身の性向に順じてはいない情動と百も承知で、それでも不自然とは考えなかった。  求められるままに唇を与え、吐息を奪い合った。一度ならず、幾度も。  芳輝が偶然目にしたと言ったあの場は、その機会をさほど重ねていなかった頃のものだ。  紫煙の薫りが濃く漂う口付け、力強い腕が己を引き寄せる抱擁。  顔が離れる度に、厚木の瞳はこの上ない強さで北原を捕えた。  一度だけ、何故抱かないのかと、訊ねた。  厚木が語った理由は、単純だった。  ――貴方が大切過ぎて、抱けない。欲しくないわけではない、むしろ喉から手が出るほど欲しくてたまらない。だが、だからこそ抱けない――  彼にだけは、すべてを与えても良いと思っていたのに。身体的な欲望を積極的に感じていた訳ではないが、求められれば応えられる感情の丈は、確かに有していた。  それなのに厚木は死んだ。真っ赤な鮮血を吐いて、この腕の中で息を引き取った。  貴方を護ると、生涯傍を離れないと誓っておきながら、ひとり北原を置いて。  目を固く瞑った。  整いすぎるほど整った死顔。北原を幾度も求めた唇を禍々しい朱が染め、顎まで伝い落ちていた、あの情景が蘇る。  二年前も今日のように雪が降り、街路も建家も白銀で覆われていた。 ※ ※ ※  仕事を追えて事務所に戻った組員たちに、世間はクリスマスイブだし早く帰れと声を掛けていた夜、壁際に佇んでいた厚木の顔色が突然蒼白になり、物も言わず部屋を出て行こうとした。  しかし間に合わずに膝から頽れると、そのまま大量の血を吐いたのだ。  心臓が止まるほど驚愕した北原は夢中で駆け寄り、厚木を抱き止めた。どちらのスーツも、シャツも、夥しい血に濡れた。  救急車を呼べと怒鳴る間にも肌に染み透ってゆく血の温かさは、そのまま厚木の生命でもあった。死の確実な匂いを嗅ぎ取った北原は、流れ出して行く一方のそれを喰いとめることも為せず、ただ、死ぬなと何度も繰り返すしかなかった。   『救急車がもうすぐ来る、しっかりしろ、厚木』    自制を忘れて叫んでも、力を喪った厚木の眸はわずかに微笑んだだけだった。  もう駄目なのだと、自分でも判っていると、その視線が雄弁に物語っていた。  曳かれ行く生命を繋ぎとめようと足掻くこともせず、刻が来れば潔く死を受容すると早くから決めていたと知れる、表情だった。  蒼ざめる北原の貌を、万感の想いを籠めた眼差しでもう一度見詰めた後に、厚木は目を閉じた。  呆然としていた組員たちが号泣する中、北原はただ、物言わぬ身体を抱き締めていた。  直後に到着した救急隊員が蘇生措置を試み、病院にも送られたが、搬送先の医師によって死亡が確認されたに終わった。  厚木が運ばれて行く際、付き添った自分の手から落ちた雫が雪を染めたのを、今でも覚えている。
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