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「北原さん!」  声を荒らげて肩を掴む芳輝の動きを、北原は眼差しで縫い止めた。 「お前はな、芳輝。俺と厚木の、夢だった」 「貴方と、親父の?」 「そうだ。世の中って奴は、まともに学校を出ていなけりゃ、まともな世界には入れないように出来ている。それが当たり前と知ってはいても、俺は何度も悔しい思いをしたもんだ。親父がこの稼業をしていたからというのもあって、結局ははみ出し者になっちまったがな……だが、お前は小さい頃から頭が良かった。俺たちと違って、もしかしたらまっとうな道に進めるかも知れない。そう思って、厚木はお前を厳しく教育したんだ」  息をひとつ吸い、深々と吐くと、北原は続けた。 「自分に出来なかったことを息子にさせようなんざ、虫のいい話だが……それでも夢を見たかったんだ、俺も厚木も。お前は弱音を吐かなかったが、極道の親父を持っているせいで、学校で肩身の狭い思いをしていたのは知っている。だからこそ厚木は余計に、胸を張って生きられる経歴をお前に与えてやろうとしたんだろう」  芳輝のことを厚木と話題にするたびに、互いが感じていること、望んでいることは同一であるのが、何気ない言い回しや語調から明瞭に伝わって来たものだ。  その場かぎりの口当たりの良い説得でも、ましてや嘘でもない。  北原は、厚木の思いを代弁しているに過ぎなかった。 「お前は俺たちの期待以上に立派になって、法曹資格を持てるってところまで来た。ヤクザなんてものと綺麗に手を切れるチャンスが来たんだ、このまま組のことは忘れろ――お前の心を考えてない訳じゃない、親のエゴに過ぎないのも判っている、それでも、頼む。お前だけはまっとうな人間になってくれ。お前を俺の組に引きずり込んだら、俺はあの世で厚木に合わせる顔がない」  芳輝は世間を知らない。暴力と闇に支配された裏社会がどれほどに危険で醜く、おぞましい世界であるか想像も付くまい。だからこそ安易に組の仕事をしたいなどと言えるのだ、と北原は思う。  誰にも軽蔑されることのない場所をようやく歩かせてやれるようになったというのに、どうして後ろ暗い世界に引き戻せよう。  自分たちは、社会の底辺で法律の目こぼしを貰って生きるしかない。だが芳輝は頭脳で生計を立てることが可能なのだ。なおさら傍に近づけてはならない。  芳輝は驚きを隠さず聞いていたが、噛んで含めるように、一語一語を丁寧に綴った北原の言葉が懇願で締め括られると、今にも泣き出しそうな子供の如く、顔中を歪めた。 「忘れたりなんかできない。北原さんから離れて弁護士になったって意味がない。俺のことを好きになってくれなくてもいいんだ。ただ、傍に居たいだけなのに……」  嫌だ、と嗚咽に詰まった声で何度も繰り返した芳輝は、横に座るなり肩に顔を埋める。  柔らかな茶色に染められている癖のない髪を、北原は優しく梳いてやった。  ワイシャツ越しにまざまざと伝わる涙と息遣いの温かさや、口惜しそうに震える頬に、彼に対する愛おしさが増さった。  身体は大人になっても、やはり芳輝は芳輝であり、北原に取ってはちいさな子供だった。  生涯でただ一人、親友とも腹心とも遇した男の一人息子であり、実の血縁にも等しいほどに可愛くてならない存在だった。  だから、倖せになって欲しいと思う。心から。  この稼業では女を幸せにはしてやれないからと、あえて結婚もしなかった自分の分も含めて、温かい家庭を営み、笑顔に満ちた人生を送って欲しかった。  明日の食に困らず、明日の生命を憂うことなく、愛する者たちに囲まれて過ごす平凡な生き方こそが、人がもっとも気付きにくい、けれどもっとも幸福な道のひとつであることを、北原は過去に嫌というほど思い知らされてきたからだ。 「働くようになって五年も経てば、気が変わるさ。今時の若い女はみんな綺麗だからな、いつかは惚れた女も出来るだろう」 「出来ない。北原さんの他には、誰も好きになれない。五年なんかで、俺の気は簡単に変わったりしない」 「………」 「五年、待って下さい。その間、俺は弁護士になって修行して来ます。五年後も俺の気が変わっていないと判ったら、組の仕事を助けるのを許して下さい」  青年の気持ちの移ろいやすさは、ふとしたきっかけで幾らでも変容するもの。  老いへと進む者にとっての五年は単調で短いが、変化に富んだ若者の五年は恐らく、その気紛れな焔を他の方向へと霧散させることだろうし、北原自身、どこかの鉄砲玉に狙われて命を落とさないとも限らない。  先のことなど誰にも判らないというのに、五年後を固く信じて疑わない芳輝の若い一途さが北原には不憫でもあり、いとおしくもあった。  頭を撫でるたび漂う洗髪料の芳香を味わいながら、宥めた。 「先の約束はするなと言ったはずだ。俺も、約束はしない。実際に五年経ってから、どうするか考えろ」 「北原さん……」 「お前は、俺の息子も同じだ。厚木の分も、お前に何かしてやれればと思っている――修行に出て、困ったことがあれば言って来い。俺に出来ることなんて限られてるが、力になれるかも知れん」  芳輝が求めている言葉とは違うと百も承知で、偽りのない思いを述べると、こちらの背に回された腕の力が強まった。  咳き上げる激情を堪えるかのように、何度も深呼吸が繰り返される気配。  やがて襟足に熱いくちびるが押し当てられ、執拗に肌を辿り、刻印を残したのを感じた。 「五年でも、十年でも、俺は待ちます……俺のことを貴方が信じてくれるまで。俺の気が変わると断言したことを、いつか後悔させてやりますから」  顎を上げて真っ直ぐこちらを見据える眸の力に、北原の眸もまた止まった。  再び仕掛けられる口付けに、目を閉じる。柔らかい舌先が、口腔内を容赦なく満たす。  形にしても伝わらない感情の全てを、北原の身体に直接刻んで残そうとするかのような烈しさに、後悔させてやると宣言したその情熱が現れていた。  ――後悔するのは、確かに自分かも知れない。芳輝が子供だからと斜に構えているうちに、足下を掬われることになるのかも知れない。先が判らないのは、自分に関しても同じことだ。  ふと過ぎった思考の欠片が、心の水面に落ちた。  否定し、鎮めようとしても、波紋が徐々に広がってゆくように、いつまでも経っても消えない。  その予感の強さは、厚木と出会った時に悟ったそれと同一であることに北原は気付いたが、ざわめく戦慄をひたすらに押し隠した。  自分が見ているのは所詮、淡雪のようにはかなく落ちて行くだけの、一幕。  夜が明ければ、こんな波紋は跡形もなく消滅するに決まっている。二年前に逝った男がこの世に遺した似姿と追憶に、惑わされているだけに違いない。  北原は自らに繰り返しそう言い聞かせながら、芳輝を抱く掌に力を籠めた。 ―Fin―
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