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関東では積雪のおそれありと繰り返し流れる報道通り、東海地方に属するこの小さな街にも粉雪が舞っていた。
師走も押し迫った、二十四日。
世間ではクリスマスイブと呼ばれるその日に、とある家で法要が営まれた。
かつて家主だった男の三回忌である。
しかし住宅街の中に存在するにもかかわらず、近所の主婦たちが手伝いに訪れることもなければ、多数の縁戚たちが並ぶこともなく、集ったのはダークスーツを纏った数人の男のみだった。故人は、極道社会に属する人間だったからだ。
故人の妻は二十年以上前に亡くなっていたため、大学四年生になる一人息子が法事を切り盛りし、夕刻前には滞りなく終了した。参列していた客たちは挨拶を残して家を後にしたが、ひとりだけは、和室の位牌を凝視したまま、設けられた座から動かなかった。故人が親と仰いで十二年を共にした北原組三代目組長、北原佑介だった。
「ありがとうございました、北原さん。お忙しいのに、ここまで来ていただいて」
客を見送って引き返し、折目正しく頭を下げた細身の青年に、北原は口角を持ち上げて答えた。
「厚木の三回忌なんだ、俺たちが来るのは当たり前だ。気にするな」
「………」
「あの時はお前もまだ大学二年だったな、芳輝(よしき)。早いもんだ」
青年は無言のまま、父の遺影に視線を遣った。
故人の名は、厚木俊宏。
北原組の若頭として、三代目の懐刀として敵対組織から恐れられたが、二年前に病で倒れて亡くなった。文字通りその生涯を組と北原に捧げ尽くした男だった。
芳輝は都内の大学に通っており、父の死に目には間に合わなかったが、天涯孤独の身になっても自制心を失うことなく葬儀の喪主を務め、それ以降も、無人となった実家を一人で維持し続けていた。学生生活が忙しく、節目に行う法事の時にしか帰省できなくとも、『若いのによくやっている』というのが北原をはじめとする組幹部たちの総意だ。
北原に向き直ってしばし逡巡した後に、芳輝は口を開いた。
「酒を用意しますから、あちらの方においでになりませんか」
「親父の前ではまだ酒が飲めないか」
縁戚の子供を嗜めるような口調で微笑んだ北原に、芳輝は『そういう訳ではありませんが』と目を伏せて答え、空気を断ち切るように立ち上がる。そこまで言うなら仕方がないという風に北原も腰を上げ、先に廊下に出た。自分と同等の背丈ながらはるかに逞しく、壮年ならではの自信と魅力に満ちている背を喰い入るような目線で追った芳輝は、和室を去る間際に遺影を振り返った。
凛とした眉に、通った鼻筋、意志の強さを滲ませた端整な相貌。
白黒写真に写っている眼差しは、裏社会に生きた人間にしては理知が勝り過ぎた表情を湛えている。
周囲からは父親に瓜二つと昔からよく言われる。けれど芳輝自身はそれに納得したことはない。容姿はともかく、父とは思考の方向性や性格が全く違うと以前より感じていたからだ。ある事柄に対する姿勢が父と正反対であると知った時、それは確信となった。
――そう、自分は父ではない。父とは違う。だから……
胸の内で呟いた時、遺影の眼差しに己の奥底まで見透かされたように思い、芳輝は顔を逸らした。
※ ※ ※
夕暮れに伴いカーテンも閉められた十畳の洋間で、北原が革張りの大型ソファに座って寛いでいた。彼にしてみれば何度も訪れたことのある、勝手知ったる他人の家なのである。
その滞在の理由が他組織に狙われて組事務所に戻れなかったり、追っ手を撒くためのものだったと芳輝が知ったのは、高校生になってからだった。
芳輝がキッチンから洋酒と氷、グラスを整えた盆を持って来てローテーブルに乗せると、後は自分でやるからと北原は気軽に言って、実際にブランデーの蓋を自分で開けた。仕方なく芳輝も向かいのソファに腰を下ろし、骨太の手がグラスを取り上げるのを眺めた。自分は酒を好まないため、素面のままだ。
「大学を卒業したら、司法試験を受けるんだろう?」
「………」
「合格すれば、お前もいよいよ弁護士か検事か。早いもんだな、ついこの間まで小学生だったと思っていたのに。俺が年を取るわけだ」
北原はブランデーを呷ってから、後頭部に掌をやった。親しい者と話している時に出るその仕草は、四十三歳という年齢のわりに子供っぽい。昔から北原はそうだった。
厚木俊宏は二十歳からこの世界に入り、広域指定暴力団江田組の傘下組織に当たる木場組初代の杯を受けた。
だが九年後に、組長が若頭と共に不慮の交通事故で亡くなってしまった。
若頭補佐だった厚木が組の存続に迷っていると、江田組四代目児島道三の口利きで、同じ傘下組織である北原組に移籍を勧められたのである。八歳になる息子の芳輝と組員十五名を連れて事務所に現れた厚木を、北原は多くを言わずに受け入れた。
『坊や、親父さんと一緒に俺のところに来るか?』
北原に手招きされ、素直に膝に乗った芳輝は、そう訊ねられた。
父と話している時の真剣な表情ががらりと変わって優しいものになったことに、芳輝は随分と驚いたが、うなずいた。温かみのある人格が、幼心にも伝わったからだ。
厚木と同い年、同じ稼業である上に、身体つきも父よりずっと大柄で威圧感があるはずなのに、北原の雰囲気は他人の警戒を解かせる明るさに満ちていた。
父はごく寡黙な男で、息子の自分でさえどこか近寄り難さを感じていただけに、その対照は強く芳輝の中に残り、以来、組長である北原を『小父さん』と呼んで懐いたし、彼も芳輝を大切にしてくれた。厚木が居なくなってからも、北原から公私に渡って細やかな援助が与えられたほどに。
「テストが悪くて、親父に怒られるってお前が落ち込んでいたのも、ついこの前の話としか思えないのにな。ちゃんとここまで独り立ち出来るようになって、厚木も安心しているだろう」
「世間を知らない俺がどうにかやって来れたのも、北原さんのお陰です」
「おいおい、俺は何もしちゃいないぞ。礼は大学まで行かせてくれた親父に言え」
「……そのことですが」
芳輝は相手を真正面から捕えた。
低い声の震えに北原はグラスを止め、訝しそうに首を傾げる。芳輝は、自制の拳を握り締めた。
五十人程度の構成人員といえども、一個の暴力団に変わりはない。そんな組織を率いる男にしては、彼は身内に対して隙がありすぎる。心をさらけ出し過ぎる。煽っているのかと、問い詰めたくなるほどに。それが単なる思い込みでないのは、父の行動で証明済みだ。
北原のおおらかな隙は、自分が幼いころは親近感に結び付いた。だが今は――違う。
拳をもう一度握った。ある決意を口にする緊張に、心臓が胸郭を激しく打つ。テーブルを挟んでいる北原にまで、その鼓動が聞こえてしまいそうだ。
父が亡くなった折に密かに固め、今まで温めて来たその言葉を、芳輝は一気に綴った。
「俺は試験に合格したら、弁護士になるつもりです……そしたら俺を、北原組で働かせてもらえませんか」
「何だと」
愕然と目を見開いた北原は芳輝をまじまじと見詰めると、言下に拒んだ。
「頭でもおかしくなったんじゃないのか、駄目だ」
「何故です」
「何故か、だと? なんのために厚木がお前を大学まで遣ったと思っている、お前だけは堅気にさせたいからと願ったからだ、あいつのその親心が判らんというのか」
「判っています、でも無理なんです」
「どこが無理だっていうんだ、俺は許さん、絶対に許さんぞ! お前はヤクザなんかには縁のないちゃんとした弁護士になれ!」
業を煮やした芳輝が席を立って北原の隣に回り込み、口早な応酬が途切れる。
こうまで頭ごなしに阻まれるのは想定外の話で、苛立ちが抑えられない。芳輝は努めて冷静さを保ちながら詰め寄った。
「どうして駄目なんですか」
「言ったろう、厚木はお前がまっとうな職に就くのを何より楽しみにしていたんだ、それを俺が裏切れるか。俺だってお前が立派な堅気になってくれりゃ、何も言うことはないんだ」
激昂した北原が言い終えるのを待たず、芳輝は彼の肩を乱暴に掴んで押し倒した。
テーブルに身体がぶつかり、グラスが倒れる音が高く響く。体格は向こうの方が上でも、青年盛りの体力と年齢差に不意を衝かれた北原はあっけなくソファに崩れた。
「俺はいつまで経っても子供ですか、貴方にとっては厚木俊宏って男の息子でしかないんですか!」
「芳輝!?」
「俺だって親父の望みは判ってます、でも俺は人形じゃない、俺にだって意志がある、心があるんだ! 親父の心はそこまで気遣うくせに、どうして俺の心は無視するんですか!?」
北原に伸し掛かりながら一息に叫ぶと、無我夢中で唇を押しつける。
顎を逸らし、肩ごと引き離そうとする激しい抵抗を、若い情熱が上回った。両の掌ですばやく頬を捕らえて接吻すると、口元を咬まれた。苦い血の味が走ったが、芳輝は止めなかった。さらに舌を捩じ込んで北原の口腔内を嬲り、幾度も追い上げる。
顔を離し、荒い息を吐いている北原を間近に見下ろした。
僅かに赤らんだ頬、濡れた唇。
その相貌に嫌悪はなく、官能の高揚さえ読み取れる。男にこうして愛される経験を経ていることを、見るものに知らしめる表情。
「慣れてますよね。親父だって、同じことしてたんだから」
「………!」
何か言い掛けた唇を、襟足をたどる指先の動きで封じた。
通常なら即座に殴られているだろうが、そうはならないと芳輝は踏んでいた。
――自分が、父親の子供だからだ。
そう思うと、嫉妬で胸が焼け付きそうになる。抑えるはずだった熱が止め処なく噴き出し、行き場を求めているのを感じながら、北原のネクタイに手を掛けた。
北原の有する隙は、庇い護ってやるよりも、踏み躙りたくなってしまう。
その隙に自分の存在のみを隈なく埋め、心も身体も己のものにして、他者から隔絶したくなる。
淵よりも昏い欲望を充分把握していたからこそ抑えていたのに、北原の言葉ひとつで全ては覆った。理性の壁が崩壊した以上、その先に進むより道はない。
「……考え直せ、芳輝。気の迷いだ。どうかしている」
喪を装ったダークスーツの上着を落とされ、ワイシャツをはだけられても、北原は譫言のように呟いた。今の状況を、冗談か気紛れとでも捉えているらしかったが、しかし青年は一蹴した。
「迷いじゃない。貴方が好きなんだ」
「馬鹿を言え、俺は男で、しかもお前の親父と同い歳だぞ」
「どうでもいい」
「芳輝」
「離れたくない」
貴方の傍にずっと居たいんだ。
そう囁いた瞬間、北原の面差しが変わり、最後までわだかまっていた抗いの仕草が完全に消えた。
陽に当たった氷のように頑なさを突然融いた北原の態度は、何かを完全に諦めたようにも映った。
本当は、疾うに理解していた。どんなに焦がれても、父には敵わないことを。父と北原が共有した刻に勝てはしないことを。
こうして躯を抱いたところで、心は手に入らない。
それでも、この男が欲しかった。陽の当たる道を棄ててまで傍に居たいと思い詰めるほどの想いを、片鱗でもいい、判ってほしかった。
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