仔Larrivee救出作戦

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 その日、出会ってしまったのは偶然じゃないのかもしれない。何かに導かれるように、僕は、そのギターショップに足を踏み入れたのだ。  こうしてギターショップに入るのも本当に久しぶりだった。大学時代は音楽サークルで弾き語りなどの活動をしていたのだが、社会人になってからはすっかり止めてしまっていたのだ。  日々が仕事を中心に慌ただしく過ぎていく中で、何か物足りない、大事なことを置き去りにしているような思いを抱えていたのは確かだ。  でも、ギターを弾きたい、なんて思ったのは何故だろう。特に理由もない、ほんの気まぐれ程度の思いつき。そんな程度だった。  なのに――  思った以上に、記憶の中の忘れていた深い部分を揺さぶったようで、ここ何日かはずっと頭の片隅を離れない。想いに引きずられるように、ここに来てしまったような気がする。  真っ先に目に入った店内のショーケースには、たくさんのアコースティックギター達が飾られていた。思わず懐かしい感覚がよみがえる。学生の頃は、手の届かない高根の花のギターを、こうしてショーケースのガラス越しに眺めていたっけ。  今でも、そうした高根の花たちは僕を見下ろしている。ショーケースの一番目立つ真ん中で。  そして――どうして目に入ったんだろう。目立つ場所ではない。照明もまともに届いていない隅っこの方に、ひっそりと居た。壁に並んだギターの中に一目でそれととわかる一本があったのだ。  ああ、それは忘れもしない「Larrivee」の文字。これは、あのギターと同じなんだ。  音楽活動を止めてしまったのは、お気に入りだったギターを手放してしまったのも理由の一つだった。それはLarriveeという、当時は新興の、知る人ぞ知るメーカーの美しいギターだったのだ。  その、同じロゴのデザインを、そこに見た。忘れていた、この感覚。  ――出会ってしまった。  ギターを弾きたい、と言っても対外的な活動をしようとかではなく、単に部屋で気軽に弾きたい、くらいの気持ちである。だから、小振りなギターがいい。どうせなら、大学時代の持っていたLarriveeのギターがいい――そう思っていた。  調べてみると、Larriveeというメーカーは今も存続していて、僕が持っていたのと同じような美しいデザインのギターを作っていた。ただ、目を引いたのは、装飾は簡素で、大きさは標準サイズと比較して全ての面で1インチ小さい、「L-LITE」というモデルだった。  これいいな、と思った。今の気分にピッタリに思えた。でも――L-LITEはすでに、数年前に生産中止になっていたのである。  結局、こういうのってタイミングなんだろうな、と思ったのだけれど。  それが、あった。目の前に。飾り気のない、小振りな、可愛いヤツだ。「仔Larrivee」とでも呼びたくなるような。近づいてみる。値札に記されたモデル名はまさしくその「L-Lite」だった。  普段はあまり行かない場所のギターショップである。たまたまこちら方面に用事ができたこともあり、ついでに寄ってみるか、と軽い気持ちだったのだ。  こういう時の不意打ちって強烈だ。でも、こうも簡単に出会えるものなのか?  単なる偶然なんだけれど、どうしてもそうとは思えない時がある。いわゆる一目惚れと云う――そう。本当に、こういうのを探していたんだ。  自分では単なる思いつきだと思っていても、時に運命の女神様なのか悪魔なのかは知らないけれど、そういう類の存在が素敵ないたずらを演出することがあるような気がする。罠にかかった獲物がもがくのを楽しむかのように。  さて、どうする?  このギターショップは中古楽器屋ではないのでそれは新品のはずだ。だが、数年前に生産完了になったギターがなぜ今ここに? どこかの死蔵品を最近仕入れたのか?  店内の照明に長年照らされ続けると、ギターの表板は軽く焼け、人工象牙素材のサドルとナットにも素材特有の変色が現れる。眼前のL-Liteにはそういう症状が見受けられた。こいつも長年ここに飾られているのだと確信した。だとすると製造中止時期からとしてもその期間は短く見積もって5年か。  お前、そんなに長い間ずっとここにいるのか――。  頭の中が真っ白になりつつあった。幸い、用事で時間もなかったのですぐその場を脱出して事無きを得た。あぶないあぶない。冷静にならなきゃ!  家に帰って考える。思い描いていたイメージそのもののようなギターにいきなり出会うなんて、どう考えても出来過ぎである。待ってました、とばかり不用意に喰いつくのも悔しいし、だいいち――現実的な話をすると、とても高価な品なのである。定価は、1カ月分の給料の手取りを丸ごと持っていかれるくらいの。気まぐれな思いつきに従っておいそれと手を出していいわけはない。  でも、知っている。こういう「思いつき」って、実は馬鹿にならないのだと。きっと、その必要があるから思いついたんだ。うまく説明は出来ないけれど、無視してはいけない啓示である可能性が高い。  ではどうするか。  分割払いとかの手を使えばなんとかならないこともない。もちろん、しばらくは耐乏生活を覚悟しなければならないが。その覚悟はあるのか? そうまでして手に入れなければならないのか? と――  悔しいが認める。なんだかもう、「買わない」という選択肢は消滅しかかっているのだ。あの仔Larrivee、きっと僕に救出されるのを待っているんだろうなぁ。  翌週――。  再び、あのギターショップの前に立つ。魔王の砦に攻め入る気分である。  作戦は固まった。前回不意打ちを喰らった時はちゃんと確認しなかったが値札の値段は憶えている。定価に近い表示だった。強気である。攻防ラインは「3割引」と決めた。そこが予算ギリギリのラインなのだ。厳しい戦いになる、と読んでいた。大事なことを忘れそうだ。値段もそうだがまず状態も確認しないと。  危険なのは背後からの「良かったら弾いてみませんか」攻撃だな。それと物欲しそうな印象を与えてはいけないぞ。と、慎重に店内に侵入する。  すると――  「売れた」なんて事態は想像もしていなかった。なのに、無いのである。  ショーケースの中の、先週確かにあった場所から仔Larriveeの姿が消えているのだ。これはショックだ。どういうことだ? この一週間の間に売れてしまったのか。  でも、これはこれで良かったのかな? と、複雑な気分になる。強烈な脱力感に襲われ、引き返そうとして何気なく足元に目をやると――  店内は床にもギタースタンドに立てられたギター達が多数並べられているのだが、なんと、その中に仔Larriveeがいるではないか! どうやら陳列配置が変わっていたのだ。  おぉ。てっきり売れたと思った直後のどんでん返し。思わず駆け寄った。前回はちゃんと見る暇がなかったので今度はじっくり確認することにする。仔Larrivee、いやL-Lite。その形はまぎれもなく記憶の中の「Larrivee」。だが、確かに小さい。装飾の類はほとんどなく、つや消しの塗装とも相まって全く素っ気無い印象を受ける。地味だ。しかし、そこが逆にいいかも。外観は目立つ傷もなくきれい。状態も見た感じは問題なさそうで――。  と、そこに背後からの声が 「良かったら弾いてみませんか?」 ――しまった!  配置を変えて動揺を誘う、という予期せぬ罠にまんまとはまり、背後の注意がおろそかになっていたようだ。なんとか冷静を装って振り返ると、そこには穏やかな笑みを浮かべて男の店員が立っていた。僕がL-Liteに見入っている一部始終を観察してタイミングを計っていたに違いない。逃げ道を与えないその絶妙のポジション――こ、こやつできる! 「そう、ですね……」  まずは体勢を立て直そうと曖昧な返事を口にする。そこへ間髪いれず 「ではチューニング合わせて来ますのでそこの席でお待ちください」と素早くL-Liteを取り上げてその場から持ち去ってしまった。その店員、かなり丸い体型からは予測不能なほどの早業である。呆然と立ちすくむ僕――。  出鼻をくじかれた格好だが、戦いは始まったのだ。  まずは一番大事なポイント。音はどうなのか。心を落ち着けて待っていると程なくチューニングが完了したL-Liteが戻ってきた。 「どうぞ」と、ギターを手渡された。  手にとる。軽い。爪弾いてみる。 「!」  こういう感じがいいな、と思っていた、ほぼイメージ通りの音色。これは文句なく素晴らしい。これで戦線撤退可能な最終ラインは踏み越えたようだ。いよいよこの仔Larriveeを連れて帰るための戦闘を開始しなければならない。  ところがここでも店員の先制攻撃。僕の試奏中、あ、いきなり電卓を取り出して――何を計算しているんだ? まだ何も言ってないぞ。 「この値段でいかがでしょう?」 電卓に表示された数字はちょっと意外なものだった。 「ぉ!」 面喰う僕に向かって店員は言う 「展示期間が長いので、処分価格ということで」  この店の性格上、通常商品が破壊価格になることは考えにくい。それを考慮した上での攻防ラインだったのだが、提示された価格はすでに「3割引」を大きくクリアしていた。なるほど――読めた!  壁から床に降ろされたのは処分品に降格したためだった。言わば「育ちすぎた子犬」はもう、まともな値段では売れないのだ。聞くと、予想に違わず、5年間店頭に飾られていたのだそうだ。  ――それにしてもよく今まで処分しなかったものだ。まるで僕が今日買いに来るのを予測していたかのようなタイミング。やっぱり、あり得ない。  完全に気勢を削がれていた。あれだけ事前に作戦を考えたのに、現れた敵はいきなり白旗を上げてきたのだ。嬉しいんだけれど、なんだか悔しい。 「えーと、このカード持ってるんだけど」 ここで僕はおもむろに切り札を出す。事前にこの店のホームページは調査済みだ。提示すれば更に割引きになると謳っている親会社系カードを僕は持っていた。まぁ、通常価格での話だとは思うけれど、先に値段提示してきたのは店側だし。  一瞬たじろぐ店員。明らかに想定外の攻撃だったに違いない。が、カードの優待特権は意外と強いらしく、再び電卓を叩くと 「では、これでいかがでしょう? 目いっぱいです」と、再び数字を見せる。  最初の提示もすでに採算ラインぎりぎりだったのだろう。再提示額は先ほどからほんの「気持ち」という程度だけ、安くなっていた。  終戦ムードが漂う。これ以上値段交渉の余地はないと判断し、僕はその再提示額に同意し、売買契約が成立した。店員の表情がふっと緩む――。  だが、ここで最後の一押し。些細な疑問を聞いてみる。 「ハードケースも付くんですね?」  値札には明確に「ハードケース付属」と書いてあった。それを確認した店員は「えぇ、もちろんです」と即答。本当かなぁ。僕はL-Liteに付属するのがハードケースではなくギグバック(ソフトケース)であることも調査済みで――。  別に意地悪するつもりは毛頭なかった。僕の調査が誤りで実はハードケースが正解ということもある。嘘偽りが記載されているはずないし。 「申し訳ありません。これは間違いで付属はソフトケースでした」  倉庫を探してきた店員はそう言って頭を下げた。いや、それなら別にいいけど、と思っていると 「ですが、こうして書いてある以上はハードケース付けます」と、店員は言う。  ――なんと! 「もちろん、元々のソフトケースも当然付属します」  結局、オリジナルのギグバックの他にハードケース、更には新品の弦まで付けてもらった。大勝利と言っても過言ではない。  こうして僕は想定以下の最小ダメージで仔Larriveeを見事救出したのである!  でも、ちょっと待て。そもそも「買った」こと自体が敗北にならないのか? 店側からすれば5年越しの不良在庫が掃けたことでもあるし。  ――  何はともあれ我が家にやってきた仔LarriveeのL-Lite。その音色は素晴らしく、夜、ソファに沈み込んでポロポロと弾いていると、なんともいえない至福の音色に包まれて行く。まるで麻薬だ。いつまでも手放せずにそのまま一瞬眠りに落ちてしまうこともある程である。  そして――  「気まぐれな思いつき」は、単なる思いつきではなく、僕自身が知らずに忘れてしまっていた、とても大切なことだったと気付いた。その後、僕は再び弾き語り活動を再開して、今日に至っている。このギターと出会わなければ、きっと描かれなかった未来だ。  あの日、あのギターショップに足を踏み入れたこと――僕にとってそれは間違いなく分岐点だった。  たとえ見た目がそれとわからなくても、異世界への扉があの時開いたのである。 <完>
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