138人が本棚に入れています
本棚に追加
3月1日付で総務課資産管理係に異動になった美智だが、後任の初瀬に仕事を教えるよう命じられていた。会計を知らない彼に期末の経理を教えるのは、美智の手で決算を〆るということだ。会社を休むためには、代わって経理課の内藤希美にスーパーウーマンのように働いてもらうしかない。
だが、彼女に仕事を頼むのは抵抗があった。希美が監査役の片桐瑞穂に『美智さんが、自宅で何をしているのかは、間もなく分かると思います』と報告していたからだ。それを知ったのは、会長が導入した盗聴システムによってだった。管理職や営業、現場監督に貸与してあるモバイル端末は音声を感知すると自動的に録音し、データをクラウドに送っている。クラウドに集積されたデータを確認し、会社の経営、とくに社長の地位を脅かしかねない問題が記録されていた時、会長に報告するのが美智に与えられた特命だった。そのシステムが、希美と瑞穂の会話を明瞭に記録していたのだ。
希美に対する不快な感情があるとはいえ、そのために法律に定められている決算をないがしろにすることはできない。期限内に決算を終えるためには、希美に頼るほかの選択肢がなかった。会社に電話を入れ、上司の二宮聡史にインフルエンザで数日間休まなければならないと報告した後、希美に電話を代わってもらうと、自分の分まで作業をしてほしいと頼んだ。
『初瀬さんに指導しながら……、となると……』
希美は不安を口にして躊躇った。決算という仕事の責任の重さと、素人への指導という難しさがそう言わせていると分かる。
「初瀬さんには後で私が教えるから、作業を進めておいて。頼むわね」
命じるように言って電話を切った。そうしてから、嫌な言い方をしてしまったと、自己嫌悪を覚えた。
最初のコメントを投稿しよう!