〜母親と私の壮絶な過去〜

1/1
前へ
/58ページ
次へ

〜母親と私の壮絶な過去〜

 私が保育園に通っていた頃のこと。母は約1年にわたり、外村とのむらという反社会的勢力の構成員からのストーカー被害に遭っていた。 私がお父さんのような人がいたという、背中一面に入れ墨が入っている人だった。 あれから一緒には暮らさなくなりストーカーとなっていたのだ。 外村は、母の元彼にあたることのだが、母が関係が順調だったときのことが思い出せないというくらい、母は彼に苦しめられたと語っている。いくつかのできごとはトラウマになっているのか、母は今でも多くを語ろうとしない。  母は意を決してストーカー被害を相談しに警察に向かおうとした。母は幼い私をどう守るべきかひたすら考えたという。誰かのアドバイスもあり、「ストーカー相手の身内に預ければ、さすがに手を出してこないだろう」という結論に至る。 一般的な人な考えならば 《何故ストーカー相手の身内に娘を預ける!?》 と、思うだろう、実はストーカー相手のご両親はその息子のストーカーについて私の母親にいつも申し訳なさそうに庇ってくれていたのだ。 そして、当時母親は誰一人として信頼できる人間が居なかったのだ。 私は振り返り思う 〝母親は私を守ることだけをひたすら必死に必死にと、考えて頭は混乱状態だったのだ〟と。 母親「お世話になります。少しの間よろしくお願いします。」 叔父さん「こんばんは!」 私「……。」 人見知りな私はモジモジして母親の後ろに隠れた。 母親「ちゃんと、お世話になるんやから挨拶するんよ」 私「……。こんばんは」 と答える 【……しかし、安全だと思った場所が真逆への方向になってしまうことを、まだ当時は分からなかったのだ】 一つの部屋に叔父さんと小さな私 二人きりだった。 ……すると、いきなりズボンや下着を下ろし 「美味しいから、舐めてみて」と。 まだ保育園だった私はその行為の意味すら知らなかったが為に言う通りにしてしまう。 《だから、わたしが性的被害に合ったと知ったのは物心がついたときだったのだ》 当時の記憶は曖昧だが 朝になり真っ裸にされ上には叔父さんが乗っかっているのに気付く 私は自分に何が起きているのか分からなかった。 パニックになり 「私のお洋服はとごー!?たすけてー!!!」 泣き叫ぶことしかわからず すると、叔母さんが部屋に入って料理なものを机に運んできた。 叔母さん「あんた、またやっとん?」 と言っていた 《また……?》 そう、実は同じ小学校の先輩のアンナちゃんもその叔父さんに被害に合っていたのだ。 ややこしい話になるが、その母親のストーカー相手の父親、叔父さんは実のお姉さんの娘 アンナちゃんにまで手を出していた。 その叔父さん叔母さん夫婦は生活保護で精神科に通っていたと聞いている。 見た目は子供好きな子煩悩な感じだが… 《その家庭自体が酷く目を背けたくなるほどに狂っていたと知る》 私は解離を起こし記憶が途切れ途切れになっていたし覚えていることは 母親が迎えに来ると表情を変えて 私に口止め料のつもりか沢山のお菓子をくれたこと。 その後、母親のストーカー相手は 私の親戚は警視総監の警視さんにあたり、 ストーカー相手が母親の車をボコボコにしていたところを捕らえ とうとう警察でもある親戚の人が動き捕まえることに成功した その後はというもの ストーカー相手は捕まりそこの刑務所には 母親の実の父親である爺ちゃんがいる 尚且つその刑務所を仕切っており 爺ちゃんはその母親、娘のストーカーの相手のご飯を少しだけにしたり、チクチクとイジメ それを刑務所の周りに伝え 刑務所の中でそのストーカー相手は酷いイジメに合い過ごしていたそうです。 母親とその実の父親が初対面したのは母親が20歳の頃刑務所の面会場だったと聞いている。 また、親戚は警察官の警視さんである為私達とは縁を切られている。 《ここで、不思議に思う方もいるでしょう。 まず身内に法を犯す人がいると親戚が警察官にはまずなれない為、爺ちゃんは養子にいったから籍は違く、母親は縁故者である為である。》
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

269人が本棚に入れています
本棚に追加