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竜の歌
時を超えて、彼方に踊る
竜の歌を聴きましょう
時を超えて、彼方に眠る
竜の眠りに耳澄ませ
時を超えて、彼方に歩く
竜の魂、ここに宿る
骨の弦楽器から流れる曲に合わせて、吟遊詩人の女が歌う。盲目だという彼女の緑の眼は濁っていて、まるで透明度のない翠玉のようだった。
時を超えて、竜は巡る
時を超えて、竜は踊る
時を超えて、竜は眠る
複雑に編みこまれた銀の髪を彼女がゆらせば、そこについた銀輪が華麗な音をたてていく。それは清らかなる水の音にも似ていて、ウルヒトは思わず彼女の歌に耳を傾けていた。
彼女の歌を聴いて、懐かしさを覚えてしまう。
彼女の背後では大きな竜が眼を瞑って鎮座している。彼女はその眼に届くよう組まれた櫓の上で、骨の弦楽器を鳴らして踊るのだ。
時を超えて、竜は想う
時を超えて、竜は探す
彼女が歌うのは、この街で眠り続ける竜のことだ。この街は、半ば土に埋まった竜を中心に作らている。小高い丘だと思われていたそれが、竜だと分かったのは約百年前、人々は信仰の対象たる竜を今でも発掘しているのだ。
この世界は巨大な竜の背の上に築かれており、小さな竜たちがこの世界のあらゆる大地や、湖や、小島になったという。
この世界のあらゆる場所に竜が眠り、その竜たちの体温が大地を温め人々が住める環境を作り出している。その竜の中でも比較的若い丘の竜を掘り起こし、その竜を中心に何百年もかかって寺院を作ること。それが、ここ数世紀のあいだ、この国の国教徒たちのあいだで流行っていることなのだそうなのだ。
この竜も、そんな寺院に捧げられることなった丘の竜の一匹だ。そんな竜たちを掘り起こすために国教会は全国から働いてくれる信者や、その家族を集め続けている。櫓の周囲では女の踊りを一目見ようと、そんな信者たちが集まっては寄付金になる銀貨や銅貨を、拍手がわりに竜に向けて投げつけていた。
貨幣が投げつけられる竜の皮膚には、複雑な刺青が彫り込まれている。教会が竜の神聖なる力を称え、数十年の歳月をかけて彫っていったものだ。
この大地を温めるために眠っているのに、掘り起こされて体に刺青まで入れられるなんて、ほとほと竜迷惑な話だよなとウルヒトは思った。
本当に、竜を掘り出すなんてこの国は奇妙な宗教を国教として抱えていると思う。普通なら、そっとしておくはずの竜を、この国では起こすような真似をしているのだから。
それにはきちんと訳があって、竜たちは遠い昔に別れた番に巡り合うために、長い時を眠っているのだという。土に深く覆われるまで眠っているなんて、それこそ眠りすぎだとウルヒトは思うが。
ふいに、女の歌がやむ。ウルヒトが櫓を仰ぐと、何かをねだるように彼女はこちらを見つめていた。ウルヒトは頭を覆っている汚いつば帽子を被り直し、女に一礼する。何も見えていないはずの女の眼は、それでもしかりとウルヒトの背へと向けられていた。ウルヒトの相棒たる骨の弦楽器へと。
鹿の頭で作られたそれは、後ろの空洞部分に竜たちの髭で作られた弦が貼られている。その弦を掻き鳴らすことで、妙なる音をウルヒトの弦楽器は発するのだ。
竜に貨幣を投げていた信者たちの眼が、ウルヒトへと向けられる。ああ、これは逃れられないと、ウルヒトは観念して鹿の弦楽器を構えた。
長く生えそろった指で弦を弾きながら、ウルヒトは歌う。
竜は彼方に眠りつく
竜は彼方に探したもう
竜をやめたそのものを
ウルヒトの歌は、女のそれと対をなすものだった。ウルヒトが生まれたときから知っていた曲だ。その曲と似ているものがこの国で歌われていると知って、ウルヒトはここにやって来た。
今目の前にいる竜が、自分を呼んだ気がしたから。
ただ、生まれたころより頭の中にあった唄を、ウルヒトは奏でる。
竜は彼方に想う
想い人のことを
竜を捨てたその人を
竜は彼方に眠る
時を超え
竜はかのものの魂を見つめ続ける
ほうっとひとびとの感嘆のため息が、周囲を満たす。ウルヒトは何だが居心地が悪くなり、黒い眼を顰めていた。そんなウルヒトに、翠玉の眼が向けられる。彼女はそっと櫓を降りて、ウルヒトの前にやってきた。
「あ……あの……」
唖然とするウルヒトの前で、彼女は膝を折り首を垂れる。
「お待ちしておりました。ウルヒトさま。我が番となられるお方」
番。番と言ったのか。女の言葉にウルヒトは大きく眼を見開いていた。女は顔をあげ、そんなウルヒトに笑顔を送ってみせたのだ。
何が何だか分からないまま、ウルヒトは巫女である女の家へと招待されていた。女の家はこの街の他の家がそうであるように、漆喰で塗られた窓の小さなものだ。いずれ寺院の一部となるその家には、まるで雪の結晶のような銀の装飾が壁にちりばめられ、室内を明るくしていた。
織物の敷かれた部屋のすみにウルヒトは鎮座し、鉢に盛られたそれに苦笑を浮かべている。どす黒い色をしたそれには、巨大な竜の鱗が入れられていた。
あの竜の鱗だというそれは、貝のように美しい虹色をしている。その竜の鱗を煮たものを、眼の前にいる女は食べろというのだ。
「どうぞ、ウルヒト様」
微笑むその女の名は、ヴァジリカと言った。ヴァジリカはウルヒトにこう言ったのだ。
――あなたの秘密を知っていますよ。
と。
その言葉に、ウルヒトは彼女のもとに来るしかなかった。幼い頃から頭に流れているこの歌について、彼女は何か知っているかもしれないからだ。
この国で歌を聴いたとき、ウルヒトは無性に懐かしくなり眼から涙を流していた。自分の中に流れる、この美しくも儚い曲の手がかりを、やっと見つけることができたたからだ。
それなのに、眼の前の女はグロテスクな竜の鱗入りスープをウルヒトに差し出したまま、笑顔を向けるばかりだ。自分のことを番といった彼女は、少しばかり頭のつくりが弱いのではないかと思ってしまう。
「やっぱり、食べたくないですか……」
「いや、大丈夫だ」
顔を曇らせるヴァジリカを見て、ウルヒトは慌てて鉢に盛られたスープを飲む。泥と見分けがつかないそれは、思いのほか美味しかった。
極東の商人がいつか食べさせてくれた、『カツオ』という調味料に味が似ている気がする。
「竜の鱗はこの竜の丘の町の名物なんです。竜の鱗はどんどん生えてくるから、凄く採れるし特産品として他国にも輸出してるんですよ」
「へえ、竜がそんな」
信仰の対象である竜が、まさか鱗で人間を潤しているとは思いもしなかった。ほへーとウルヒトは感心に声をあげ、竜の鱗が浮かぶスープを飲み干す。
「それに、精力がつくことでも、この竜の鱗のスープは有名なんです」
ぽっと顔を赤らめ、女が言う。その言葉に、ウルヒトは大きく眼を見開いていた。
「ちょっと待ってくれ。私は旅人で、君を伴侶にする気は毛頭ないぞ」
「ずっと待っておりますわ。一目見て、運命の人だと分かりましたもの」
「でも、君の眼は」
「竜が教えてくれますの。今でも私の耳元で囁いてる。私に、あなたと一つになれと」
そっと濁った翠色の眼を細め、ヴァジリカが笑う。
「ねえ、ここがあなたの旅の終着地点だとは思いませんか? あなたの歌は、ここにあるのだから」
女の言葉に、ウルヒトはぐっと言葉を詰まらせる。そうだ。この地には、焦がれた自分の歌がなぜだか伝わっている。
自分のずっと頭の中で鳴り響いていた声が。
「時を超えて、竜がこの地へあなたを呼び寄せたのです。竜自身の願いを叶えるために」
ぐらりと視界がゆれる。床に倒れ込んだと思ったときにはもう遅く、女の顔がウルヒトのそれを覗き込んでいた。
「ごめんなさい。これが、私たちの悲願なのです。あなたは竜の片割れ。あなたがいれば、私たちの竜は時を超えて目覚めることができる。あなたは……」
ヴァジリカの声が聴こえない。ウルヒトの意識はそこで途絶えていた。
小さなころからウルヒトは、頭に流れる歌に祝福され、その歌に呪われていた。
竜は彼方に眠りつく
竜は彼方に探したもう
竜をやめたそのものを
その歌をうたいたいと思ったのはいつからだろう。美しい旋律は、ウルヒトに美しい声を与えた。その歌の巧みさを買われ、貧しかったウルヒトの家は、ウルヒトを人買いに売ったのだ。
どの土地に行ってもウルヒトはその歌をうたわされることを求められ、その歌の美しさゆえに高値で売られた。
誰もウルヒトを見ようとはしない。ウルヒトの歌声だけがウルヒトに価値を与える。そんな奴隷生活に嫌気がさして、ウルヒトは最後の主の元から逃げ出した。
それでもウルヒトが出来た商売といえば、歌声を使った吟遊詩人という職業のみであった。逃亡中の奴隷であることもあり、一つの場所に留まることができなかったのも理由の一つだ。
あてもなくウルヒトは放浪した。商売になる大きな町をいくつもめぐり、多くの港から他国へと旅立ち、そして、遠い異国であるこの地で、ウルヒトは自分の歌と出会ったのだ。
自分の運命を決めた、あの竜の歌と。
人々の争う声が聴こえる。その声に乗って、ウルヒトの頭の中で竜の歌が鳴り響く。
竜は彼方にその人を想う
竜は彼方にその人を残す
竜は彼方にその人を追う
「待って! 彼は私の伴侶よ。なぜ殺す必要があるのっ!」
「この方は竜の半身! この方の命を捧げれば、我らが竜は復活する。時を超えて、目覚めた竜がこの地に蘇るのだ!!」
怒鳴り声はヴァジリカと見知らぬ男のものだった。両手足が動かない。どうもウルヒトは両手足を縛られ、自由を奪われているらしい。
自由な頭を動かしてあたりを見回すと、昼間立ち寄った竜の目玉が拝める櫓の上に自分はいるらしい。自分をかどわかした女は竜の閉じられた目の前にいて、何やら見知らぬ男と口論している。
「俺を殺すと、何があるんだい?」
そんな二人にウルヒトは囁きかけるような声をはっしていた。二人はぎょっと眼を見開いて、そんなウルヒトを見つめる。
「おお、起きられましたか。竜の半身よ」
「竜の半身?」
法衣を纏った男の言葉に、ウルヒトは眼を顰めていた。どうやら話を纏めると、自分はこの竜の分身のような存在らしい。そんなことを信じられるかと言ったら、否になるが。
「そう、あなたさまは我らが丘の竜の半身。この竜の丘に伝わっていた歌を、異邦人であるあなたは見事に歌い上げました。それも我らの古き国の言葉で。その言葉を解せる者は、この巫女のヴァジリカと寺院の担い手たる私どもしかおりません」
「ああ、あんたらやっぱりあの歌の詞が分かったのか。俺の歌の詞は俺しか意味が分からなかったから、その女に歌えって促されたときは驚いたもんさ」
「このヴァジリカはこの竜の番なのです。時を超えてあなた方は結ばれるために生まれてきた。あなたが、竜に戻る日がやって来たのです」
「それって、俺に死ねってこと?」
「あなたは竜に戻るためにこの地にやって来た。他に何がありましょうか?」
熱っぽい男の言葉に、ウルヒトは唖然としていた。いくら自分が竜の半身だと言っても、その竜を起こすために死ねとは無茶苦茶な話じゃないか。そもそも、大地を温めるために眠っている竜を起こして、この土地は大丈夫なのだろうか。
「さあ、ウルヒト様! あなたが竜として復活する日が来たのです。どうかその身を――」
「いや、死ぬとかやだからっ!」
男の声を遮ると同時に、ウルヒトは腕についていた黒曜石の腕輪で、自身を戒めていた縄を解いていた。男の足にしがみつき、ウルヒトはヴァジリカに叫ぶ。
「ちょ、ウルヒト様」
「おい、ヴァジリカ! 俺を殺したくないんだよなっ!? だったら、この縄ほどいてくれっ!」
「ええっ!」
「こら、ヴァジリカ! ウルヒト様を捕えろ!」
男の言葉に狼狽しているヴァジリカの心は決まったらしい。彼女は懐からナイフを取り出し、その刃をウルヒトの足めがけて振り下ろした。ウルヒトを戒めていた縄は見事に切れ、ウルヒトは自身を殺そうとしていた男に蹴りをお見舞いする。
「ぐわっ!」
「来い、ヴァジリカっ!」
「きゃっ!」
男を蹴り飛ばし、ウルヒトはヴァジリカを抱きしめて、竜に跳び移っていた。そんなウルヒトの行為を見はからったかのように、法衣を着た信者たちが次々に櫓へとやってくるではないか。
「ウルヒトさま、これではっ!」
「分かってるよ、歌え、ヴァジリカ」
「歌っ!?」
「そうだよ、こいつを起こすんだ」
そう言って、ウルヒトは頭の中に流れる歌を口づさんでいた。その曲に合わせ、ヴァジリカもまた丘の竜の歌を口づさむ。
ウルヒトの頭の中では、煩いぐらいに竜の歌が鳴り響いていた。その歌を一句一句間違えることなくウルヒトは奏でていく。歌の中で竜は語りかけていた。
逝こう愛しきひとよ
生こう愛しきひとよ
行こう愛しきひとよ
まるで、愛を語る恋人のごとく、竜はウルヒトに語りかけてくる。その語りかけを、ウルヒトは美しい旋律で歌い上げるのだ。
竜が嘶く。はるか昔から閉じられていた眼が大きく見開かれ、黄金色に輝いた。竜は地に埋まる黒い翼を力いっぱい動かしていた。
「まさか、そんなっ!」
「たっく、起きるのが遅いんだよっ!」
そんなウルヒトの怒声に、竜は嬉しそうに嘶きを返す。ぶわんと竜が地に埋まっていた翼を動かすと、その場にいた信者たちめがけ土砂が一気に襲い掛かってきた。櫓を引き倒し、竜は空へと舞う。
その様子を、悲鳴を上げる信者たちが唖然と見つめる。
「おいおい、本当に起きちまったよっ!」
「こんなことってっ!」
竜の背の上で、ウルヒトは苦笑を浮かべていた。ウルヒトの肩に両手を置くヴァジリカは、唖然と小さくなっていく自身の町を見つめているではないか。
「おい、どこに行くんだ相棒!」
ウルヒトの弾んだ声に、竜は嬉しそうな嘶きを返すばかりだ。大地を温めていた竜がいなくなってしまって、あの土地は大丈夫なのかとウルヒトは思った。だが、大空を飛ぶ竜を見て、その考えを改める。
綺羅星に輝く夜空を飛ぶ竜は、薄い膜の張った翼を翻し、夜風にその身を躍らせるのだ。何千年も眠っていたから、自由に動き回れるのがよほど嬉しいらしい。
どうして竜が地中に埋まっていたかは分からないが、神話にあるように地上の生物たちを温めるためではないみたいだ。
「まあ、神話なんて人間が都合よく自然の現象を解釈したものだしなあ……」
「そんなものでしょうか……」
「そんなもんなんじゃないのか」
驚いた様子で言葉を返してくるヴァジリカに、ウルヒトは笑いながら声をかける。ヴァジリカはそっとウルヒトの背中に抱きつき、言葉を続けた。
「先ほどのウルヒト様の歌。なんだか、恋文みたいでした」
「たぶん、こいつはずっと動きたくて、俺のことを待ってたのかもしれないな」
そっと竜の背をなでながら、ウルヒトは苦笑する。竜は、自分の半身であるウルヒトを求めて、ずっと歌を歌い続けていたのだ。その歌が、ウルヒトの頭の中で響き渡っていた。
竜が目覚めた今、その歌声は聴こえない。嬉しそうに飛ぶ竜の嘶きが、ウルヒトの耳に木霊するばかりだ。
「それって、丘の竜がウルヒト様のことを……」
「そういやこいつ、雌なのか、雄なのか、っちなんだ?」
ウルヒトとヴァジリカは顔を見合わせ、二人して竜の背中を見つめる。二人の疑問に答えことなく、空飛ぶ竜は嬉しそうに鳴くばかりだ。
「たぶんこいつ、細かいこととか何にも考えてないぞ」
「竜って、案外おバカなんですね……」
二人の言葉に抗議するように竜が嘶く。そんな竜の嘶きを聞いて、ウルヒトとヴァジリカは笑っていた。
「そんなおバカな人たちと旅をするのも悪くないですわ」
「おい、バカってなんだよっ!」
ヴァジリカの言葉にウルヒトは叫ぶ。そんな彼を見て、ヴァジリカは花のような笑みを浮かべてみせた。
この数世紀後、竜に乗った吟遊詩人の夫婦の神話が世界中で語られることになるが、それはまたのちのお話。
竜に乗ったウルヒトとヴァジリカがどこに行ったのか、知る者はいない。
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