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父は湯船の中で、自分が子供だったころのことを、よく話してくれた。
辺鄙な田舎で生まれ育ち、川で捕まえたナマズを焼いて食べた話は、定番だった。
「ぼくもお父さんの田舎に行きたい」
「いつかな」
「きっとだよ」
「ああ。男と男の約束だ。命懸けで守るぞ」
未だに覚えている。優しく頼もしかった父の言葉を。
顔に湯がかかるのがこわいと泣くほどに幼く、弱かった私。
意を決して頭から湯をかぶり髪を洗ったときは、耳が破裂するほどの大きな拍手で、ほめてくれた。
体を洗ってくれるとき、いつも私の腕を指さし、「おまえにも三連星のほくろがあるな」と笑っていた。
父の顔は、もう記憶にない。声も忘れた。私にとって父といえば、胸に行儀良くならんだ、三つのほくろのことだ。
シャンプーのにおいが鼻先をかすめると、あのときのことがよく頭をよぎる。この部屋のハンドソープが、あのにおいに似ているからか、今日はやけに昔のことを思い出す。
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