吸血鬼ですが、ここで働かせてください! 前編

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吸血鬼ですが、ここで働かせてください! 前編

 我が家は父も祖父もそのまた祖父も吸血鬼だ。しかし、人間と交わることに抵抗もなかったせいで、その血統は随分と希薄なものになった。それを責めるつもりもないのだが、私のような不良品が生まれてしまうという弊害もある。  伝説に聞く吸血鬼のような超人的能力はなく、残されたのは日差しへの脆弱さと人よりも鋭敏な感覚。匂いのきつい食べ物は受け付けない。人の血の匂いを嗅ぐと失われかけているはずの本能が目を覚ます。  全く、なんて不便な体だろう。  ガシャーン、と目の前で盛大に皿の割れる音がした。 「失礼しましたー!」  今日こそは物を壊さないと誓っていたはずが、今日もやってしまった。せっせと片付け始めれば、白辻店長がひょっこりと顔を出す。 「朱希ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」 「あ、はい!大丈夫です!すみません、手が滑っちゃいまして……」  あはは、と苦笑交じりに返せば、「次割ったら給料から引いちゃうよー」とさらりと告げて厨房に戻っていった。  むしろもう引かれてもおかしくないくらい皿やグラスを割ってしまっている。申し訳なさを通り越して、いっそ引いてくれた方が気が楽かもしれなかった。  でももし本当に引かれたら、ただでさえ火の車の家計に油を注ぐことになってしまう。反対されながらも上京した就活まで失敗した身であるため、親からの仕送りに頼るなんてことは死んでもできなかった。 「パスタ、四番だよー」 「はーい!」  厨房から店長の声がする。まだ洗い立てのお皿は洗浄機の熱を吸収して熱々だ。お皿に触れる指先が熱い。しかし、しばらくすればその感覚は消えていく。 「お待たせしました、トマトクリームパスタです!」  テーブルに運ぶ頃にはすっかり指からは熱の記憶が消えていた。いつの頃からだったか、自然と身に付けた自分なりの処世術のおかげだ。  人よりも鋭敏な感覚は、十歳を超えた頃から私の生活に様々な影響を与えた。さんさんと降り注ぐ日差し、校庭を走り回り毎日のように誰かしらが怪我をする教室、夏に行われるプールの授業、街中で香ってくるニンニクの香り。それら全てが敵だった。  そのせいで学校を休みがちになってしまった私を、両親は特に叱らなかった。父もおそらく似たような経験をしたのだろう、と容易に想像ができた。だからこそ、今は普通に生活してしっかりと家族を支えている父を尊敬していた。それと対照的に、俺だってここまで頑張って生きてきたんだぞ、と言われているようで顔を合わせるのが億劫でもあった。  いつしか父から離れることが目標となり、目標が出来てからはどうにか学校に行き勉強に励むようにもなった。そこで身に付けたのが、自分の感覚を遠くへ置くこと。五感に自分で靄をかけることだった。 「朱希ちゃん、まかないどうする?」 「今日はトマトソースでお願いします」 「今日“は”っていうか、今日“も”だよね。了解」  五分も経たないうちに出てきたパスタは、まかない用のシンプルな皿に盛られている。赤いトマトソースにバジルなどの香草が合わせてあり、ふくよかな香りが鼻孔をくすぐった。よくよく見れば、タコやホタテの切り身まで入っている。 「今日はシーフード入り、まぁ切れ端なんだけど」 「ありがとうございます!」 「最近まかない以外ちゃんと食べてないんじゃない? 顔色悪いよ」 「あはは……じゃあ、いただきます」  こんな具沢山パスタなんて、自分では決して食べられない。店長の優しさが胸に沁みるようだった。このお店で働かせてくれているだけでも有難いのに、まかないまでサービスしてくれるなんて、やはりこのお店は天職だ。  駅近にあるこのイタリアン料理店『フラテッリ』はなぜかイタリアンなのにニンニクを使わない。代わりに香草やトマト、そして時折店長が買ってくるバラの香りに包まれていた。  バイトを始めて少しした頃、フラテッリの口コミサイトを見に行ったことがある。そこにはニンニクについての文句、という点は変わらないものの、ある時期を境にそれが一八〇度変わっていた。店長に理由を聞いても懐かしいと笑うだけで最終的には―― 「女の子のお客さん増えたのは良かったよね」  と本気なのか冗談なのか分からない口調ではぐらかされてしまったのだ。  ニンニクを使わないなんてまるで店長も吸血鬼みたい、と最初の頃は思っていたが、あのレビューを見る限りニンニクマシマシで営業していた頃から店長が変わらないままだとすると、吸血鬼説は間違っているような気がした。  謎は深まるばかりだ。しかし、それよりも何よりも私は仕事のミスを減らせるようにならなければならない。そうでなければ、本当に給料が減ってしまう。夜のシフトしか入れない私にとって、それは死活問題だ。  あぁ、なんで生きるために働かなければならないのか。  目が覚める度、家に帰る度に思い起こされる言葉が頭を過る。働き始めてから失敗ばかり、こうなってくると私は生きること自体に向いていないのではないかと思い始めてしまう。  そっと溜息をひとつ零し、最後の一口を咀嚼する。何だかいつもよりトマトソースが酸っぱく感じたけど、味覚さえ自分で鈍感にしてしまっているのだから、そんなのは完全に気のせいだった。店長のパスタは間違いなく美味しいのだ。 「ご馳走様でした」  食べ終わった皿を片手に折り畳み式の椅子を畳む。まかないは、バイトがこの椅子を順番に使って厨房の端で食べる決まりだ。 「あ、ちょうど良かった。これ六番にお願い」  厨房からホールへの受け渡し口に大盛りのカルボナーラが置かれる。それに加え六番という言葉に思わず身構えた。 「分かりましたー……」  返事だけは明るく取り繕うも、嫌な予感がする。いや、仕事だから今はそんな感情を捨てるのだ。  カルボナーラのお皿を六番テーブルに運んでいく。そこには予想通り、全身黒ずくめの彼が座っていた。いつも同じような黒い服、そして目元まで覆い隠すような長い前髪の彼には妙な雰囲気がある。  そんな常連客であるこの人が、私は正直苦手だ。 「お待たせしました、温泉たまごのせカルボナーラです!」  しかし、こういう時こそ元気に、である。母の教えに『苦手な人こそ愛想よく』というものがある。苦手だな、と思いながら接すると相手もそれを察して、それ相応の態度を取ってくるから、ということらしい。 「……ありがとうございます」  相変わらず、ぼそぼそと消え入りそうな声で彼は呟く。誰に対してもそうなのか、違うのかは分からないが、彼が温泉たまごのせカルボナーラの大盛りを頼むことを覚えるまでは注文が聞こえづらくて仕方なかった。  だから初めて彼から注文を受けた時は、彼の声を聞こうと少しだけ、半分塞いでいるような聴覚を開いた。そうして気付いたのは彼の声だけではなかった。聴覚だけを開くなんて器用なことはできず、同時に鋭敏になってしまった嗅覚が察してしまったのだ。  彼の血の、どうしようもない芳しい香りに。 「あの……」 「あ、はい!」  ふいに声をかけられ、はっとする。またあの香りを思い出しそうになって、咄嗟に口元を抑えた。一度あの香りを覚えてしまったせいなのか、彼の顔を見るとどうしても匂いの記憶が蘇ってくる。 「粉チーズ、欲しいんですけど」 「そ、そうでしたね! すぐ持ってきます」  こってりとしたクリーム、そして黄金色に輝く卵の黄身がとろりと混ざり合ったカルボナーラ。彼はそのパスタにさらに粉チーズをこれでもか、というくらいにかけて食べる。粉チーズをそんなにかけなくても美味しいのに、と軽く引いていたが段々と日常の光景として慣れてしまった。  一体、あの食生活でどうしてこれほど美味しそうな血の匂いをさせるのかが分からない。  美味しそうと表現したが、私は人間の血を飲んだことはない。代わりに主食は基本的にトマトだ。あとはバラの君、と呼ばれる常連の女性から時折もらうバラから精気をもらっている。  彼女の雰囲気や私への態度を見ていると、私が吸血鬼であることに早々に気付いたことは間違いなかった。しかし、ただ見守ってくるような彼女の視線に気付けばすっかり警戒心を解いて、今ではちょっとした世間話までできるようになっていた。  お客さんに出す粉チーズは、専用の小さな器にチーズを入れてお客さんへと渡す。それを持っていくと、常連の彼はぺこりと頭を下げた。  その瞬間、彼が動いたせいかふわりとあの匂いが漂ってくる。ごゆっくりどうぞ、と早口に言って私は厨房へと逃げていった。冷や汗がこめかみに滲んで気持ち悪かった。口の中に涎が溢れてくる。喉の渇きを紛らわせるように水を流し込んだ。  落ち着いて。いつも通り、感覚を体の奥深くに沈める。そうすれば段々何も感じなくなる。  感覚を殺せ、自分を殺せ。そうすれば、何も辛くなくなるから……。 「大丈夫?」  いつの間にか近くに立っていた店長を静かに見上げる。気のせいか、店長は気配を消すのが得意なようだった。 「すみません、何でもないです」 「羽黒くんに何か言われた?」 「ハグロ……?」  一瞬何のことか分からずにいると、店長は6番テーブルへと視線を向けた。 「そっか、常連さんでも名前覚える機会ないよね」 「いえ、特に何か言われたわけではないです……というか、店長はどうして名前を?」  私の質問に店長はまたあのはぐらかすような笑みを浮かべる。 「昔、同じところにいたから、ちょっと世話してた時期もあって」  同じところ、という言い方が気になったが、故郷が同じくらいに捉え深く聞くことはしなかった。質問しても、きっと店長は答えてくれないだろう。 「羽黒さんって何か体を使うような仕事をしているんでしょうか?」 「どうして?」 「え、あ、その……何となくどこか怪我してるんじゃないかなぁ、って思ったので……」  さすがに血の匂いがする、なんて物騒なことは言えなかった。私の言葉に店長はふ~ん、と曖昧に頷きつつ羽黒さんへと視線を戻す。 「彼、今は雑誌編集の仕事をしてるって言ってたよ。たまに記事も書いてるって」 「へぇ……」  雑誌編集の仕事を詳しくは知らないが、ほいほいと怪我をしてくるような仕事とは思えない。実はすごくおっちょこちょいだったりするのかもしれないが、それにしても流血するような怪我をするのは相当だと思う。  その時、客席から店員を呼ぶベルの音が響く。 「落ち着いた?」  その時、ようやく店長が私の気を紛らわせようとしてくれていたのだと気付いた。言葉を交わしていたおかげで、随分と落ち着いて楽になった気がする。 「はい、ありがとうございました」 「じゃあ、またホールよろしく」  それからは特にお皿を割ることも、注文を間違えることもなく何とか仕事をこなしていた。お酒を飲み交わす客が増えてきて、ゆったりと夜の時間がお店の中で流れている。  羽黒さんはカルボナーラを食べ終えると仕事を始めたらしくパソコンと睨み合っていた。  その時、グラスを拭いていた私にちょいちょいと店長が手招きをする。 「これ、羽黒くんに持っていてくれない?」  店長の手元には見覚えのないデザートが置かれていた。 「もしかして、来月からの期間限定メニューですか?」 「そうそう。今日ちょうど試作が出来たんだよ。羽黒くんって的確な感想くれるから、たまに試食してもらってるんだよね。あ、朱希ちゃんも食べていいよ」  クリスマスに向けて作られたデザートは、クリスマスツリーを模したカップケーキだった。スポンジの上に緑色のクリームが高く盛られ、クリスマスのオーナメントを思わせるアラザンやチョコチップが飾られている。 「可愛いですね。でも私、味覚にはそんなに自信が……」 「そう? まぁ、無理にとは言わないから、食べたくなったら教えて。俺はちょっと二階の片付け手伝ってくるから」  そう言って、店長は厨房を出て二階席へ続く階段を上がっていった。  取り残された私は羽黒さんに試食してもらう用の皿に視線を落とす。やはり見た目が可愛い。女性客の多いうちの店なら、ウケもいいはずだ。羽黒さんがいない時にでも、ゆっくり試食させてもらおう、なんて考えながらデザート用のフォークを携え厨房を出る。  そして、少し緊張しながら六番テーブルへと向かった。 「失礼します。こちら、店長からぜひ試食してほしいと……」  ふっと顔を上げた瞬間、前髪の奥で彼の目が見開かれるのが分かった。今まで見たことない反応にびくりと肩を震わせる。 「これは、クリスマスに向けて……ですか?」 「はい。来月から出す予定で、まだ試作なのですが」  受け答えからして、どうやら店長からの試食には慣れているらしい。羽黒さんはパソコンを雑に横にずらすと、口元に笑みの欠片を混じらせながらスプーンを手に取った。  今までじっと俯きがちな姿か、カルボナーラを食べている姿しか見たことがなかった。まさか、デザートに目をキラキラさせるなんて可愛い反応をするとは予想外だ。 「甘いもの、好きなんですか?」  つい聞いてしまった。すると、彼ははっとしたように口を真一文字に引き結ぶ。 「男のくせに、変でしょうか?」 「あ、いえ、そういうわけでは…!」  無神経な発言だっただろうか、と一拍置いて思い返す。いつもと違う顔を見せる彼に、思った質問がそのまま口から出てしまった。  彼に不快な思いをさせたかったわけではない、と弁明したくて慌てて開いた口は、しかし全くもって関係ないことを口走る。 「い、いいですよね、甘いもの好きな男性って! うちのお店はデザートも美味しいですし!」  何を言っているんだ、という自覚はありつつも、もう喉から出てしまった言葉を撤回することはできなかった。羽黒さんとの間に沈黙が流れ、あまりの気まずさにキッチンへ戻ろうと体を後ろに引いた瞬間だった。 「うおっ!?」  背中に何かがぶつかる。転びそうになったところで近くの椅子に手をつく。そろりと視線を後ろに向ければ、同じようによろけ壁に手をついている男性に気が付いた。 「も、申し訳ありません! 大丈夫ですか!?」 「あぁん!? これが大丈夫に見えるかよ!」  ゆらりと体を起こした男性は、随分酔っているのか顔が赤く目が据わっている。一見、どこも怪我をしている様子はなく、どこかをぶつけた様子もなかったことにとりあえずほっとしていた。 「す、すみません。私がちゃんと後ろを見ていなかったので……」 「お前舐めてんのか? 謝るなら床に頭擦りつけて土下座だろうよ」 「え……」  まさかそんなことを言われるとは思わず完全に思考がフリーズしてしまう。 「おいおい止めとけってー! あははっ!」  彼と同じテーブルの客たちもすっかりできあがっていた。全く止める様子はなく、むしろ煽ってさえいるように見える。  ぶつかったことは謝った。しかし、土下座をしろというのは従うべきなのだろうか。こんな酔った客に一体何を言えば落ち着いてもらえるのだろうか。 考えても考えても、テーブルからの野次と男性の荒げられる声に思考が乱される。 「おら、さっさとしろよ。ちゃんと撮ってやるからよ」  目の前に彼の携帯が突きつけられる。動画を撮っていることは明らかで、それを察した瞬間、心臓を氷の手が鷲掴む。  動画や写真だけは、まずい。血が薄まろうと吸血鬼ということなのか、鏡やカメラに自分の姿がはっきりと映らない。必ず体のどこかが透けたり、不自然な光が映り込んだり、まるで心霊写真のようなものが完成する。  だからできるだけそういうものには映らないように生きてきた。自分が人とは異質であることがバレれば、これ以上に生きづらくなることは明白だ。 もし、吸血鬼ハンターなんかに目をつけられでもしたら―― 「ど、動画だけは勘弁してください……! 土下座でも何でもしますので!」  手で覆うようにしながらカメラから顔を背けた。 「良いから早く土下座しろや! 顔なんか隠して事務所NGってか?」  下卑た笑いに包み込まれる。息が苦しい、脚が震える。  なんでこんなことになってしまったんだろう。どうすればいいんだろう。土下座をすれば、最悪動画を消してもらうことはできるのだろうか。分からない。  感覚を殺せ、自分を殺せ。  いっそ私を、誰か殺してくれ。  私には、この世界は生きづらくて仕方ない……。  ふと、何かが頭の中で千切れた。例えば、と突然冷静な声が自分の中で反響する。  例えば、このまま自分が吸血鬼だとバレて、ハンターが狩りに来てくれたらいいんじゃないだろうか。中には慈悲深いハンターもいて、痛みも感じさせずに殺してくれる者もいると聞いた。  そうだ。そういう人に見つけてもらえたら、こんな苦しみからも解放されるかもしれない。そんな手もあるじゃないか。  すっと目の前の酔っぱらいが持つスマホのカメラを真正面から見つめた。 「な、なんだよ、やっと覚悟決めたかよ……」  彼の声は、膜でも張っているかのように遠くから聞こえた。  特に何の感慨も覚えることなく、そのままそっと片足を後ろへと引いていく。  これで良い。これで上手くいけば解放される……。 「やりすぎじゃないですか?」  静かなのに妙に響くその声にぴたりと動きが止まった。 「羽黒、さん……?」  そっと振り返れば、いつの間にか私の後ろに立っていた彼がカメラレンズを覆うように手を翳してくれている。  なんで、どうして彼が私を庇ってくれているんだろう?  驚きで頭が真っ白に漂白されて、並んで立つと意外と背が高いんだな、なんてどうでもいいことだけが頭に過る。  呆然とする私をよそに、彼は真っ直ぐ酔っぱらいの男性を見据えた。 「確かに彼女の不注意でしたがきちんと最初に謝ったはずです。嫌がる彼女を無理やり撮影しようとするのは、さすがにやりすぎなのでは」 「お、お前には関係ねーだろ!」  羽黒さんの言葉に面食らったのか、目の前の男性はわずかに狼狽える。それでも精一杯の虚勢を張るために怒鳴るように喚いていた。 「羽黒さん、大丈夫です。私……」  彼にまで迷惑をかけるわけにいかない。そう思っているのに、か細い声しか出て来ない。  私のためにそんなことをしなくていいのに、とまた冷静な私の声がこだまする。 「そんな死にそうな顔で言われても説得力ないです」 「……!」  初めて、真正面から彼の顔を見た気がした。黒曜石のような黒い瞳は、今まで見たどんな光よりも強い輝きを湛えている。それなのに、どこか月のような優しさがあった。  きっと、こんな瞳を持つ彼だから、血の匂いがあんなにも芳しいのかもしれない。  そんな推測が自分の胸にすとんと落ちた。 「あ~らら、お客さんすみませんね。うちのバイトが」  突然、私たちの間に割って入るように店長が現れる。新たな加勢に、酔っぱらいも徐々に酔いが覚めてきたのか大人しくなっていた。 「いっぱいうちのお酒飲んでくれてありがとうございます。見たところ怪我もないようですし……どうでしょう? お詫びとしてシャーベットをサービスさせていただけないでしょうか?」 「シャーベットだぁ?」 「はい。酔った頭もすっきりするかと」  にっこりと浮かべられた店長の笑みは、有無を言わさないすごみがあった。店長に気圧され、酔っぱらいはこくこくと頷きながら自分の席へと戻っていく。  それを見送ると、店長は柔らかい笑みでこちらを振り返り小声で呟く。 「ごめんね。あんまりああいうお客さんって、うちの店にそう来ることないんだけど」 「いえ、私がもっとしっかりしていれば……すみません」  ポンポン、と店長は私の肩を軽く叩いた。 「そうそう、羽黒くんもありがとね」 「会計に行くのに邪魔だっただけです」  そう言いつつも、羽黒さんのテーブルの上にはまだ電源が付きっぱなしのパソコンが広げられたままだった。それを見て笑いそうになる私を、羽黒さんがじとっと見つめてきたので何とか耐える。 「この店って基本、人手不足なんですよ。これ以上人が辞めたら落ち着いてカルボナーラ食べられなくなるのは困るので」  それは、私がまだこの店に必要とされていると思ってもいいのだろうか。もう少し、この厄介な体を抱えたまま生きていてもいいのだろうか。  いつしか冷え切っていた指先に、じわりと温もりが広がっていく。  こんな感覚は、初めてだった。 「まさか羽黒くんが店の心配してくれてたなんて驚きだよ」 「いいから、お会計お願いします。あ、新作デザートはもっとクリームの甘さを強くして良いと思います」  羽黒さんのコメントになるほど、と店長は頷きながらレジを済ませた。  その時、酔っぱらいたちの席で妙などよめきが起こる。 「うわ、何これ心霊動画じゃん!」 「マジだ、やべぇ! 腕とか透けてね!?」  土下座はしなくても、動画が撮られていることを忘れていた。  ドクドクと冷たいままの心臓が忙しなく鼓動を刻み、嫌な汗が全身から噴き出してくる。  ……嫌だなぁ。せっかくまだここで働いてもいいのかな、って思えたところだったのに。どうして、もう少し上手く回らないんだろう。 「あらあら、何か楽しそうね」  凛と透き通るような声がした。彼女が動く度に、まるでバラが舞うような幻覚が見える。優雅に微笑む唇はまさにバラの花弁のようで、バイト仲間の間では彼女のことを『バラの君』と呼んでいた。  彼女の佇まいに酔っぱらい達は、ほうと息を飲む。 「あら、動画を撮っているの? 私にも見せてくださらない?」 「え、えぇもちろん! すごいんですよ、この動画!」  そう言いながら酔っぱらいはバラの君にスマホを差し出す。彼女はふふっと笑いながら受け取り、画面を眺めた。 「あら、新人のバイトちゃんね」 「そう、その子をさっき撮ったら見てくださいよ! 体の輪郭がぼんやり透けて……」 「あ! ごめんなさい、動画止まっちゃったわ」  そう言いながらバラの君はポチポチと画面に触れる。手助けしようと男性が動いた時には、バラの君はスマホを彼に返していた。 「ダメね、普段あまりこういうの触れなくて……間違って消しちゃったみたい」 「えぇ!!??」  酔っぱらい達が驚きに再びどよめいた。 「嘘だろ! あれネットに流したら絶対バスったのに!」 「ちょっとあんた、何してくれて……!」  まさに彼らが掴みかかろうとした瞬間、バラの君は大輪の花を綻ばせるかのように微笑んだ。それを見た瞬間に、彼らは酔いとは違う熱に頬を染め、ぴたりと動きを止める。  それを確認すると、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。 「ごめんなさい、悪気はなかったのよ。許してもらえないかしら?」 「あ、い、いえ! どうせ消そうと思ってたので、はい! お気になさらず!」 「そう? 良かったわ、ありがとう」  彼らは夢見心地と言った表情のままバラの君が席に着くのを眺め、そんな様子を私たちも唖然としたまま見つめていた。 「あのさ、シャーベットにタバスコかけたら美味しいと思う?」  一番に正気を取り戻したらしい店長は、しかし謎の呟きを零した。  バラの君はこちらにすっと視線を向けると、小さくウインクをしてみせた。瞬きに合わせてバラの花びらが散ったような錯覚に陥る。  あとで私のおごりでもいいから、バラの君には何かワインでも奢らなければ。と、ほっと胸を撫でおろす。  そう安心した矢先、隣から肌に刺さるような空気を感じた。  そっとそちらへと視線を向ければ、羽黒さんは初めて見せる鋭い目つきをしていた。そのまま相手を射殺してしまえそうな目つきに、すっと背筋が冷える。  羽黒さんはきっとすごく心の綺麗な人なんだと思う。だからこそ、その視線の意味を考えることが恐ろしくて、私はそっとバラの君へと視線を戻したのだった。
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