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吸血鬼ですが、ここで働かせてください! 中編
イタリアン料理店なのにニンニクを使わない料理店『フラテッリ』。
まかないは出るし、シフトは夜だけでいいと言われているため、ニンニクは嫌いだが、トマトを血の代わりに主食としている吸血鬼の私にとってこれ以上ない優良物件の職場だ。
そこで働き始めてしばらく経ち、ようやくお皿とグラスの割る量は減ったものの、まだまだ覚えることはたくさんあった。洗い物も遅い、お客さんが大勢来ると焦ってミスが増える。店長に相談すれば、どちらも慣れだと言われてしまった。
まだ入ったばかりの私が他にできることと言えば、接客を向上させることだった。特に今、店長に覚えるよう勧められているのは……
「ワインを注文したいんだけど、どれがオススメかな?」
パスタの注文を終えた老夫婦は、ほわほわとした笑顔で私に尋ねた。
きた、と跳ねそうになる心臓を抑えながら、店長に試飲させてもらったワインを思い出す。五感を鈍感にして生活している分、味覚には自信がなかった。それでも、要は組み合わせと、ワインの特徴を覚えられればいいと店長は言ってくれたのだ。
風味が甘いのかすっきりしているのか、肉と魚ではどちらに合うのか。お客さんのワインの好みに合わせたり、注文しているメニューに合わせてオススメしたり、とお店が提供できるワインが決まっていれば、最悪覚えれば何とかなる。そのためにも、期間限定でオススメしているワインは優先的に覚えるように言われていた。
今注文されているのは牛ロースステーキ。それには確か、赤ワインが合うはずだ。
「オススメでしたら、こちらのスペイン産の赤ワインなどいかがでしょう? 牛ロースステーキと合わせたら、より美味しいかと」
実践に踏み切るのはこれが初だった。覚えていない頃は、ただオススメしているワインのポップを見てもらうように勧めることしかできなかったけど。
「へぇ、スペイン産ねぇ……」
老夫婦は顔を見合わせ、ポップをまじまじと見つめる。一瞬広がる沈黙に鼓動を逸らせていると、二人はにっこりとした笑顔で私を振り返った。
「じゃあ、そのグラスを二杯で」
「かしこまりました……!」
噛みそうになりながらそう告げ、そそくさとキッチンに戻っていく。
「て、店長!オススメできました。グラスが二杯です」
何とも言えない感動に震えそうになる唇で告げると、店長は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「おぉ、良かったね! 牛ロースステーキか。うん、悪くない組み合わせだと思うよ」
「ありがとうございます」
「朱希ちゃん、物覚え良いもんね。その調子でどんどん勧めちゃって」
物覚えはどちらかと言えば悪い方だ。ただ、ワインだけは親が好きということもあって、全く未知の存在ではない。それが、少しだけ助かっているような気がした。
その時、店の扉が開く。やってきた黒ずくめの姿に、ついはっとしてしまった。
羽黒さんが今日も仕事帰りらしいくたびれた姿でやってきたのだ。
「一人です」
「あ、こちらのお席にどうぞ」
六番テーブルは羽黒さんの定位置だった。慣れた動きでそこに座ると、彼はメニューも見ないままカルボナーラの大盛り、温泉たまご乗せを注文する。
そういえば、カルボナーラは白ワインだった。クリームでこってりしているから、少し爽やかな味わいのものがいいかもしれない。しかし、羽黒さんがお酒を飲んでいるところは見たことがなかった。成人はしているだろうから、頻繁にお酒を飲まないのかもしれない。
メニューを手持ちの端末に打ち込み、キッチンに戻ろうとした時だった。いつもならすぐに携帯をチェックし始める彼がぼんやりと壁のポップを見つめている。ポップを目で追うと、お酒のメニューが並んでいた。
「良かったら、お酒も注文されます?」
「え……」
ポカン、とした彼にさすがにお節介だったかと口を噤む。前回の事件があって以降、何となく彼とは距離が近くなっているような気がしていた。だからと言って、少し踏み込みすぎかと逃げ腰になる。
「あ、な、何でもないです!」
「いえ……じゃあワインのグラスを」
今度はこちらがえ、と声を漏らしてしまいそうだった。戸惑いながらも、先ほどまで考えていたワインを勧める。小さく頷き返した彼に、再びそそくさとキッチンに戻った。
「あれ、羽黒くんがお酒飲むなんて珍しいね」
「あ、はい。勧めたら注文してくださって……」
「へぇ〜」
なぜか店長はニヤニヤしながらカルボナーラを作り始める。
その笑みの意味を考える余裕もなく、ただ注文されたワインを冷蔵庫から取り出す。蓋を回すと、パキリと初めて開く音がした。そのまま薄く黄色に色づいた雫がトポトポとグラスに注がれる。冷えたワインは、そのままグラスに小さな水滴を生み出した。
グラスをテーブルに運ぶと、しばらくしてパスタも出来上がる。キッチンからちらりと羽黒さんの様子を確認していると、パスタを頬張った口に続けてワインを流し込む。それから一拍置いて、彼の口元に小さく笑みが浮かぶのが見えた。
あれはもしかして、美味しかったのだろうか……。
「朱希ちゃん」
「ひゃいっ!?」
突然声をかけられ、肩を跳ねさせながら振り返る。相変わらず店長は気配を消すのが上手い。にこやかに微笑みながらも、物言いたげな視線には覚えがあった。
「私、また何か間違えたでしょうか……」
「うーん、それがねぇ。そのワイン、他に空いてたボトルが一本あると思うんだけど……」
「え!?」
慌ててドリンクなどを冷やしている冷蔵庫を確認する。すると、奥深くに確かに同じラベルの開いたボトルがあった。それを見つけた瞬間、ひゅっと息を飲む。
グラスで出すワインは、ボトルを一本開けると空になるまでは注文がある度に同じボトルから注ぐことになっている。ワインは開けると酸化して、少しずつ味が変わってしまうのだ。
「す、すみません。気付かなくて……」
「まぁ、オススメしてるワインだし、すぐに出るだろうから大丈夫だとは思うけどね」
店長の優しいフォローも怒鳴られないだけ全然マシだが、申し訳なさに苛まれる。同じミスをしなければいいこと、そう自分に言い聞かせながら何とか気持ちを切り替えようとした時だった。
「お会計」
「あれ、羽黒くん今日はゆっくりしてかないの?」
ふと見れば、羽黒さんがキッチンの出入り口にあるレジまでやってきていた。店長はテキパキと会計を済ませながら羽黒さんと世間話を始める。
「急に呼び出しが来たんです」
「あぁ、なるほど」
もう日はとっぷりと暮れているのに、これから呼び出しなんてやはり雑誌編集さんというものは忙しいのだろうか。感心しながら聞き耳を立てつつ、間違えて開けてしまったボトルに添える用のメモをしたためている。
「あぁ、今日珍しくお酒飲んでくれたでしょ。ありがとね」
そういえば、これから仕事に戻るって人にお酒を勧めてしまったけど大丈夫だったのだろうか。ふと気になりながら羽黒さんの方を見れば、前髪で隠れているはずの目がこちらを向いているような気がした。
目が合ったと気付いた瞬間、ドクンと心臓が跳ねたような気がした。彼のことを意識しすぎると、どうしても血の匂いに惹かれそうになる。そんな目で見たいわけではないのに、と平常心を保とうと静かに口で息を繰り返した。
「美味しかったです、そのワイン。でもさっき間違えたとか何とか」
「あ、ワイン自体は何も問題ないですよ! 私がちょっとミスをしてしまって……」
店長は事のあらましを話すと、彼は小さく頷く。
「じゃあ、俺がボトルキープしていいですか?」
「いいかもね。いつもカルボナーラだし、合わせるならピッタリだよ」
ボトルキープは、その名の通りお客さんが買ってくれたワインボトルをキープし、また来店した際にはそこからお酒を提供するシステムだ。ボトルネックに名前を書いたタグをぶら下げて、ボトルキープ用の冷蔵庫に保管しておくのだ。
羽黒さんと店長が繰り広げる目の前の出来事についていけていなかった。店長は会計を追加してボトル分まで請求している。呆然と見ていた私に、店長は真新しいタグを渡すように促した。
一緒にボールペンを渡せば、羽黒さんはさらさらとペンを動かす。『羽黒玄珠』と書かれたタグに、小さく首を傾げた。
「羽黒、げん、しゅ?」
「しずみ、だ」
名前のやりとりには慣れているのか、すぐに答えが返ってきた。
羽黒玄珠、綺麗な響きだと思った。まるで、夜闇の中を流れるせせらぎのような名前だとじっと彼の文字を見つめてしまう。
「一ヶ月間、でしたよね」
「あ、はい。またカルボナーラと一緒にお出ししますね」
「……お願いします」
妙な間を持たせながら、彼はタグとボールペンを私に差し出した。その間について深く考えるよりも先に、伸ばした手で彼からタグを受け取っていた。
タグを受け取るまでは良かった。その後渡されたボールペンから、ふわりと漂ってきた香りに目の前の景色が歪む。見れば、彼が触れていた箇所に薄っすらと血が滲んでいた。
咄嗟にボールペンを手放しながら口元を抑えるが、ふらついた体は近くの台を掴む。全身から冷や汗が吹き出した。心臓は早鐘を打ち、呼吸をする度に喉が乾く。
「やっぱり、吸血鬼だったんですね」
冷たく言い放たれた声は、それまで聞いたことのない羽黒さんの声だった。こちらを見下ろす視線は、少し前にバラの君に向けられていた相手を射殺してしまいそうな鋭利な視線と似ている。
あの時は考えることを放棄してしまったけれど、この人はきっと、吸血鬼が嫌いなのだ。だからこそ、そんな視線を向ける。綺麗な心を持つ彼の、純粋な敵意が刃物のような視線と化す。
吸血鬼を憎む人間は、過去に吸血鬼に家族や大事な人、もしくは自分自身を傷つけられた人が多い。そうでなければ、本当に吸血鬼の存在を信じている者など少ないのだ。そして、そのような人間がこうして吸血鬼に臆せず立てるということがどういうことか。点だった事実が結びつき、やがて繋がって一つの結論を導き出す。
彼はきっと、吸血鬼ハンターだ。
自分たちのような鬼がいれば、それを狩るハンターもいる。そう父たちから聞かされていた。まさか、自分が遭遇することになるとは思わなかったけれど。
「私は、人なんて襲ったこと、ないです……」
頭を過ぎった言葉は必死の弁明だった。私の一言に、羽黒さんは歯を食いしばる。そんな彼の仕草が、私には何かを耐えようとしているように見えた。
「だけど、今だって俺の血を嗅いで本能が暴走しそうになっているでしょう。そんなもの、いつか歯止めが効かなくなる可能性だってある……!」
「今までも、耐えてきました。これからだって、そのつもりです!」
「そんなの根拠になりませんよ……」
絞り出すような彼の声に、ぐっと声が詰まる。
それは、客観的に見れば確かに証拠にはならないかもしれない。でも、それ以外にどうやって説得しろと言うのだろう。確かに人の血の匂いには反応してしまう。尋常でなく喉も乾く。それでも、人を襲いたいなんて思わない。目の前の誰かを犠牲にしてまで生きることが許されるほど、私はあるべき存在だとは思わない。いや、思えないのだ。
それでも、何とかこうして生きている。母は普通の人間だったけど、私のことを愛してくれて、今でも心配してくれている。この店だって、ようやく自分がいてもいい場所なのではないか、と思ってしまったのだ。それに、私は……
「私は、羽黒さんとも仲良くなれるんじゃないかって……ちょっと考えちゃったり、したんです」
「……!」
羽黒さんが目を見開く。そのまま何度か口を開けては閉じてを繰り返した。何を言いかけているのか、また突き放されるようなことを言われてしまうのだろうかと思うと耳を塞いでしまいたかった。
クレーマーから助けてもらった時、初めての表情を見せてくれた時、さっき勧めたワインを飲んで嬉しそうにしてくれた時。私はもっとこの人のことを知りたいと思った。
だから、この人にだけは自分の正体なんてバレて欲しくなかったのに。
「はいはい。ここ、俺の店だからね」
店長が私と羽黒さんの間に割って入る。
「羽黒くん、確か呼び出しくらってたんじゃなかったっけ? 早く行かないと怒られるんじゃない?」
勢いを失くしていく羽黒さんに対して、店長は相変わらずのペースで言葉を続けた。その言葉を聴きながらも、目の前の店長の顔を見られなかった。羽黒さんとの会話はもちろん店長も聞いていたはずだ。一体、どう思っているんだろう。
私はもう、この店にいられないのかもしれない。そんな予感が、胃を重たくしていくのだった。
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