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吸血鬼ですが、ここで働かせてください! 後編
今日も今日とてニンニクを使わないイタリアン料理店『フラテッリ』は笑顔で溢れている。
ワインも出るし、パスタだけでなく一品料理もよく注文率も高い。ちょっと静かな時間もあるけど、それはそれで好きだった。
洗い終わったワイングラスを磨きながら、ちらりとキッチンに立つ店長を盗み見る。鼻歌を歌いそうな調子でフライパンを煽っている彼に、安堵とも憂鬱ともとれない溜息が密かに溢れた。
あの日、羽黒さんを最後に見た夜。私が吸血鬼だと羽黒さんにバレた日の夜だ。あの時、確かに店長は近くにいた。話を聞いていたはずだ。それなのに何も言ってこない。もしかして、吸血鬼というものを信じていないのだろうか。でも、あんな反応を見せた私が少なくとも普通であるとも思われてはいないはずだ。
店長は、一体どこまで知っているのだろう。
ただ、それを自分から聞くのも恐ろしかった。やはり、この店で働けなくなるのは辛い。生活がかかっているというのももちろんあるが、少しずつ仕事も覚えてきて、他のバイトの人とも仲良くなってきた。叶うならば、もう少しここで働いていたい。それも、雇い主である店長にダメだと言われたら元も子もないのだけれど。
チン、と店員を呼ぶベルの音が響いた。返事をしながら向かうと、今日も優雅にトマトパスタを食べるバラの君がこちらに笑顔を綻ばせる。
「ボトルキープしていたワインがあったと思うんだけど、それをいただける?」
「はい、かしこまりました!」
バラの君がボトルキープしているのは一輪の赤い花が描かれているシンプルなラベルのボトルだった。彼女らしいな、と思いながら冷蔵庫にしまったものだからよく覚えている。
他にもいくつかワインのボトルが並んでいる冷蔵庫の中からバラの君の本名である茨原、と書かれたタグのかかったボトルを取り出す。取り出したその奥に、見覚えのあるボトルを見つけて、はたと手が止まった。
「そろそろ三十日か……」
私がオススメして買ってくれた羽黒さんの白ワイン。ボトルネックにかかったタグには、角ばった字で『羽黒玄珠』と書かれていた。フラテッリでのボトルキープは基本的に三十日間と決まっている。お店に来ているならつゆ知らず、あれ以降羽黒さんがうちの店に顔を出したことはない。
やはり、私のせいだろうか。吸血鬼の私が仲良くしたい、なんて気持ち悪がられてしまっただろうか。それとも実は、こうしている間にも私を狩るための準備を進めていたり……とか?
ぞっと背筋は冷えて、不穏な考えを掻き消すように冷蔵庫の扉を閉める。グラスと一緒にワインボトルを手にバラの君へと持っていけば、ついっと彼女の視線が私を捉えた。
「元気ない?」
「え……」
突然の質問に言葉が詰まった。戸惑う私ににこっと柔らかい笑みを浮かべて、バラの君は柔らかく言葉を続ける。
「お節介かな、とも思ったんだけど。最近元気がないように見えたから」
「そう、ですか?」
どうにか浮かべようとした笑みは少し引きつっていた。確かに羽黒さんとの一件以来、お店を追い出されるのでは、という心配もあったが、それ以上に彼が来なくなってしまったことも胸に引っかかり続けていた。それが何故なのかは具体的に言うのは難しいけれど、いつも平日の夜にやってきて六番テーブルに座っていたあの姿が見れなくなってしまったのは寂しい。それだけははっきりと言えた。
しかし、そんなに分かりやすく顔に出ていたのか、と思うと少し恥ずかしい。そして、私の元気がない原因にも見当がついているのか、六番テーブルの方へとバラの君は静かに視線を向ける。ここまでバレていては黙っている方が無駄に思えてくるし、いっそ話した方がすっきりしそうだった。
「彼と仲良くなれたら、と思っていたんですけど……嫌われてしまったみたいで」
吸血鬼、なんて単語は出せずともこの人にはそれだけで伝わるような気がした。
私の話を聞いたバラの君は、一瞬美しい顔に影を落とす。そして、トマトパスタをフォークに一巻きしながら、困ったような笑みを浮かべた。
「自分一人だけの問題ではないから……自分がどれだけ頑張っても、という時もあるわよね」
寂しそうに、噛み締めるように彼女は呟く。
彼女の言うように、私一人だけでどうこうできる話ではなかった。向こうが嫌っているのなら、こちらがいくら親しくなりたいと思っていようと逆効果にしかならない。
「でもね」
いつの間にか俯いていた私に、バラの君は真紅の花弁のような唇で綺麗な弧を描く。ドキリ、と心臓を跳ねさせながら見つめれば、凛とした彼女の声が言葉を紡いだ。
「私はあなたのそういう気持ちはとても素敵で、応援したいって思ってるわ」
応援している、彼女の言葉がひどく温かかった。どう返していいか悩み、私は控えめにありがとうございます、とお礼を言った。それで合っていたのかは分からないが、バラの君はそんな私に母のような、姉のような優しい眼差しを向けてくれるのだった。
無事にその日の営業も終わり、床の掃き掃除をしている時だった。いつもよりも早くレジ締めを終わらせたらしい店長は、腰に巻いたエプロンを解きながら声をかけてくる。
「朱希ちゃん。今日、この後暇?」
「今日ですか? 特に予定はないですけど」
「じゃあさ、ちょっと飲みに行かない? 近所に良いワインバーがあるんだよね」
ワインバーと言われるとちょっと興味が湧く。基本的に日中は行動しないせいで、この辺りにどんなお店があるかほとんど知らなかった。
それに、これは店長が今私のことをどう思っているか聞くにもちょうど良い機会かもしれない。店長がお酒に強いのか弱いのか知らないが、少しでも酔っている状態なら冗談のように軽く聞いてみようかとも思った。
行きます、と頷き返した私に店長は嬉しそうに笑って片付けもそこそこに店を出ることになった。外まで仄かに光の溢れる一軒のお店が見えてきたのは、店長に連れられるまま歩いて十分と少しほど歩いた頃だった。
ログハウスのような外観のそのワインバーは、バーという言葉から想像していた店とは随分と雰囲気が違った。暖色系の光が壁の白い木板に反射して店内は明るく照らされている。入り口から店の奥に向かって伸びるカウンターのど真ん中に置かれた生ハムの原木が目を引いた。
「あ! こっちこっちー」
店の奥のボックス席の方から声がした。それに応えるように歩いていく店長の後に続きつつも、他の人が来るとは知らなかったため多少の戸惑いで足取りは重くなる。そしてさらに驚いたのは、店長に声をかけた男性の向かいにもう一人いたこと。
それは、突然の再開だった。
「羽黒、さん……」
向こうも向こうで私の姿を見て固まっている。どうやら、彼も私が来るとは聞いていなかったらしい。それなのに店長はさっさと席に座ってしまい、バーテンダーに私の分までワインまで注文してしまった。私に残された席は羽黒さんの隣しかないが、これほど与えられた席に座りづらいと思ったのは初めてだ。
羽黒さんは一応一人分のスペースを空けたまま固まっていて、余計にどうすべきか悩む。しかし、通路の狭い店ということもあり、このまま突っ立っている私は十分に邪魔だった。おずおずと隣に腰掛けるも、羽黒さんは無言のままふいっと視線を逸らす。
「て、店長、これは一体……」
「あぁ、今日は久しぶりに昔の仕事仲間と飲もうと思ってさ。そういえば、友達も来るって言うの忘れてたね」
白々しい店長に、さっと血の気が引いていく。嫌な予感がした。予感はしつつも、確認せずにはいられなかった。
「仕事というのは……皆さん、料理人なんですか……?」
むしろそうであってほしい、と思いながらの質問だった。しかし私は羽黒さんがそうではないことを知っている。店長の友人だという彼は可笑しそうに笑った。
「仕事仲間って言っても、裏の方だからな。昔は白辻も剥き出しのナイフみたいなやつだってくせに、今はこんなになっちまって」
「いやいや、むしろこれが本当の俺だから」
羽黒さんと交友のあったらしい店長に、いつかどういう繋がりか聞いたことがある。その時は、同じところにいた、と曖昧な答えだったが、つまりそれは……。
「店長も吸血鬼ハンターなんですか……?」
さっと血の気が引いていく。しかし、店長はそんな私の恐れを払うようにぶんぶんと手を振ってみせた。
「昔の話だよ。今はただのイタリアン料理店の店長って、それだけ」
それでも、今ここに吸血鬼ハンターという人たちが集まっていることは事実だった。彼らに囲まれて、実は私を狩るためにここへ呼んだのだろうか。
「わ、私は本当に誰も襲ってなんて……」
「お待たせしました!」
震えそうになりながら紡ぐ言葉を遮るように、バーテンダーが早速一杯目のワインを持って来る。店長はそれを掲げると、彼の友人らしい男性も合わせるようにグラスを掲げた。
「じゃあ、今日もお疲れ様!」
「え、あ、お疲れ様です……」
グラスを合わせ小気味良い音を鳴らすと、店長が目の前で白ワインを口に含む。そこからは本当に敵意というものを感じなかった。本当に狩るつもりはないのだろうか。お疲れ様、という言葉を額面通りに受け取っていいのだろうか。
「やっぱりこのワイン美味しいな。次のオススメにするのもいいかも。ね、朱希ちゃんどう思う?」
今から狩る相手に聞く質問とは到底思えない。むしろ、いつも通り過ぎる店長の言葉に半ば肩透かしを食らったような気持ちになりながら、恐る恐るワインを口にした。薄っすらと果実の甘みが鼻から抜けていく。多分、美味しい気がする。カルパッチョとかが合いそうだ。
「美味しい、と思います……」
「そう。良かった」
店長は穏やかな笑みでそう返してくれる。店長の隣に座る友人という彼も、ただお酒を楽しんでいるように見えた。
唯一私に刺々しいオーラを向けている羽黒さんは、ずっと険しい顔のまま目の前のチーズの盛り合わせを見つめている。
私を狩る気がないのだとしたら、店長が私をわざわざここに誘った理由は何なのだろうか。そう考えていくうちに、ふとバラの君の『お節介』という言葉が頭を過る。
もしかしてこれは、店長が与えてくれたチャンスなのかもしれない。
自分一人の問題ではない。確かにそうだけれども、私はまだあれから何も頑張っていない。だとしたら、頑張るべきはきっと今だ。
「あ、あの……もうお店、来ないんですか?」
「……」
恐る恐るではあるものの、彼にどうにか声をかけた。こちらに視線を向けてくる彼の瞳には、やはり鋭く冷たい光が宿っている。一瞬臆しそうになりながらも、ぐっとテーブルの下で拳を握りしめる。
「せっかくボトルキープしてるワインもありますし……」
それでも黙ったままの羽黒さんに、店長がふっと口を開く。
「そうそう。あれ、もうすぐ期限だから捨てることになっちゃうよ?」
羽黒さんの表情は変わらない。しかし、突然持っていたグラスを大きく煽ると残っていたワインを一気に飲み干した。唖然とその様子を眺めていると、突然彼は自分の服の袖を捲り上げる。腕に巻き付いていた包帯を彼が緩めた瞬間、辺りに広がる濃い血の香りにぐらりと視界が揺れた。
「は、……っ!」
心臓を鷲掴みにされるような衝撃だった。歯を食いしばり、血が滲みそうなほど手を握りこんで荒くなる呼吸を整える。
彼の包帯の奥に真新しい傷口が見えた。じゅくりと滲む血が鮮明に目に焼きつき、喉がどうしようもなく乾く。そのまま全身が干からびてしまいそうだった。
「俺は、吸血鬼の言うことなんて信じない。お前たちはこれが、大好きなんだろう?」
「違います……私、は……」
人なんて襲わない。襲いたくない。
でも彼の血を、どうしてこんなにも欲してしまうのか。今まで誰かの血を見ても、ここまでの衝動に襲われたことはなかったのに。
「そいつは、ちょっと特殊な血の持ち主なんだよ。人間には分からないが、お前たち吸血鬼からしたらご馳走みたいに感じるんだろ?」
店長の隣でそれまで和かだった彼が急に鋭利な表情を覗かせる。それは確かに、狩るものの眼光だった。
ここで私が何か危うい動きをすれば、おそらく間違いなく鉄槌が下るだろう。
血の匂いの根源である彼の腕、そこからゆっくりと視線を上げていく。霞みそうになる視界の中で、その時ようやく彼の顔を見た。
カルボナーラを食べている時の物静かな彼、バラの君や私に向けていた冷たい表情の彼。今の羽黒さんはそのどちらでもなく、ひどく苦しそうな顔をしていた。何かに怯えているような、縋りたいような、いつもの彼よりも随分と幼く見える顔だ。
羽黒さんを安心させたい。
そんな気持ちがふっと胸の泉から泡のように湧いてきた。
乾いて、苦しくて、叫び出しそうなのに、急に頭の中だけクリアになっていくような感覚。気付けば、そっと彼の手を握っていた。
「!」
ざわっと周りの空気が動く。店長の横にいた彼が、咄嗟に身構えるのを視界の端で捉えた。
「待て」
場をピタリと止めたのは、店長のよく通る一言だった。
私の握った羽黒さんの手は氷のように冷たい。そっと握れば、触れたところからじわりと熱が広がり緩んでいく。
「私は、絶対に襲いません。誰も、羽黒さんのことも」
安心させるように、言い聞かせるように羽黒さんの顔を正面から見据えて言葉を紡ぐ。何かを言いかけた彼の口はすぐに閉じられ、私の手の中で彼の指先が弛緩していった。
「そろそろ良いんじゃない?」
店長はいつもの笑みに戻り包帯に視線をやる。羽黒さんは決まりが悪そうに緩んだ包帯を手に取ると、そっと巻き始めた。
「羽黒くんも知らないわけじゃないだろう? 人に害をなす吸血鬼は確かに狩るべきだが、そうでない、しかし無視できないものは監視の対象とすることもできるって」
ハンターの間にそんなルールがあるとは知らなかった。羽黒さんが頷く前に、殺気を取り去った店長の友人は初めて顔を合わせた時のような和かに笑みを浮かべている。
「さっきので検査は概ねクリアだろう。監視役は玄珠でいいな。上にもそう報告しておく」
「え、俺が担当するんですか?」
「地区もそうだし、そもそもお前が見つけてきたようなもんだからな」
羽黒さんはどこか渋々という感じを残しつつも、拒否をすることはなかった。
これは一応、私は認められたと思っていいのだろうか。そう思うと、少しずつ嬉しくなってきて頰が緩む。全身にかいた汗がベタついて気持ち悪かったけれど、どうでも良かった。
「じゃあ、またカルボナーラ食べに来てくださいね」
そう話しかけると、羽黒さんは無言ながらも小さく頷き返す。今はそれで十分だった。
それからしばらくして、突然目の回るような忙しさが連日続いた。特に近くでイベントをやっているわけではないし、空前のパスタブームが起こったという話も聞かない。
「この雑誌を見て来たんです」
やってきたお客さんが口を揃えていうのは、とある雑誌の記事を見たとのことだった。
曰く、駅近で立地良しのイタリアン料理店は翌日も安心のニンニク不使用。パンチがないかと侮るなかれ。そこにはシェフの工夫が凝らされたパスタに一品料理、お供には最高のワインたちが待っている。
「……なおオススメはカルボナーラって、この取材記事適当じゃないですか? うちのお店の売りはトマトクリームパスタなのに」
「まぁ、編集さんの主観は入ってるかもね」
そう言って店長は嬉しい悲鳴をあげながら、今日もせっせとパスタを作っている。
休憩時間中にお客さんが持って来て忘れてしまった雑誌にざっと目を通していた私は、最後の一文を見て目を瞠った。
『著・羽黒玄珠』
「本当に主観だった……」
カラン、とドアベルが鳴り新たなお客さんがやってくる。平日夜に現れ、必ず六番テーブルに座る彼は、今日も変わらず全身黒ずくめだった。ちょうど休憩時間も終わり、私は彼の元へと歩み寄っていく。
彼の表情は変わらない。同時に、以前のような敵意も今は消えていた。
「ご注文は?」
「温泉卵のせカルボナーラ、大盛りで」
今日も変わらない注文に慣れたものだと端末に打ち込んでいく。
「キープのワインも……」
ぼそりと呟かれた一言に大きく頷き返す。ずっと減らずに残されていたワインが少しずつ減っていく様を見るのが、今の私にはひどく嬉しく思えるのだった。
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