一 序幕の辞  

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一 序幕の辞  

西班牙(スペイン)風邪猛威 ――遂に東海以北壱拾万人死者超云々… 一九一九年(大正八年)。政友会出身の平民宰相原敬が内閣を発足して二年目。一月には文芸協会の松井須磨子が自殺。三月には朝鮮で独立運動弾圧事件。六月には巴里でヴェルサイユ条約調印。 ――世の中の流れは確実に加速していた。 しかし半世紀前まで御門の住まう都であったこの京の内は、 時の流れは緩やかで、もしや止まって仕舞っている瞬間があるのではと孝平は思う。 西園寺孝平二十二歳。新都東京の「速さ」に追いつけず、京都へ逃がれて来た京都帝大の甲類(法学部)二回生に席を置く男である。今は京都国家警察の佐倉枝盛警視宅の二階をもう一人の居候と間借りして居た。 新聞の大きな見出しを見据えながら、 「賢き帝都の辺りでは、西班牙風邪が大流行だそうですよおかあさん。もう今年だけで十万人も亡くなっているとか…」 「まあ、恐いわぁ」 孝平が広げる大阪毎日新聞の記事の見出しをちらりと横目で見やりながら、店子に「おかあさん」と呼ばれている佐倉警視の妻女露は卓袱台に並んだ茶碗に京番茶を注いでいく。 茶の間に独特の酸い香りが仄かに立ち上った。 「東京の御家族が心配でしょう孝平はん。連絡とらはったら。旦那さまに署で自動電話借りて貰うて…」 「明日にでも気を付けるように手紙を出しますよ。まあ幾ら予防しろと云っても風邪の菌というやつは見えませんがね」 「困ったお人やなあ。この二年盆暮れも帰らんと。一度位お顔見せに東京に戻らはったらどうなの――あら、豆助?誰か御帰り?」 卓袱台の下で蹲っていた三毛猫の豆助がするりと足元から抜け出してきた。 なぁ。と露に返事をするようにひと声鳴いて見せる。 「ええ?豆助御前そんなところに居たのか」 孝平の横で知らぬ顔で畳に爪を立てて伸びをひとつすると、居間を出て玄関の方へ向かう。 只今戻りました、と玄関の引き戸を開ける音と共に声が上がった。 続いて奇矯な猫撫で声。
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