一 序幕の辞  

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「おやおやマメスケ君!出迎えてくれたんですか!只今帰りましたよぉ」 急須を置いて露が立ち上がる。 「まあまあ、正人はんやわ。湯呑みもひとつ持ってきましょう」 佐倉家のもう一人の居候、酒々井正人二十五歳。同志社英学校英文科三回生である。 実家が博多の貿易商というが、殆ど毎日洋装に革靴という出で立ちは、京都の内では珍しい部類だろう。 「マメスケ~」 正人に呼ばれて『なぁ~』と豆助が返事する声も聞こえる。 誰が戻ったか判り易くて良いのだが大の男が猫にからっきしというのもどうだろう、と孝平は思う。 上等な上着に毛が付くのも厭わず三毛猫を抱き上げると、正人は不可思議な猫撫で声を上げ続けて頬擦りしながら居間に現れた。 豆助は餌をくれる露といつも構ってくれる正人には懐いて居るが。孝平のところには全く寄り付かない。 「お帰りやす」 「御帰りなさい正人さん」 「只今戻りました。――孝平、それは…大阪毎日か?読み終えたら私にも貸してくれないか」 豆助を畳の上へ戻して卓袱台の傍に座を確保すると、孝平の読む新聞を覗き込んだ。 湯呑を携えた露が笑いながら暖簾を潜って現れる。 「あら珍しい。夢心地の正人はんも西班牙風邪に興味があらはるの?」 いや私は、と正人がはにかむように答えをはぐらかすので、孝平は代わりに応えた。 「違いますよおかあさん。正人さんはこちらがお目当てで――ね?当たりでしょう」 音立てて頁をめくると、被り笠を今にも手で掻き揚げようとする浪人風の男の挿絵を指差す。新進の時代作家吉川英治が新しく大阪毎日に連載小説を始めたのだ。 「――解っているならそんなに意地悪そうに言わなくてもいいじゃあないか」 「正人さんが云い難そうだから俺が代返してあげたんです。何時も巴里だ維納だ倫敦だという話ばかりする貴方が時代小説好きなんて知れたら、枝盛さんが黙って居ないでしょう」 「まあま、うちのひとの嫌味は職業柄ひつこいですからね。心配ありまへん。うちは絶対云いしませんからあの人の居ない間にゆっくり茶でも啜りながら読みなはれ」
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