一 序幕の辞  

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「?おかあさん。枝盛さんは今日も遅いのですか?」 「なんや町尻小路の方の町屋の火付けの事件やら、祇園の外れで芸妓はんがかどわかされた事件やらでここのところ引っ張りまわされて。今日ももしや遅いやも知れません」 最近はほんに物騒な話ばかりで。うちの人は平気かと思いますわ、と露はしみじみと番茶の湯呑みを抱えて云う。正人は頷いて、 「枝盛さんは警官にしては人が良すぎますから。酷い事件ばかりでさぞかし心痛でしょうね」 「そら違いますわ正人はん、うちのひとぼんやりやから、犯人捕まえられんで御給金頂いたら困るんやないの云うてるんです」 と軽口を叩いてから、 「そろそろ水撒きしてきますわ」 京も暑い時期を前にして、日に幾度か水を撒かないと直ぐに庭の土の表面が乾いて仕舞う。 夕方前に水を撒けば、夜に窓から入る風が冷えて幾分心地良い。 露は手桶と柄杓を勝手から持ち出すと、庭へ降りて行った。 残された二人は新聞を読んだり茶を飲んだりと思い思いに寛ぐ。 膝の上に戻ってきて丸くなっていた豆助を手のひらで撫でまわして居る正人が、何時にも増して浮かれた様子であることを見抜いた孝平は、 「――正人さん、今日なにか良いことでも在りましたか?」 判るかい?と正人は破顔して答えた。 「実はね、フランス語の講師に来て居る方から、巴里万博の公式カタログ、やっと譲って貰えたんだ」 一九〇〇年の第一回万博である。もう二十年も前の話だ。 「そんな古いカタログなど貰っても仕方ないでしょう」 「まあそう云わずに見て御覧よ。――悪いが豆助、あちらで待って居ておくれ」 カタログに悪戯されない為に此処まで気を配るとは相当な入れ込み様である。 なぁ、と豆助は名残惜しそうにひとつ鳴いてから、縁側へ去って行く。正人は薄い冊子を孝平に差し出した。 表紙はセピアと黒の二色刷りの絵。 薔薇をモチーフにした楕円形の枠の中に、女性が居た。足元まで覆い隠すような裾は、複雑で細微を極めたドレスの(ドレエプ)が実に丁寧に素描されて居る。 花束を左指先で摘み斜交に構えたパリジェンヌは、少し肘を張り腰に右の指を沿わせて椅子に座っていた。 宝石で飾る代わりにうねるように華やかに結い上げた髪。引き結んだ唇。笑顔は無くとも凛として美しい。見下ろすように顎を心持ち上げて、こちらにアピールしている格好であった。
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