一 序幕の辞  

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前世紀末から続いている流行りの一派で曲線と生物を主なモチーフにして『実用的な芸術』を表現する集団をアールヌーボーと云うと正人からしきりに聞き覚えさせられて居たので、これもその一つなのだな、ということは孝平にもわかった。正人は色々な所で作品を手に入れようと苦心しているそうだ。 隅にMuchaとサインがある。 「――ムハ?と読むのかな」 「そう。ミュシャ、と英語読みで呼ぶ方も居るね。アルフォンソ・ミュシャだよ。――どうだい、綺麗だろう」 アールヌーボーというと、孝平は短歌雑誌明星の表紙の絵程度しか見たことがない。洗い上がりの髪を裸体に張り付かせたまましな垂れて座って居る女性の絵を、 『溺れ掛けて危機を脱した鬼気迫る女の絵』 と評して至極正人に不平を言われてしまった。未だこの国のアールヌーボーは真似でしかないから仕方無いのかなと正人は諦めた口調で言って居たが。 孝平はミュシャの絵の細部を目で辿るように近づけたり、腕を伸ばして遠くから見たりを繰り返してから、 「これは凄い――話には良く聞いていたけれど、本物は初めて見ますよ」 「彼はね、ビスケットの箱から、カフェのメニューから、こんなカタログまで、芸術に変えてしまった人なんだ。――だからこれも、貴重な『作品』なんだよ」 こんなに真面目に語る正人は珍しい。 「確かに。これならば俺も素直に美しいと思えます」 「そうだろ?初めて御前を納得させたな」 苦労して手に入れたドーム兄弟のランプを持って来て見せれば『此処には電気も無いのに邪魔なだけでしょう』と言われ、ビアズリーの描いたイエローブックの表紙を見ては、『女の笑い方がいかがわしい』と眉を潜めて一蹴してきた。凡そ美しさという観点からは物を見ようとしないリアリストの孝平をようやく陥落させて正人は満足そうに笑った。 「――まあま、偉い別嬪はんやわあ。何処のお国の御方?」 露が外した襷を捻って纏めながら話の輪に加わってきた。 「仏蘭西国は巴里の女性ですよ。おかあさんほどでは在りませんが、美しいでしょう」 調子の良い正人を手を振って嗜めてから、 「口車には乗りしまへん。でも――おばんさいは、正人はんの好きな茄子の揚げ出ししましょぉか」 そうなら茄子を分けて貰うて来ましょ、と露は立ち上がると、支度を整えて勝手口から慌しく出かけて行った。
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