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二
その夜スタンダールの原書を図書館で読み耽り、ふとそぞろ歩きに誘われる気分になった正人は、市電に乗らずにぶらぶらと賀茂川の流れにそって帰ることにした。
正人が学ぶ同志社英学校は通りを挟んで京都御所の北隣に構える。
そちらから京の町を南北に貫く加茂川を渡り東へ向かうと歩いて十分程度で孝平の通う京都帝国大学に着く。
さらに加茂川の流れにそって南へ下ると、三十分程度で二人の住む佐倉警視の町屋があった。
山の端に日が消えて既に一刻。
すっかり暗い川の端は月明かりが川面を照り返す反射でやっと道との境を教えてくれている。
人気も無く気味が悪いので早く帰ろうと急ぎ始めた時。
高下駄をからころと鳴らして向こうから歩いてくるのは、どうやら舞妓であった。
男の身でも寂しい道を女が独り明かりも点さず行くのであろうか。
目に鮮やかな薄紅色の振袖に、だらりの帯は金糸を施した黒いもの。
夏の簪の藤が結い上げた黒髪に挿されて揺れている。
『柳の下、泥鰌の代わりに藤娘、ねえ』
若柳の淡い緑に振袖の色が良く映えて、正人の美的感覚が擽られる。
「――」
これから何処かの料亭で旦那集と一席遊ぶのであろう。
それにしては、こちらに寄せる視線が何か必死に訴えて居るような気配もある。
他の芸妓と供連れではなく珍しく一人で歩いて居るからであろうか、男衆が傍で舞妓を庇うように川端の方へ寄って行った。
舞妓の高下駄のせいも在るだろうが、随分と背の低い男衆であるので、近付くまで正人には姿が見えなかったのだ。
こちらが歩き去るのをじっと留まって待っている様だ。
人通りも無い小道の川柳の下。
こちらの目を避けるように佇む姿。
あれが男衆でないならばどう見ても娘をかどわかす現場にしか見えぬ。
もしや佐倉警視が頭を悩ます誘拐魔ではないのか?
意を決して正人は声を掛けた。
「こんばんはお嬢さん、歩くには善い晩ですね。これから御座敷ですか」
振り返った男は帽子を被り手拭いで鼻の上まで覆った異様な風体であった。
舞妓は声も無くただ男の傍で体を強張らせて立っていた。
匕首が帯の下の腹に突きつけられているのだ。正人は唸った。
「ううむ、どうやら――違うようだ…」
何とも弱弱しい正義の味方である。
「御前、昨今府内で流行の…娘ばかり狙う勾引だな?」
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