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「――」
はいと応える馬鹿は居ないだろうと判っていながら、正人はこんな場でどう渡り合ったら善いのか判らずに何時もの調子で語りかけるしかない。
「その娘で何人目だ――金目当てなら嫁入り前の娘ではなくて商売人でも選んだらどうだね?其の娘は哀れにも己の芸で懸命に身を佐くて居る身だろうに、御前にかどわかされてはその金子すら手に入らんのだよ。気の毒ではないか」
説得力の在るような無いような、緊張感に欠けたやりとりである。
「御前を追う積もりは無いから娘を置いて立ち去りなさい」
小男は舞妓をその場に引き倒す。急に開放された娘は高下駄が脱げてか細い声を上げる。
舞妓を助け上げようと駆け寄った正人に、
くるりと背を向けた男は諦めたかのように見えたが、
『違う!』
正人は舌打ちした。
思惑通りに行かなかった腹いせがこちらに来る。
振り返り様に繰り出された回し蹴りを避けようと一歩下がった。
腹を狙ったのであろうが小男の足の甲は長身の正人の腿の脇にやっと届いた程度であった。
「――っ」
教本を入れた鞄で咄嗟に庇って衝撃は和らいだものの、足元がよろけて仕舞う程の相当の馬鹿力。
匕首ばかりを気にしていると体術だけでやられてしまうかもしれぬ。
革鞄を放り出した正人は脱いだ上着の襟首を握って、相手が距離を測れぬように翳した。まるで西班牙の闘牛士。
幼い頃通って居た道場で嗜む程度の記憶しか武道を知らず、防御は得意だが反撃する術がない。
『闘牛士だってソードを持っているのに』
こんな極限状態でも不思議と正人は要らぬことを思い巡らせてしまうのだ。
良く云えば腹が据わっているのだろうか。
突き出された匕首に上着を被せると、正人は渾身の力を込めて男の腕を打ち据えた。
溜まらず手放された匕首が落ちる。
凶器を失ってこれまでと思ったか、男は腕に巻きついた上着を振り払って逃げ出した。
覚悟を決めていた矢先に逃げられた正人は、
「え?――うわぁ!」
突き飛ばされた拍子に強かに石畳に脚と腰を打ちつけてしまった。
賊はそのまま逃げて行く。
軟弱を自負する正人には追い掛ける気力も無い。
それにあれだけ打ち据えても声ひとつ上げぬ男だ。本気にさせたら恐ろしいことになるに決まっている。
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