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三
玄関の引き戸が開く音。枝盛の声が家の奥まで響いた。
「客人を御連れしたぞ、おーい」
前掛けを外しながら、慌てて露が迎えに出る。
「はいはい、御出でやす。――まあ、偉い別嬪さんやわあ」
浅葱の振袖の裾をそっと片手で引き上げ、高下駄にこい紫のだらりの帯。
元の肌の白さを損なわないよう、白粉は出来る限り薄く刷かれている。大きな瞳の縁に恥らうように差した紅。
京の女性なら一度は憬れる、舞妓姿の娘であった。
「お初に御目もじいたします。俵屋夢乃と申します」
「これは御丁寧に…家内の佐倉露で御座います」
「先までおとついの事情を聞いててなあ、家が酒々井君の大家と聞いて、是非改めてお礼をしたいそうや。――酒々井君は?」
「未だ英学校ですよ。何でもスタンダアル?――が読みさしでどうも気に成るから講義の後も図書館に寄って読んでくる云うてはって――本の名前聞いても何のことやらさっぱりですわあ」
「それは人の名前やな。――折角来て貰うたのになあ」
「いいえ。急に伺うたうちがいけまへん。改めて御挨拶に参ります。これから近くでお座敷呼ばれますし…」
「でもまだ時間ありはるでしょう?脚休めに少し上がっておくれやす。正人はん戻らなかったら、置屋まで人力呼びますし」
「直ぐ其処の料亭や。西園寺君に送って貰お。――居るんやろ?」
「孝平はんも未だですわ。でもそろそろお戻りの時間で…」
声に応じるようにがらがらと引き戸があけられ、
「只今戻りました…っ」
自分に視線が集まって、少し吃驚した様子で孝平が家に入ろうとした歩を戻して後ずさった。
「――如何したんです、玄関先で」
「そうそう、此処で揉めても仕様が無い。夢乃さん、遠慮無く寄って行って下さい」
「そうなら――御言葉に甘えさして貰います…」
窓から差し込む日が徐々に弱弱しく欠けて行く。
眼鏡を掛けてもアルファベットの小さな活字を追うのが難しくなって来たので、最終章は後日に残そうと正人は家路に着くことにした。
暗い部屋から外に出ると、意外にも外は未だ明るく、視野が広がったように思える。一昨日痛めた脚が未だ時折痛むが、駅までならば歩けないこともない。
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