ドリューの場合――1900年 船の上

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「おー。なんだ。お前、甲板に出てきたのか」  ドリューが声をかけると、その小さな影は振り返って露骨に嫌そうな顔をした。  腰ほどもある長い髪、東洋の不思議な色合いをした服。骨格からして違う生き物のように感じる幼い子供――ムオだ。 「うるさい」 「まだなんも言ってねえだろ」  船に当たって海が弾ける。きらきらと雫が光るのを、じっとムオが見つめていた。大きな目、長い睫毛。 「そー、ツンケンすんなよ」 「……うるさい」 「うるさいしか言えねえのか? 英語……はお前の国の言葉じゃねえもんな」 「当たり前だろ。天籟語と、イギリス語、ドイツ語は勉強した。広東語も話せる」 「カントン?」 「……答える意義を感じない」  ムオは黙り込んでしまった。その表情は明らかに落ち込んでいる。 (まぁ……無理もないか……、こいつも望んで船に乗ってねえしなぁ)  船には色んな種類がある。乗客もだ。  この船は、天籟とかいう国のお姫様が乗っている。なんでも、ドイツとオーストリアの間辺りにある国に嫁に行くんだそうだ。ドリューは磁器(チャイナ)くらいしか東洋について知識はない。ぼんやりと思いつくのはインドだが、インドの人間とムオたちの姿はとても遠い。 「俺はさ、元々、違う船に乗ってたんだ。その船が軍用になるってんで、同じ会社のこの船に移ったんだ」  ムオの横に立って、ドリューも海を見た。  手すりはムオの肩ほどまであるが、ドリューでは鳩尾ほどだ。それほどまでにムオは幼い。骨だって小さいし、頭蓋骨なんて握りつぶせそうだ。 「……別にお前の人生なんて興味ないんだが」 「まぁ、聞けって。はじめは大西洋ルートでイギリスとアメリカを往復してたんだ。ニューヨークまではぎゅうぎゅうに人が乗って、新天地に夢を見てる。その船に乗ってんのは楽しかった。でもな、全員が自由の女神にワァワァ言いながらタラップを降りるとさ、あーんなに賑やかだった船が静まり返るんだ。――俺はそれが悲しかった」  海を見ていたムオが、ちらりとドリューを見る。 「俺は、置いてかれる側だ。新天地に行く夢もなければ居場所もねえ。だから、姫について知らねえ国まで行くっていうお前は、ガキなのにスゲーなって思う」 「ガキじゃない。成人してる」 「いやいや、んなわけねえだろ」 「天籟ではもう成人だ。14歳だ」 「ガキだな。うん。俺が船に乗り始めた頃だ。それに、妹と同い年だが、お前の方が細っこいぞ」 「ガキじゃ……ってもういい」  一瞬ムオは猫のように毛を逆立てたが、ふっとまた海を見た。  噛みつかれることを覚悟していたので、ドリューは「お?」と内心首を捻る。 「なんだよ、調子狂うな……」 「別に。アンタは兄弟がいるのか」 「おう。だから、さっさと働きに出たかったんだ」 「兄弟か……家族というものはどんなものだ?」  ムオの質問は、驚くほど真っ直ぐだった。 「なんだその妙ちくりんな質問は」 「ミョウチクリン……? どういう意味だ?」 「めっちゃくちゃ変だって意味だな」 「そんな単語は知らなかった。ミョウチクリン」 「覚える必要ねえんじゃねえか? スコットランドの言葉だし」 「はぁ!?」  ムオが猫みたいに怒る。目をカッと見開いて、威嚇する猫みたいになる。小さな体で気を張っているのを、この短い期間で何回見ただろう。  姫は笑いながら「ドリューはムオを怒らせる天才ですね」と言った。ムオは姫の前でこそ大人しくしようとするが、ドリューとばったり会った時など、剥き出しの感情をぶつけてくる。 「お前にとって姫様は家族じゃねえのか?」 「……馬鹿かお前は。女王陛下はお前の家族なのか?」 「うんにゃ。全然家族じゃねえな」 「そうだろう。姫は仰ぎ見る御方で、家族ではない」 「んー、でも姫様は、お前のことを大事に思ってそうだけどな」 「そういうお方だ。王族の中では一番使用人を大事になさる」 (んー……そう言うことじゃねえと思うんだがなぁ)  姫がムオをただの使用人と思っているようには見えなかった。自分が兄弟を思うように、ムオのことを考えているように見える。女王陛下を家族だとは思っていないけれど、亡くなった先代の伯爵閣下のことは、ドリュー自身「両親の雇用主」であると同時に「気前のいいおじいちゃん」のように感じていた。イースターや感謝祭に呼んでくれたこともあった。 (……そうなんだよな、伯爵閣下の奥様に、姫の目はちょっと似てんだな……)  もうこの世界のどこにもいないふたりを思い出して、ぐっと胸が苦しくなった。  会いたくなる。長い航海の間、両親や兄弟の写真の他に持ってきていたのは、亡き伯爵夫妻の写真だ。 「ああ……だからか」  ああ、だから、俺は姫を放っておけなかったんだ。  ドリューは納得して、傍らのムオを見下ろす。細い肩や背にたくさんの荷物を背負おうとする子供を。 (姫がそんなこと、本当に望んでるって思ってんだから、お前も馬鹿だよ)  伯爵夫妻にあれだけよくしてもらったのに、幼いドリューは何も恩返しは出来なかった。  時折、夢に見る。伯爵夫妻はあれから年を取り、暖炉の前でにこやかにドリューを待っている。ドリューは船の話を手土産に挨拶に行く。変な客だとか、コックの失敗だとか、楽隊のヴァイオリニストが実は素人だったとか。そんな他愛もない話を。  ムオはこれからだって出来る。姫は生きているし、旅はまだまだ続く。知らない国に嫁いだ姫を支えられるのは、生国から付き従い、姫個人に忠誠を誓ったムオだけだろう。 「まぁ、ちったぁ気楽に考えていいんじゃねえのか?」 「また無責任なことを!」 「はいはい」  ドリューはムオの頭をポンポンと叩くように撫でた。  手のひらに細い髪の感触――故郷の妹たちを思い出す。目の奥が熱くなり、ツンと鼻が痛くなる。  そんな感傷を他所に、ドリューは手を弾かれて驚いた。左手でドリューの手を払ったムオの右手が、そのまま素早く殴りかかろうとする。 「おっと、二度は喰らわねえぜ?」  腹部を狙った拳を受け止める。手は硬いが、とても小さい。目の前にあるムオが首筋まで真っ赤に染まる。 「~~~~~~っ!」 「だーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」  足の甲に走った痛みに、ドリューは絶叫した。 「調子に乗るなよ! 馬鹿が!」  ドリューの絶叫にも負けない大きさでムオは叫ぶ。流石に足を押さえてうずくまったドリューに、ムオは追い打ちはしなかった。 「ふん。謝らないからな!」  ムオはそれだけ言うと、甲板から逃げるように走り去った。 「……だー、痛ぇ……」  涙がじんわりと水平線を滲ませる。足をさすりながら、ドリューは海を眺める。  妹たちは、「お姫様と同じ船に乗った」話を聞いたらどんな顔をするだろうか。陸で待っている家族と話がしたい。無性に、そんな気持ちになった。  ヴェネチアまで、間もなく。この旅は終わりを告げる。
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