ムオの場合――1888年 天籟

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*  姫はとても穏やかな方だった。  痛みを堪えて姫の部屋に向かう。ムオの足音に気が付いたらしい姫は、眺めていた書から顔を上げてきょとんと目を丸めた。 「ムオ。どうしたの。歩き方がおかしいわ」  姫も母と同じく独語で話しかけた。 「そんなに無様な歩き方ですか」  思ったよりも拗ねた声が出て、自分でも驚いた。  姫は、察したように微笑むと、首を振った。 「いいえ。綺麗に歩けている。ジャンは厳しい」 「猿のようだと言われました」 「ふふ」  姫は袖で口元を隠して笑う。 「でも、ジャンがそれだけ厳しいのは、ムオを好きな証拠」 「好きかどうかは……」  母は厳しいが、見込みのない者を置いておくことはない。個人的な好意など、ムオには分からない。  ただ、ムオは選ばれたのだ。姫にも、母にも。  末娘である姫を守る者として。  姫はほっそりとした手をあげて、窓の外を指さした。 「ムオ。見て、桃が成っている」 「ああ、本当ですね」  見れば、見事な桃が生っている。確か、この木は姫の曾祖母に当たる大清の公主が輿入れした際に植えられた木だ。  ムオは宮殿にある、王族によって植えられた樹木をすべて覚えている。 「桃を所望されますか」  尋ねたものの、もう体は動いていた。  窓にひょいと飛び乗ると、反動をつけて目の前の枝に腕を伸ばす。腕に力を込めながら、振り子の要領で更に太い枝に飛び乗った。よく手入れされた木はとても登りやすい。  王族が植えた木には手も足もかけず、周囲の木を使って桃に近づく。  両手でそっと捥いで、懐に忍ばせる。  そして、来た時と同じように木を伝って、姫の待つ窓に戻った。  枝の上に腰かけて、懐から桃を取り出す。 「どうぞ、姫」 「ふふ」  姫はころころと笑う。  そして、桃ではなくムオの髪に手を伸ばした。 「葉がついている。可愛い子猿」 「あっ」 「ジャンが見たら、妾が怒られる」  姫は笑う。  桃を捧げ持ったまま、ムオも笑った。 「姫様、殿下の輿入れをお守り出来るよう、私は今よりももっと、きっと強くなってみせます」  完璧に服も着こなし、言葉もこなし、その身にかかるすべての困難を払う盾になる。 「お前、背中はもういいの?」 「……とても痛いです」 「おいで。手当てをさせよう」  姫はムオの手から桃を受け取った。桃の分、手が軽くなる。不思議な予感が、ムオの体に残った。けれど、まだこの時のムオに、それが何かはわからなかった。  二年の時をかけて、天籟国は欧州クリークヴァルト公国との結婚に関する協議を終えた。ムオは姫と船に乗ることになる。  一九〇〇年、オスマン帝国領ポート・サイドからヴェネチアへ向かう船。その先には、姫の将来の夫が待つ、クリークヴァルト公国がある。  そしてその短い船の旅はムオにとって人生を一変させる日々になると、このころのムオは知るすべもなかった。
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