ムオの場合――1888年 天籟

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ムオの場合――1888年 天籟

今日開始不可用天籟語同廣東話(今日から天籟語も広東語も使ってはなりません)淨可以用英文同德國話(英語とドイツ語だけを使いなさい)」 「點解呀(どうしてですか)?」  ムオは姿勢を動かさず、小声で問うた。  ムオは母と共に神殿の本殿の隅で平伏していた。神殿は天籟国の宮殿の最奥にあり、中でも本殿は御神体である神子の在所として使われる、この国で最も重要とされる場所。  よく磨かれた床にはふたりの顔が映り込む。ムオは母の顔を床ごしに見ていた。  母はムオが仕える姫の乳母であり、ムオたちを取り仕切る仮母だった。  血が繋がっているわけではないが、ムオにとってはいつも目指すべき『完璧な理想象』だった。  愛想がない代わりに、とびきり優秀。天籟の言葉や大清の言葉、それに英語や独語など、必要な言語はすべて話せる。  そして何より、抜身の刃のように研ぎ澄まされている。  鐘が鳴る。美しい鐘の音がいくつも響く。  今日は神子継承式だった。新しい王が即位し、その姉である王女が神子として宮殿の奥、神殿に入る。これより王が崩御するか神子が亡くなるまで、神子は本殿から出ることなく、処女のまま神に仕える。  神性を帯びた王族の女性の中でも、神子は天を頂き、地を祝福し、この国を守る。  ひれ伏した者たち以外は、全て王族だ。上座には即位したばかりの新王、そしてその王弟ふたりと、王妹ふたり。ムオが仕えるのは五人の兄弟姉妹の中の末子だ。 「ムオ。姫の婚姻が決まりました」  母の独語の言葉に、ムオは顔を上げそうになった。  だが、動いてはならない。  響き合う鐘の音。その響きに揺さぶられるように、自分の心がぐらりぐらりと揺れるのをムオは感じていた。 * 「姿勢が悪い」  真っ先に感じたのは熱さだった。鋭い痛みが全身に走る。  真後ろからしたたかに竹尺で背中を打たれ、ムオは転がりかけた。咄嗟に頭の上に乗せた花瓶に手を当てて、堪える。  両手でがっしりと花瓶を抑え、足を大きく開いて止まったムオに、母は冷たい声を浴びせる。ムオが振り向くと、横目でじろりと睨まれた。 「なんですか、その格好は、猿のように」 「……すみません」  神子の代替わりの日から、ムオは今までの服を着ることを禁じられ、大人の女性が着る官服を着ることとなった。長い上着の隙間に、暗器を仕込む。ムオの得意の暗器は簪と峨嵋刺(がびし)である。王族に仕える身として、その身を守るための武器は必須だ。それを仕込むには。児童が着る袖や裾の短い衣装より、女性の服の方が楽だ。  ただ、裾の扱いが難しい。今までのように歩こうとすれば足に絡みつき、大股で歩けばはだける。  母のように凛としていたい。そう考えているのも事実だ。ムオは花瓶から手を離すと、裾を直して、また歩きはじめる。 (……頭をずらさず、膝の下だけで動く。丹田に力を入れて、視線は真っ直ぐ、一点を見る)  母はゆっくりとムオの周囲を歩いている。ただし、足音や衣擦れの音はムオひとり分だ。まだ幼いとはいえ、ムオもまた、母と同じく宮殿に仕える身。早く一人前ならなくては姫に申し訳ない。  ふん、と気合を入れる。 「無心におなりなさい」 「ッ~~~~~!!!」  ビシリ、とまた一発喰らう。  今度は堪えきれなかった。あまりの痛みに膝をつく。なんとか花瓶だけは受け止めつつ、ムオは地面でうずくまる。 「母上は手加減をして下さらない……」  ムオは背中が腫れ上がるだろう未来を想像して、ぼやいた。  母は少しだけ首を傾げた。  そして、竹尺を伸ばし、床に這いつくばったままのムオの顎を持ち上げた。磁器のように白くつるりとした顔に、すっと切れ長な目、母の顔は得も言われぬ不思議な雰囲気がある。  じぃっとムオを見ていた母は、ゆっくりと口を開いた。 「お前の修練に手心を加えて、姫になにかあったとき、お前はどう贖うというのだ」 「この命で」 「お前の命を投げ出したとて、何になるというのか。愚かな」 「愚かではありません。ちゃんと言葉も覚えて……!」  母はムオの言葉を黙って聞いている。  姫の結婚決まったとき、嫁ぎ先の国の言葉を徹底的に覚えるために、ムオは天籟語での会話を禁じられた。姫と話すときも、母と話すときも、すべて独語を用いている。独語がままならない時は英語なら用いてよいと言われている。 「ムオ。お前は入れ物ではないのだ」  母は興味を失ったように竹尺を引っ込める。 「私は姫のために生き、姫のために死にます。愚かではありません、守るために言葉も風習も覚えます、必ず」  くるりと母はムオに背を向けた。 「すぐにお前は先を見失う。ムオ」 「母上!」  母を呼び止めようとした時、鋭い痛みが背中に走る。  母の左腕が先程より少しだけ下がっていた。暗器だ。母の暗器が何か、ムオは知らない。得手とする暗器の種類は誰にも明かさないのが天籟の王族を守る人々の掟だ。  ただ、比べ物にならない痛みに、息が停まる。 「手当をします。背中を出しなさい。ムオ」 「いいえ、大丈夫です」 「腫れますよ」 「私の不始末です」  ムオは頑なに首を振った。  ふぅ、と母は息を吐く。そして、ムオに背中を向けた。 「好きにしなさい」  母が歩き去るのを、ムオは見送った。母は渡り廊下を進み、角を曲がる。すっかりその姿が見えなくなってから、裂けた背中の痛みで声にならない悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。 (くそ……っ! 絶対に、絶対に一人前になってみせる……!)  天籟の姫を守るため、天籟の姫に仕えるため、ムオも母もこの世に存在しているのだから。
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