美遥(みはる)

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美遥(みはる)

 美遥(みはる)を乗せた新幹線が上田駅に着いたのは、時計の針がまさに正午を指そうとする頃だった。  たった二泊の旅行にもかかわらず、彼女はやたら大きなキャリーバッグを手に長い改札を抜けてきた。  俺がその大きさをからかうと、 「女の子にはいろいろあるんだからね」  と言って頬を膨らませていた。  身につけていたのは、露草色のストライプのさらりとしたワンピース。この旅行のために買った服だと思う。  清潔感があってしとやかな装いは、美遥にとても似合っていた。  前日に休みを取り、先に親元を訪れていた俺は、美遥と上田で合流する約束をしていた。市内を巡り、近くの温泉に一泊した後、美ヶ原を越えて、再び実家のある松本に向かうことにしていたのだ。  荷物を車に積むため、ふたりは駐車場へと向かった。  途中、駅前ロータリーは中央が広場になっていて、出店が軒を並べるイベントが行われていた。放映中の大河ドラマに便乗してのイベントだった。  流れるドラマのテーマ音楽に、六文銭の旗印を従えた真田幸村の騎馬像や大きな水車のモニュメント。美遥はさっそくデジカメを取り出して、何枚も写真を撮っていた。  美遥はその番組が大好きで、特に草刈正雄の演じる真田昌幸がお気に入りだった。落ち合う場所を上田にしたのも、ドラマの舞台となった真田の郷に行ってみたいという彼女の希望があったからだ。  車は、駅のすぐ近くの立体駐車場に停めていた。  そこで荷物を置くと、ふたりは街の散策に出かけた。  そして駅前の通りを歩き始めるとすぐ、俺は石造りのレトロな雰囲気の店に連れて行かれた。  ゼリー飴が有名なその店を、美遥はネットでチェックしていたらしい。飴が有名だけれど、お勧めはジャムなんだと教えてくれた。  そこで彼女は、桑の実のジャムを買うつもりでいた。しかし、数の少ないそのジャムはすでに季節が終わっていた。  それを知らされた美遥は、上唇で下唇を巻き込む顔をした。カッパ口と呼ばれるその仕草は、困ったことがあったときの彼女の癖だ。  美遥に教えたことはなかったが、俺はこの表情をとても気に入っていた。  そんな彼女を見ると、強く抱きしめたくなる。  試食の末、美遥はほおずきのジャムを買うことにした。  黙って連れられては来たものの、実は、俺はこの店のことを知っていた。この辺りで生まれ育った人なら、ここの飴はもちろん、一度はジャムも食べたことがあるだろう。ただ、そんな俺も、ほおずきのジャムがあることは知らなかった。  彼女の自宅にジャムを送る手配をして、俺たちは店を出た。  そして商店街にそって、緩やかな坂の舗道を上っていった。  美遥と俺、ふたりにとって一番幸せで、二番目に激動の夏が終わり、季節は秋に変わろうとしていた。  空は高く晴れ、空気はさらりと乾き、首筋を撫でる風が心地いい。  連休中はこの天気が崩れることはないらしい。  古風な雰囲気を漂わせる商店街を眺めながら、ふたりはそんな話をした。  美遥に言わせると、俺は雨男で彼女は晴れ女なんだそうだ。今回は私の勝ちと言って、嬉しそうに笑っていた。そして、舗道沿いに置かれた真田十勇士のモニュメントを見つけるたび、駆けていって写真を撮っていた。  普段大人しい彼女が、こんなに無邪気にはじけるのは珍しい。  初め俺は、それを旅行のせいだと思っていた。  しかし理由はそれだけではなかった。  昼食を終え、上田城を見て歩いたあと、並んで腰を下ろした城内のベンチで彼女は言った。 「私、気に入ってもらえるかな?」  初めて俺の実家を訪れ、親に会うことを心配していたのだ。  その緊張を振り払おうと、いつも以上に気持ちを持ち上げていたらしい。  俺はそんな彼女を笑った。  気に入られないはずがないからだ。  真面目で、折り目正しく、物静かだけど明るくて、誰にでも優しい心遣いができる。俺から見た美遥は、非の打ち所のない女性だった。そんな彼女が気に入られない理由など探すことすら難しい。 「男の知聡(ちさと)にはわからないんだよ」  不安を笑い飛ばす俺に、彼女は不満そうな顔をしていた。  そしてそのあと、ふたりはベンチを立ち、城内にある真田神社へ向かった。  いや、  違う。  、神社へは、すでにその前に立ち寄っていたはずだ。  俺は、あの日と同じベンチに座ったまま瞳を閉じ、もう一度ふたりの会話を思い出した。  まるで深い記憶の淵から、手探りで、一本の糸を掬い上げるように。  そこで美遥はお守りを買った。  だから、俺は彼女に言ったんだ。  心配しなくても、真田のお守りがあるから大丈夫だよ、と。 「うん」と美遥は頷いた。  このベンチの、この場所に座って。  俺はポケットからスマホを取り出すと、今思い出したことを打ち込んだ。  なぜこんなことを忘れていたのだろう。  やはり人の記憶などあてにならない。頼りになるのは言葉だけだ。  写真や動画も大切な記録だ。でもそれは、瞬間を切り取るだけだ。思い出すことの助けにはなっても、最後は記憶に頼らなければならない。  だから俺は、ふたたび小説を書き始めた。  今度は読者を気にすることなく、ただ俺自身のために。  それは、やたらディテールにこだわる長い小説だった。  才能に行き詰まり、夢を追うこと諦め、漫然と日々を過ごしていた男が、ある女性と出会うことでふたたび生きる意味を見出していく物語だ。  運命と思えるほどの出会いのあと、ふたりは惹かれ合い、愛し合うことになる。  そして夏が来て、男はその子に結婚を申し込む。  彼女は持病を抱えていたため、頷くまでには紆余曲折があった。男にとってその夏は、彼がそれまで生きてきたどんな夏よりも、熱く、ドラマチックな夏だった。  そして夏が過ぎ、婚約の報告のため、男は彼女を連れて故郷の両親のもとをを訪れる――。  俺が、スマホを手にベンチに座っていると、ピンクの服を着た幼子(おさなご)がこちらに向かって歩いてきた。やっと歩き出したくらいの、覚束ない歩き方だ。もしここにあの子がいれば、同じくらいの年齢だったはずだ。  幼子の後ろには、身を屈め、両手を広げた女性がいた。幸せそうな笑みを浮かべた女性が、一瞬美遥に重なって見えた。  その瞬間、俺は、昔の自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。  いずれはそんな美遥が見られると、当たり前のように信じていたあの頃の自分を。  俺は立ち上がり、その親子にベンチを譲った。  時計を見る。  そろそろここを出ないといけない。  夕暮れまでは、それほど時間がない。  駅前の駐車場に戻り、国道を走った。  天気はあの日と同じく良好だ。夕日が、山際まで澄みわたった秋の空気を通して、刺すようなまぶしさで照りつけている。  見覚えのあるコンビニに車を停める。  そして夕日がまさに稜線にかかろうとする頃、車を降り、近くの川縁に向かった。  あの日、コンビニで買い物をすませたあと、美遥が夕日を見ようと誘ったあの場所だ。  山の嶺近くに沈もうとする太陽は、空と水面を巻き込んで、焼けるように赤く輝いている。  埃っぽい鉄の手すりに手を掛け、その光を全身に浴びながら、シルエットと化した山並みを見る。  夕日を見る美遥の横顔が思い出された。  彼女は言った。 「私、決めたから。絶対欲しいもん。作ろう。と私の赤ちゃん」  医師からは、積極的には勧められないと言われていた。無理ではないにしてもリスクがあると。  美遥の両親は反対だったし、彼女自身もずっと諦めていた。  美遥に決断させたのは俺だ。  結婚すら躊躇(ためら)った彼女が、子供を望むようになったのは俺がいたからだ。  だったら、どんなことをしてでも、俺は美遥を守るべきだった。  あたかも、この世界を、光と闇のふたつに塗りつぶすかのような光輝の渦の中、俺の心は激しい感情で埋め尽くされていった。  愛しさ、悲しさ、寂しさ、むなしさ、怒り、喪失感、虚無感、失望、絶望  そして、耐え難いほどの、後悔。 「美遥!」  呻くように、俺はその名を呼んだ。  その時だった。 「知聡」  不意に、静かな声が聞こえた。  深い心の奥から沸き上がるような、  幻聴のような、  それでいて、はっきりとその場の空気を震わせるような。  涼やかな声音。美遥の声だ。 「また、泣いてるの?」 「悪いかよ」  不思議と驚きはなかった。  夢の中で起こる不思議な出来事が、当たり前の事として受け入れられるように、俺は彼女の声を聞いていた。 「あいかわらず、泣き虫だなぁ。ちさは」 「うるせぇよ、映画見て泣くのと一緒にするなっての」 「ごめんね。ただ、もう許してよ」 「なにがだよ?」 「こんな形で、あなたを苦しめていること」 「みはが謝ることじゃない。俺はやれることをやってるだけさ。絶対に忘れない。みはがいたすべてを。どんな些細なことだって、いまは忘れてることだって全部思い出してみせる」 「やめてよ」 「なんでだよ?」 「そうやって、ずっと思い出に(すが)って生きていくつもり?もう小説なんて書かなくていいよ。書くなら、別のお話にして」 「勝手だろ。俺自身のために書いてるんだ。そこで俺はまたみはに会える。何度だって、繰り返し」 「やめてってば。人はね、忘れるように神様が作ったんだよ。傷口がかさぶたになって、やがて癒えるように。悲しいことがあっても忘れていかなかったら、また歩き出せないじゃない。大丈夫だから、私、見てるから。あなたの心の奥深くで……。ちさがまた歩き出して、誰かを好きになって、素敵な夫婦になって、子供が生まれて、歳をとって、いつかお爺ちゃんになって……。全部、最後まで。だから、そんな幸せなちさを見せてよ」 「できるかよ。そんなこと」 「わがまま言わないでよ」  声と同時に、すぐ横で靴が砂を噛む音がした。  目をやると、そこに、。  露草色のストライプのワンピースを身につけた、あの日の美遥だ。  俺は、手すりから体を離し、彼女と向き合った。  夢でもいい。  幻想でも、狂気でも。  ファンタジーでも、SFでも、理由なんてどうでもいい。  ただそこに美遥がいた。  俺の前に。  すぐ目の前に。 「ごめんなさい」  目映い夕日を半身に浴びて、彼女は言った。 「謝るなよ。お前に謝ってなんか欲しくない」  叫ぶように答えた。 「ううん、言わせて。あの時、言いたかったの。でももう言葉にならなかった」  あれも夏だった。  仕事の最中に掛かってきた一本の電話。  何もかもを放り出し、職場から駆けだし、乗換駅で構内を走り、最寄りの駅からは全力で走り続けた。  しかし、辿り着いた救急病院の、薄っぺらいスチールのベッドの上で、横たわった美遥はもはや瞳を開くことはなかった。 「俺が悪かったんだ。早く実家に帰すとか、お義母さんに来てもらうとか方法はあった。お前をひとりにすべきじゃなかった」  早期流産を引き金にした出血が原因だった。  体の弱い美遥だったが、妊娠後の経過は順調だった。少なくとも、そう診断されていた。  そのため気を緩めたことがよくなかった。  その日、美遥は自宅にひとりでいた。激痛の中、大量の出血でショック状態に陥った彼女は、助けを呼ぶのが遅れた。それが致命的だった。 「ちさのせいじゃないよ。無理だったんだよ。私に赤ちゃんは」 「違う」  としか言えなかった。  涙で声にならなかった。 「もうやめよう」彼女は言った。「そしてお願い。もうあの小説を書くのはやめて。私を、あなたの心の奥深くで眠らせて。安らかに」  俺にはわかった。  美遥はこのことを言うために戻ってきた。  ただ一度、ただ一瞬、ただこの一言を俺に告げるためだけに。  俺は頷いた。  頷くしかできなかった。  この先、誰かを愛せるなんて思えない。  でも、少なくとも、あの小説を書くことだけはやめようと思った。  記憶が薄らいでいくとしても、  それが美遥の望みなら、  こうして彼女が、俺の奥深くにいることがわかったのだから。 「ありがとう」  美遥は言った。  儚く、薄れかけた声で。 「美遥!」  慌てて俺は、その体を抱きしめた。  行くなと叫びたかった。けれど声にならなかった。  甘い香りがした。  美遥の好きなラベンダーの香り。  華奢な体を腕に感じた。  胸と胸とが強く重なる。  ぬくもりが伝わる。  その一瞬、  確かに、  美遥がこの腕の中にいた。 「もうひとつだけお願い」  遠い声が言った。 「書くのを終わらせる前に、簡単でいい、一行でいいの。書き加えて欲しい。その美遥は元気な赤ちゃんを産んで、知聡と幸せに暮らしたって……」 「美遥ッ!」  吐くように叫んだ。 「愛してる。知聡」  微かに、だけど確かにそう聞こえた。  俺の聞いた美遥の最後の言葉。  川縁の手すりの前に跪き、俺は、ボロ布のように泣き崩れた。
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