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「井口!」
崩れかける母の右腕を引っ張る。うなだれたおばさんの隣には、スーツ姿のおじさんがいた。顔を上げたおじさんに、静かに一礼する。
「涼子ちゃんはどうなの、ねえ」
手をとられたおばさんは、じっと母を見て、視線を上げた。捕らえたのは、母の後ろにいる、俺の方。
「帰って」
お願い。
これは、懇願ではなく命令だ。だから小さな声は、母のわめき声より、重く廊下に響く。
「わかりました。失礼しました」
耐えきれない俺が力ずくで母の腕をひくと、いとも簡単についてくる。
「やめて、離しなさい、遥輝」
自分だって、叫びたかった。
「帰って」
あんなに冷たい目で見られたのは、初めてだった。
それも、
「ハルくん」
いつも優しくしてくれるおばさんに。
いつか覗き見たアルバムの写真みたく、綺麗に微笑んでいた女性に。
「俺、来ない方がよかった?」
代わりに、全力でアクセルを踏む。
「そんなことない。事故増やして迷惑掛けるより、ずっとよかった」
帰宅後の記憶はない。
翌朝、父はビール缶と食い荒らされた鍋を前にして
「カオスだったぞ」
なんて慣れない片仮名を使っていた。
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