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最果ての国
「何処か遠く、遠くへ行ってみたいものだわ」
それが、亮子の口癖だった。透き通るように白い肌は、もはや白いを通り越して青くさえ見える。まるで幽霊にでもなってしまったかのよう。それでも眼だけは爛々と燃えるように力に満ちている彼女を、僕はいつも痛ましい気持ちで見つめる他ない。
此処は病院で、病室の大部屋なのだ。妻はもうずっと此処に入院している。長引く病状に医者も困り果て、少しは空気の良い環境で過ごした方がいいだろうとこの田舎の病院に転院してきてから早三年。元々体の弱い人ではあったが、まさかここまで入院生活が長くなってしまうと誰が予想していただろうか。
わかっている。僕に出来ることは、そんな彼女が心から前を向いて快方に向かえるよう、傍で支え続けていくことだけだということは。
「そうだね、遠いところか。……じゃあ、病気が治ったら北海道にでも行ってみようか。冬は大変だけど、夏ならきっと過ごしやすいところだと思うよ。どうだろう?」
時々耐え切れなくなる瞬間があるのは、事実だ。それでもせめて僕は、彼女の前ではなるべく笑顔でいるように努めている。
体は弱くても、かつての彼女はとても気丈で、むしろ結婚してからの僕は尻にしかれっぱなしだったほどだ。お互いの両親の勧めによるお見合い結婚ではあったものの、最終的にはきちんと恋愛関係になり、お互い納得した上で結ばれたものと思っている。なんといっても、彼女は何事にも積極的で、デート一つとっても僕を右に左に振り回してくれる性質だったからだ。持病があるため薬を飲み続けなければいけないという難点こそあったものの、きちんと管理さえしていれば何を食べても何処に遊びに行っても問題ないのが彼女だった。
彼女がこうして倒れる前――東京に腰を落ち着けよう、となったのもあくまで上の娘が生まれたからである。お産が思った以上に楽で良かったわ!三日三晩苦しむかもしれないとか散々お母さんからは脅されてたんだもの!とそうあっけらかんと笑っていた日のことは、今でも昨日のように思い出すことができた。
そう、だから。基本外に飛び出して遊び回るような破天荒な女性だった彼女が。こんな状況に置かれていることは、あまりにも心苦しくてならないのである。遠くへ行きたい、元気になったら――そう彼女が繰り返すのは、その希望を忘れていないからに他ならないのだ。
「北海道ね。昌孝さんは、取材で北海道に行ったことがあるんだっけ?」
病室に設置されている白黒テレビの方をちらりと見て、亮子が告げる。
「実は夏の北海道って、馬鹿にならない暑さになったりするらしいわよ。場所にもよるけど、意外と涼しくはないんですって」
「え、そうなのか!?」
「うんうん、テレビで言ってたもの。こうも入院長いと、無駄な知識ばっかり身につけちゃうのよね。北海道はやめましょ。あそこは御飯が美味しすぎて、太っちゃう未来しか見えないわ。私は牛乳も蟹も大好きなの。凄いわよね、毛蟹は年中漁れるんですって?私まだ人生で一度も食べたことないのよね、北海道産の蟹は。地元の名産なんだし、絶対美味しいに決まってるじゃない。だめだめ、ただでさえ運動不足なのにこれ以上体重増やすわけにはいかないわー」
「ははは」
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