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 元号が変わって約十年。春休み、夏休み、冬休みに続き、この国の人間は新たなる休みを手に入れた。〝星休み〟だ。  春が来るから春休み、夏が来るから夏休み、冬が以下省略。当然、星休みには星が来る。   「本当に行く気か、妹よ」 「まっとうな社会人としては行かざるをえない、兄よ」 「いや、まっとうな社会人は〝ひきこもり指示〟が発令されたら従うべきだろう」  引きこもり指示は俗称だ。正式には〈流星群屋内待機指示〉という名称であり、降星中は指定地域での外出を禁じる、指示というよりも命令だった(ちなみに自治体ではなく、宇宙庁が発令する)。  流星は普通、燃え尽きる。だが、近年、特定の流星群の微粒子が大気圏突入に耐え、しかも人体に悪影響を及ぼす可能性があるという研究が発表されたのだ。  一度〈指示〉が発令されたなら、三日間は耐流星構造の屋内に缶詰となる。その間、ほとんどの経済活動が停止するが、存外、人は順応した。期間は数日、宇宙庁は正確に予報し、何より人々は休みを歓迎した。最も、医療・福祉分野などの生命に関わる施設には補助金が下り、スタッフの宿泊設備が整えられ、文字通りの缶詰地獄と化したわけだが。  とまれ、与えられた星休みに人は休みを享受するべき――だというのに。   「会社の書類落としちゃったんだもの。でも今なら逆に誰にも拾われないし」 「書類ぐらい作り直せば」 「個人情報満載。馘になる代わりにセクハラを許容しなくちゃならないレベル」    昨日遅く、発令時刻少し過ぎに帰宅した妹は、自室に直行して閉じ籠もったままだった。夕食や夜食にも手を付けず。これは大変に奇妙なことだった。  と、数時間後、ドアが勢いよく開いたかと思えば、階段を踏み抜く音が深夜に響き渡った。俺は追いかけ、玄関でスニーカーを履こうとしていた妹の腕を掴み、事情を聞き出したのだった。 「落とした場所の見当はついてる」 「まてまて。車を出してやる」    車はいい、と妹は俯き加減に呟く。ドラレコ残ったらまずいでしょ、と。  それはそうだが・・・・・・帰宅後の妹の様子はおかしい。どこで失くしたんだと訊く。 「明南橋」  その一言で理解する。少しの苦みと安堵と共に。  そして靴箱からスニーカーを取り出して、俺も行くと告げた。革靴以外を履くのは実に久しぶりだ。  妹はようよう顔を上げて、俺を見つめる。そうして、ありがとうと笑った。その傍らには、深々とお辞儀した十五歳の少女が潜んでいる。水飲み鳥みたく、ぺこぺこと。  だから、俺はこの笑顔を見るたび、苦手だった水泳の授業で息継ぎに失敗したように鼻の奥がツンと痛むのだった。  初秋の深夜三時過ぎ。空気は夏のそれよりずっと透明で冷たい。時折、流星が漆黒に近い群青のカンヴァスに光る筋を描いては消える。  自宅から明南橋までは二駅分の距離で、夜明け前には辿り着けるだろう。妹は縦縞のワンピースを夜風に泳がせ、すいすい俺の前を歩く。誰もいない世界を、さも心地良さげに、猫の足取りで。  古い本に似た話があったな、と思い出す。学校行事で夜を歩く青春小説だ。主人公の少女は小さな賭けをしていたんだったか。  もしか、妹も賭けているのだろうか。  色素の薄い髪をなびかせて、降星中のせいかきらきら燐光を放つように見えて、息が苦しい。俺は嘆息まじりに呟いた。 「・・・・・・降る星や、令和は遠くなりにけり」   なにそれ、じじむさい、おじいちゃんなの? その口の悪さも、快い。つまり、俺は相当に気持ち悪い兄だった。  俺と妹が家族となったのは、令和最後の年のことだ。俺の実母と、妹の実父が婚姻関係を結び、年の差十歳の兄妹が爆誕した。  だが、俺は当時二十四歳。就職して実家を出ていたため、この家族改編にさして影響を受けないはずだった。まあ、盆暮れ正月はあまり怠惰に過ごせないなと思っただけで。むしろ母子家庭だったわけで、母に関して他の誰かを頼みにできると心強く感じた。  それは多分、妹も同じだったろう。いや、俺以上に。妹の実父――義父は熊のような外見ながらとても繊細な心の持ち主だったから。  母はそこそこ繁盛しているスナックを経営しており、客としてやってきた義父が母にベタ惚れして求婚した。恋の力は偉大だ。塞ぎがちだった義父はみるみる元気になり、妹はお父さんを元気にしてくれた人にずっと感謝していたのだという。  母は母で、妹が心配だから再婚したのよと冗談めかしていた。母と妹は友達同士のように仲が良かった。3+1の家族編成は上手くいっていたのだ。九年前の、明南橋たもとの、あの日まで。 「りんご」 「ごきぶり」 「リンス」 「すり」 「リング」 「グランプリ」 「リバーサイドホテル」 「るり」 「り、り、り・・・・・・リーゼント」 「とっとり」 「りぃい? おいちょっとえげつなくないか」 「カタカナばっかじゃなく、漢字思い浮かべるといいよ」 「り、り、り、りん、・・・・・・」    ――燐酸! と飛び出た叫びはアスファルトに虚しく響く。 「臨床、鱗翅目、林間学校とかいっぱいあるでしょう、なんでよりによって」  くくっと笑う妹は燐光を撒き散らす。俺の目は大分前から狂っていた。特に今夜は顕著だ。ある対象(・・・・) のみきらきら見える燐視とか、本当、なんで、よりによって。 「あ、流れ星」 「そりゃあ絶賛発令中だからな。おい、指すな、落ちてくるぞ」  ひゅっ、ひゅっと、群青の海に釣糸を投げ入れるような光が疾る。なにその迷信と苦笑を漏らしながら、妹は天に指先を伸ばす。その指に衝かれたように、胸が疼く。きもい。  最新の研究では、流星の微粒子はほぼ人体に影響を及ぼさないことがわかってきた。〝引きこもり〟も数年内になくなるかもしれない。だが、今は、まだ。 「こんなに降ってくるんだもの。願いごとの一つや二つぐらい叶えてくれてもいいじゃない」  何気ないそのロマンチシズムには裏の意味が隠れている。当座の目的は書類回収なのだろうが、妹にも、俺にも、願いは別にあった。    九年前、深夜の連絡を受け、俺は出張先から実家に戻った。着いたのは翌日の夕方で、十五歳だった妹は顔を合わすなり俺に頭を下げた。  ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し、ぺこぺこ、ぺこぺこ、ぺこぺこ、ひたすら腰を九十度に折っては起こし、折っては起こし。  無理心中、というのが警察の見解だった。ハンドルを握っていたのは義父であり、助手席に母を乗せたまま、明南橋近くの堤防道路から時速百キロ越えで川へと飛んだという。  昔から母はよくもてていた。だが、客あしらいは心得たもので、深い関係を結んだのは、俺が知る限り俺の実父と義父のみ。実際そうだったと思うが、前述のとおり、義父は繊細な人だった。  ――あたしが離婚しないでって、頼んだから。  妹は懺悔じみて言った。嫉妬心からの夫婦喧嘩は前からあって、それを必死に取り持っていたと。父を諫めて、母に懇願したと。  たった、十五の、少女が。  二十五の男が身内に対する責任から解放されたと一人暮らしを満喫していたその裏で。    俺は世界を変えねばならなかった。  アパートを引き払い、実家に戻り、取り急ぎ高校受験を前にした妹を勉強に専念させた。  十五の少女が、頭を下げねばならない世界をひっくり返すべく、だからこそ地道に、仕事、家事、事故(・・)の後始末と。  新たに3−2+1の家族編成となったわけだが、血の繋がらない兄妹の二人暮らしというのは社会的にどうなのかと思わなくもなかった。  だが、葬儀に集まった身内の言に、逆に決意を固められた。元々、親族からよく思われてなかった両親だ。やれ水商売とか、病気だとか、色惚けとか。葬儀については二度と思い出したくない。  しかし、吐き出した本人らは忘れていようと、かけられた者たちにとっては呪いとなる。  俺らは互いを守るために、けちをつけようのないまっとうな社会人にならねばならなかった。  妹が大学を卒業し、大手企業に就職して三年。その目的は概ね達成された。相手に家族の情を越えた劣情を抱いた以外は。   「うちのお父さんって彗星みたいだよね」  小一時間ほど黙々と歩き続け、ふいに妹は零した。義父の熊じみた外見は、彗星のしゅっとしたイメージと重ならない気がするが。 「流星群って彗星が残した塵でしょう」  彗星はその軌道上に核から吹き出した塵をふりまき、やがて塵は軌道に沿った帯となる。その帯が地球の軌道と交わって、地球が通り過ぎる時、塵が一斉に降り注いで流星群となるわけだ。  明南橋はほど近く、あと五分もすれば到着する。俺は妹が言わんとしているところを察した。 「兄にとってはそうでしょう。いきなりやってきて、厄介者だけ残して、去って行って」 「厄介者って」 「兄に劣情を抱く妹なんて」  直下の流星が妹の細身を貫き、弾ける。無論、イメージ。流星群は、ほぼ、燃え残らない。  九年間、俺は妹のために生きた。十五の少女に家族の業を背負わせていた負い目を払拭したく、突き詰めれば己のために。  だのに、妹は勘違いしている。  ダイニングでうたたねをして、風呂上がりの湿り気を帯びた身を押しつけられたと知った時、このぬるい瓶詰地獄は終わりなのかと覚悟した。まっとうな社会人ならばこそ。  あの夜、起きてたんでしょう、と妹は兄をまっすぐ問い詰める。  妹は勘が鋭い。そして妹が一人明南橋を訪れたのなら、何かを決意したのだろう。そして兄妹連れ立った星休みのピクニックを無駄にはしない。  明南橋の欄干が道路の先に見えてくる。  橋の入り口付近に白い封筒が落ちており、あったと妹は駆け出した。拾い上げて中身を確認して大丈夫とみたいとひとりごちた。そして少し距離をとって向き直り、深々と腰を折る。 「あんなことして、ごめんなさい。あたし、家を出るから」  ごめんなさい。二度と言わせるまいと誓った台詞を妹は放った。  山際から太陽が顔を出し、稜線を光らせ、目蓋がゆっくり押し上げられるように世界を映し出す。東の空を黄金に燃やし、川面を銀に波立たせ、雲を紅、紫、青鈍に色付かせて。  朝焼けを背景に、妹は壮絶なほど美しかった。燐視――惚れた欲目は承知の上で、なお。   「・・・・・・夢なら良かったんだ」  俺は呻いた。  しらんぷりしていれば、星休みが終わっても、元号が変わっても、世紀を越えても、百歳を過ぎても、一緒に。何より、夢なら。 「遠慮なく、できた。続きを」  兄、とどこか呆然とした声が落とされる。  明るみに出した気持ちを妹がどんな顔で受け止めたか、見届ける勇気がなく視線を逸らした。沈黙が満ちる。  と、空に山に川にふらふら彷徨わせていた視線が、橋の向こう岸の真ん中で、一抱えほどある何かが落ちているのに留まる。  いや、倒れている。女性だろうか、長い髪、縞模様の服。随分とよく似た格好の。その周囲の地面は赤黒く染まっていた。 「さわっちゃ駄目!」  鋭い制止に、走りかけた俺の足は止まる。燐視はいよいよ末期で、妹は光の粒子に包まれていた。ただし、その顔はくしゃくしゃに歪み、両手足を突っ張って、いかにも泣き出すふうを我慢して。 「……願いが叶うなら、もう一度会いたかった。もう一つ、願いが叶うんだったら」  倒れた人影と光る妹を交互に見やる。妹は俺に向かって、そっちはいいから、と手を差し伸べた。 「こっちを抱きしめてよ」  ――せめて、星休みが終わるまで。  風に拐われた書類を追いかけて飛び出しちゃったの。あの運転手も発令間近で焦っていたんだと思う。もしも、自首してきたら、穏便にしてね。  家に帰る道すがら、妹は昨夜何が起きたか訥々と説明してくれた。帯状の朝陽を浴び、手を繋ぎ、歩く。見られても構わなかったが、朝早の発令中のため、誰にも会わなかった。残念ながら。  橋の上の妹を捨て置くのはしのびなく、その足で警察に行くことも考えたが、本人(・・)が強硬に反対した。奇跡という現象が脆く気まぐれだという恐れがあった。何より、時間が惜しくて。  そして〈流星群屋内待機指示〉が解除されるまでの三日間、缶詰であり瓶詰であり、天国であり地獄である時を過ごした。濃密で、熱く、儚い時間を。  三日後の朝、玄関のチャイムが鳴り響き、俺は叩き起こされる。 〈流星群屋内待機指示〉が解除された直後は、まだ通信障害が起きやすく、直接知らせにやってくるのが一番早かったのだろう。インターフォン越しに、四角四面の口上が述べられるのをぼんやりと聞く。  ベッドの傍らに、きらきら、きらきら、星休みの名残が音もなく瞬いては消えゆくのを見つめながら。
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