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「矢田ァ」
空気を震わすようなやたらにデカいその声に振り向くと、南がこちらに向かって走ってきた。
「なに」
今日は購買のコロッケパンが買えたのか?それとも文化人類学のレポートが終わったのか?嬉しそうに息を切らして走ってくる南がなんだか眩しくて、思わず目を細める。南は俺の前で足を止めると、息を整えて、キッと澄んだ瞳で俺を捉えた。
「矢田」
「どうした、そんなに走ってきて」
「あのさ、矢田」
「うん」
「結婚しよう」
「……は?」
日常の中に突如として現れた『結婚』という単語を脳が処理しきれず、代わりにそれは声門摩擦音という形で表に現れた。
「は?意味が分からな……」
「矢田、俺と結婚しよう」
「いや、会話になってない」
「会話じゃないから問題ない。求婚だから」
「そうじゃない。理由を訊いてるんだよ」
ズレ落ちた眼鏡を定位置に戻しつつ、前のめりで話す南をどうどう、と鎮める。南とは小学校からの付き合いで、中高と何度か同じクラスで、卒業後はまさかの同じ大学・同じ学部。確かに腐れ縁ではあるが、俺は南を『そういう』風に見たことはないし、俺の勘が正しければ、こいつから『そういう』風に見られたことはない。いや、こうなってしまっては、それも分からないけど。
「とりあえず、場所を変えよう」
俺が来た道を戻り研究室へと向かうと、南は黙ってついてきた。
*
ほら、と自販機で買ったミルクティーを差しだすと、南はサンキュ、とそれを受け取った。
「なんなんだよ、結婚って」
「うん、俺、なんかいろいろイヤになっちゃってさ」
これまた予想外の発言でますます意味が分からないが、とりあえず、続けて、と先を促した。
「もうイヤなんだよね。『好き』とか『嫌い』とか。あの人と一緒にいるとあの人がこうなって、こっちと話すとこっちがこうなってとか。めんどくさくない?もうムリだわって思って」
要するに、人間関係が面倒くさくなったということだろうか。いまだに話が見えないまま、南のさらさらと揺れるブリーチしたての前髪を眺めていた。
「それで、なんで俺と結婚?わざわざ男の俺じゃなくても、女なんていっぱいいるだろ」
「それは」南がいたって真面目くさった顔でこちらを見た。「矢田は俺のこと、なんとも思ってないから」
ほう、これは求婚相手にかけるに相応しくない言葉である。破天荒な男だとは思っていたが、ここまでとは。
「もう俺は人とは関わりたくない。友情も愛情も損得も、もうイヤなんだ。こりごりなんだ」
「で、俺?」
「そう。矢田は俺に友情も愛情も損得も何もない。なーんにも!でも小学校からの付き合いだから、俺のことはよく知っている。俺が一生友情だとか愛情だとか損得だとかとオサラバするには、矢田と一生一緒にいるしかない」
一生一緒なんてフレーズに、こんなに愛もロマンも感じないことがあっただろうか。三木道三もびっくりである。
「……短絡的で、理論もクソもないな。却下」
「なんでだよ!」
「逆になんで俺がそれで『はい分かりました結婚しましょう』って頷くと思ったんだよ」
「俺と結婚すれば、矢田もそういうめんどくさいのから解放される」
「おまえと一緒にするなよ」
「じゃあおまえは友情だの愛情だの、そういう人生がいいの?」
「そうとは言ってない。でも、南と結婚するメリットもない」
はあ~っと南がクソデカため息をついた。いや、ため息をつきたいのは俺の方なんだが。
「ボウヤの矢田にはまだ分からんのさ」
「はあ」
「とにかく俺はもう、他人とは有機的な交流を持ちたくない。矢田もいずれそうなる」
「ならねえよ」
「なるって。また来るわ」
「何度来たって、お前とは結婚しねえぞ」
俺の言葉を背中に受けながら、ヒラヒラ、と手を振って南は研究室から出ていった。
しばらく何も考えることができず、部屋の片隅でコーヒーメイカーがゴポゴポと湯を沸かす音を聞いていた。
「南が、俺と結婚……?」
実際に口に出すことで思考が整理される、とよく聞くけど、あれは嘘だ。結婚、ケッコン、KEKKON。その響きはどこまでも非現実的で、いまだ脳をかき回し続ける。
南俊一は、絵に描いたような好青年である。中学・高校とサッカー部で、勉強は中の上、スクールカーストは上位だが男女関係には案外真面目で、高校3年間はずっとサッカー部の女マネと付き合っていた。大学に入ってから髪を金髪にしたものの特にそれ以外高校と変わったところはなく、今は大学の講義を受けつつフットサルのサークルに参加しつつ居酒屋のバイトをしている、ごくごく普通の好青年だ。
対して俺は、絵に描いたような真面目でなんの取り柄もない男である。中学・高校とクラスの委員長を務め、図書委員で、趣味は映画鑑賞、おまけにあだ名はどこにいても『メガネ』だ。そんな男に、あの南が「結婚しよう」と声を掛けたのだから、人生ほんとに分からない。BLマンガかよ。
昔から南の突拍子もない言動でしばしば驚かされてはきたが、『結婚』て。あの少女漫画のヒーローみたいな南が人付き合いに疲れてしまったのも、その解決策がよりによって結婚だというのも、かなりの驚きなのだが、それよりも。それよりもだ。南は気づいているだろうか。
「南……、お前、俺のこと信頼しすぎなんだよ」
鞄から手帳を取り出し、開く。そこには一枚の写真が挟まっていた。写真の中でピースサインをしているのは、中学時代の、ユニフォームに身を包んだ南。
『4月8日。大学の入学式で、信じられないことが起きた!南が、大好きな南が、同じ大学の、同じ学部だった!これは、きっと神様がくれたチャンスだ。今度こそ、ただのクラスメイトじゃなくて、友達――いや、もっと深い中に。それにしてもまた4年間、南と一緒にいられるなんて。夢みたいだ。南と、ずっとずっと、一緒にいれたらいいのに。』
俺はそっと今日のページを開き、今しがた起きた一部始終を書き始める。
「……俺ほど、友情だとか愛情だとか損得だとかで動いてる男もいないだろうに……」
【完】
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